37.四季読みの上空で
宿の部屋に買ってきた物を置き、再出発の準備を整えた。
外に出れば、陽の光がオレンジ色を帯びて、空で繊細な色の層が織り成されている。
町のはずれ、人のいないところまで離れてからエリアスが右手を差し出した。
「暮れはじめに紛れて、上空から四季読み砦を偵察する」
エリアスに上空へ連れて行ってもらうのは二度目になる。
初めて手を繋いだときは、彼への嫌悪に加え驚きと緊張があったけれど、今はもう当然のように左手を彼の手に重ねていた。
「では、飛ぶぞ」
瞬間、重力から解き放たれたように体が浮く。
空気のベールが一気に被さり、耳にかかる風切り音が周囲の世界と遮断する。
顔を打つ空気の圧に、息がしにくい。
それでも、一度知ってしまった以上、もう地上だけでは満足できないという、爽快感がある。
激しい空気の流れが和らぐと、二人は上空にいた。
投げ出されたような、果てしなく広がる自由。
「やっぱり、すごいな。空は」
眼下で黄金色の穀物畑が波立っている。
町は精巧なミニチュアとなり、はるか遠くに地平の線が見渡せる。
この視界は、神々の世界のものだ。
「これ、耕作地の測量で活用できるんじゃないか?」
「こんなときまでそれか。芯まで領主が染み付いているな」
エリアスが小さく笑う。
「うちの領地は商売や流通でやりくりしているから。測量する耕作地はない。そんな使い方を考えたことがなかったな」
「そうか……便利なのにな。一家に一台エリアスが欲しいくらいだ」
「俺は乗り物の扱いか。そんなに言うなら……今夜は乗ってもらうぞ」
ミルシュカは小首を傾げる。
「エリアス、お前本当に乗り物になってくれるのか? 私を背中に乗せて夜間飛行してくれるのか?」
エリアスは見るからに苛立ち始めた。
「……お前に伝わるわけなかったな。もういい、俺の失言だ」
これ以上、エリアスの活用方法を話し合われる前に、と思ったのだろう。彼は前方に見えてきた茶色の塊を指さす。
四季読み砦だ。
上空から見ると、焼き菓子のような色をした石造りの建物が、砂時計型に地面に貼り付いている。
「あれか? 四季読みの砦は」
「ああ、改修が進んでいるな。要塞というほどではないが、かなり防衛に特化している」
高度を落とし、砦を一望できる地点で留まる。
「ミルシュカ、俺の首に腕を回せ」
「うん、……こうか」
背中からおぶさるような格好になる。
「それでいい。そのまま、しっかり掴まっていろよ」
両手を空けたエリアスは、肩掛け鞄からスケッチブックを取り出し、鉛筆を走らせ始めた。
「なるほど、これなら大師匠と計画を練る時もやりやすい。……けっこう上手く描くんだな」
「偵察部隊だったからな」
全景をスケッチした後は反対側に移動して、高度もさらに落とした。
「あのくびれの上の方にあたる塔、入り口も窓もなさそうだぞ」
「ああ、北塔だな。あれは元々下から上がれない。下側──南塔の屋上に出て、あのくびれ部分が橋になっているから、そこを通って屋上から階下に降りてしか入れない」
「……おかしな構造だとは思うが、侵入者を最後まで寄らせないためには的確なのかもな」
「そうだな、必ず南塔を最上階まで攻略せねばいけないからな」
「なら、重要な……飛行型使い魔に使用した『宝珠』などを保管したり、完成を待っている白の女もそこにいるのではないか」
ミルシュカもエリアスの推測で間違いないと思った。
「たどり着くのが骨だな、警備の人間をどれほど倒していかねばならないか」
「……空が飛べなければな」
「そうか、今飛んでいるのに忘れていた」
「砦の侵入者は南塔で食い止めればいいのだから、人員もそちらに集中していることだろう。南塔屋上から内部に入るところで警備を通せん坊にできたら、北塔にすぐ行って落とせる」
「そこは大師匠に頼もう。大師匠なら、警備の者を傷めず、通さず、耐えてくれるはずだ。職務に忠実なだけの者の被害は避けたいからな」
攻め入る方針が見えてきた。
できる限り、交戦を避け、死傷者を出さずに済ませられるかもしれない。
最初は砦攻めなんて、途方もなかったというのに。
エリアスが力を貸してくれるから、こんなにも心強い。
顔を上げると、夕暮れが訪れていた。
地平線にかかった太陽が、最後の力を振り絞るような鮮烈なオレンジ色を放ち、地上のものはあまねく染め上げられている。
空は紺青からクリーム色へと移りゆき、反対色でできたグラデーションが美しい。
スケッチが終わり、手を取って隣に戻ったエリアスが、ミルシュカを向いている。
夕暮れの気流の変化は大きな風を生み出し、髪も服もはためいていた。
「ミルシュカ」
名を呼ばれて、悟った。
──回答の時間だ。
「うん。わかってる」
エリアスと、二人でずっと一緒に生きていきたい。
その願いは絶対だ。
逃げてもいいと言ってくれたけど。でも。
さっき、エリアスに「領主が染み付いている」と言われて気がついた。
意志が固まったことがある。
「私は、心の芯まで領主だから、やはり逃げられない」
見つめたエリアスの瞳は、揺れもしない。
彼もこの答えを予想していたのだろう。
「私だって、お前と二人で生きていきたい。でも、それならちゃんと心の底からお前との生活を楽しめる私でいたい。背負わされたものを捨てるのは楽だし、安全で……確実にエリアスといられる。けど……」
ミルシュカは、繋ぐエリアスの手を強く握る。
「私は、捨てたことに罪悪感を抱えて、心の隅に後悔を残しながら生きていきたくない」
静かに、エリアスが微笑んでくれる。
だからこれでいいのだと、ミルシュカは力強く言葉にした。
「逃げずに領地を奪還する。だからエリアス、私に力を貸してくれ」
アイスブルーの双眸がミルシュカをまっすぐ見据える。
「わかった。最初の予定通りだ」
エリアスは力強く言いきる。
「砦を攻略し、お前を辺境伯に戻して俺の妻にする。いいな」
最後に残った太陽の一欠片が、地平線の下に隠れていく。
ミルシュカは、いつも支え続けてくれる協力者に、感謝のキスを贈った。




