36.束の間、甘い夢
逃げる、という言葉にミルシュカは眉をひそめる。
別に追われてるわけではない。むしろ、立ち向かって行こうとしているのに。
エリアスはミルシュカを包むように抱き込んで丸くなった。
「俺はべつにいいんだ」
かすかに息を震わせ、エリアスはやわらかに続ける。
「魔法が使えないお前でも。俺以外の者が本来のお前を見ることができなくても。危険を冒してまで、魔封じ紋を解かなくたって。俺は、お前と一緒にいられるなら、それだけでいい……」
「……でも、それじゃ私は領主に戻れない。領地は? それに、エリアス。結局、戦地に行かなくちゃならないだろう? 一緒にいられない」
言葉を遮るように、エリアスは人差し指でミルシュカの唇にそっと触れる。
「だから逃げないかと言っているんだ。スペルサッティンなぞレイモンドにくれてやれ。度が過ぎれば代官や国王が止めるなりして、領地はそれなりに回してくれるさ。一緒に爵位など捨ててしまわないか? そうすれば俺だって戦地に出る義務を放棄してお前といられる。スペルサッティンにはいさせてやれないが、同じように自然豊かな地方に居を構え、二人で生きていけないか」
目がくらみそうになる。
なんて甘い誘惑だろう。
(私と同じくらい、エリアスだって領地を大切にしている。そこに住む領民の生活にだって責任を感じているはずなのに)
その彼が爵位ごと、すべて捨ててもいいと言うなんて。
ありえない?
しかし、もしそれが叶うなら。
すぐにでも夢想を断ち切らなければ、そうでなければ惹かれてしまう。
即座に否定しようとして──額にコツンと、衝撃が伝わる。
エリアスが自分の額をぶつけてきたのだ。
「頼むから反射的に『そんなことできない』なんて言わないでくれ」
困ったような苦笑を浮かべて、エリアスは呟く。
「俺だって、こんな提案を口にするのに勇気がいったんだ。今までの固定観念で即答されるのはへこむ」
「エリアス……」
「一日……いや、次に日が沈む頃にもう一度訊ねるから。それまでに、ちゃんと考えてみてくれ」
今まで立ち向かうことしか、考えてこなかった。
エリアスがはじめて提示した、「逃げる」という選択肢の与えた波紋が、収まりきらない。第一、これは二人分の人生に関わることなのだ。
「いいのか? エリアスの分の人生まで巻き込むのに、私が決めてしまって」
躊躇うミルシュカにエリアスはうなずく。
「いい。お前の決めた未来で」
エリアスは愛を囁くような真剣さで宣言する。
「どうであろうと、その先で俺は全力を尽くす。お前と……二人で生きるために」
胸に込み上げる、感謝や敬意、親しみ、慈愛……混じりあっていっぱいになる感情に、なんと言えばいいかわからない。
答えすら、求められるのは次に来る夕刻なのだ。
だから、エリアスの両頬を手で挟み、静かに唇を合わせた。
深く求めるのではなく、ただ触れるだけのキス。
エリアスも、今はそれでいいと思ったのだろう。
そっと目を閉じ、ミルシュカを腕枕して抱きしめる。
ほわほわと、温かくて眠くなる寄り添い方。
まるで、初春の陽だまりにいるように安らかだった。
◇◇
セレスタイト伯爵邸を出て六日目。ミルシュカとエリアスはそろって情報収集に繰り出した。
そのはずだった。
しかし、今のミルシュカの耳には評判の高い匠作のイヤリングが揺れている。
鞄の中には、精緻なガラス細工の動物から、工芸の小物、さらに首飾りやアンクレットまで加わっていた。
つい見入ってしまった革のソードベルトだけは、買ってもらって嬉しくなってしまったけれど。
使いすぎではないだろうか。
鞄の中を見下ろすと、罪悪感が出てくる。
「……エリアス、なぜこんなに色々買う必要があるのだ」
エリアスは悪びれもせず言う。
「何か買ってやった方が口も軽くなる。俺の奢りだ。好きに使え」
「ありがたいが、私のものばかりでなく自分の欲しいものを買えばいいだろう」
エリアスはふむ、と顎に手をやって考える。
そして迷いなく答えた。
「お前に似合いそうなものや、お前のそばに置いてみたいものが俺の欲しいものなのだ。お前に金をつぎ込めると思うと止められない。愛しき奢侈の誘引者め」
「私を散財の言い訳にするな。そのお金、領地の領民から得ている資金なのだろう? 領主として、そういうことは、わきまえていたじゃないか」
「もちろんだ。全て騎士団勤務時に支払われていた俺の給金から出している」
完全に私的な財産ではある。
けれど、それならそれで気にかかる。
「騎士団勤務の金って、そんな、大した額じゃないぞ?」
「そうだな、すでに半年分の給金を使ってしまった」
「ほらな! 今すぐ散財を止めよ。べつに品物を買わなくても情報は得られる」
そこから先、町の人々から話を聞き出す際、ミルシュカは無駄遣いしそうになるエリアスを必死で止めることになった。
それでも、何気ない二人での散策は楽しい。
エリアスは時折、ミルシュカを見つめては「この瞬間を閉じ込めてしまいたい」とでも言うように淡く微笑む。
(もしも、爵位を捨ててどこか遠くに逃れれば、こんな日々が続いていくのだろうか)
貴族の生まれは伏せて、ただの町人の夫婦として。
出店に並んでいる男女が目に入った。
市場で買った食材を袋に下げて、笑って買うパンを選んでいる。
(あんなふうに、エリアスと生活するのも、悪くない)
領主としての責任はもう負わず。
市場を歩き、その日の食材を買い込んで、あてもなく寄り道したりして。
エリアスと、笑いあって生きる日常が、当たり前のように続いていく未来。
心の隙間に忍び込んでくる幻想が、ミルシュカを誘惑する。
(夢みてしまう。エリアスと、二人。それが一番楽に、確実に一緒にいられる、だから……?)
昨夜はその案に拒否反応すらあったのに。
ミルシュカは、揺らぐ自分を否定できなくなっていた。




