30.戦場の呼び声
早く目覚めて身なりを整えたミルシュカは、ベッドで身を起こしたエリアスに挨拶した。
「おはよう、セレスタイト卿」
「……また元に戻ってるぞ」
エリアスの指摘に、ミルシュカはぎくっと固まる。
わかっている。
けれど、こうして明るい中で面と向かうと、名前で呼ぶのが途端に気恥ずかしい。
「屋敷の者やユリウス様に変な勘ぐりをされたくない」
「勘ぐりも何も、お前を連れてきた時点で、下衆な想像はされ済みだ」
「せ、セレスタイト卿! 下衆とか、そんなことを言うものでない!」
エリアスはベッドの上で膝を立て、頬杖をつく。
「……また呼んでくれるんだろう?」
「自然に出てきた時に。だんだん……慣れさせて入れ替えていくから」
「なら、いい」
言ってエリアスは軽く手招きをする。
ミルシュカは怪訝に思いながらもエリアスに近づいた。
「ちょっ、こらっ。待て、お前はまだ裸だからいいだろうが。私はもう着込んだんだ。……乱れるだろ」
ベッドから伸ばされた腕に腰を抱かれ、ミルシュカはエリアスの上に下ろされる。
「ミルシュカならなんでもいい、服がいくら乱れてても」
後ろから抱きすくめられ、耳の下をくすぐられる。
「……好きだ」
「んっ、昨夜さんざんそういうのはしただろ、もうお預けだ」
「気前の悪いことを」
「午前なんだぞ、だめったらだめだ。もうっこの絡み蛸! 脱穀腰つき男!」
エリアスは気が抜けたように眉を下げる。
「なんだ、その出来の悪い罵倒は」
「お前だ、お前。夜ときたら脱穀でもできそうなくらい動いていて」
「ああ、……求められたから」
「はぁ?」
「求められたから求められただけ応えただけだ。お前に応えるのは、胸が熱くなった」
「罵られても効かないくらい馬鹿になってしまったか」
エリアスが小さく笑い声を漏らす。
「そうだ、恋が叶って馬鹿になってる。俺の煉獄なるセイレーン。ただ一つきりの致死毒」
「お前こそなんだ、その趣味の悪い形容の仕方は。お得意と聞いた美辞麗句をどこへ忘れてきた」
「俺なりのお前だ、ミルシュカ。俺に止めを刺せるのはお前だけだ。他のもの全て、お前と比べればなんの痛手にもならない」
「本当に馬鹿だ……。すっかり口説き文句を考える頭が馬鹿になっている」
こんな、禍々しい喩え方で胸をときめかせる女があるか。
そう言いたいのに。
胸に甘さが広がる。
エリアスが、心の底から思ってくれている。
ミルシュカ以外は、彼の魂に致命傷を与えられないと。
エリアスを向いて、視線を交わし合う。
「だめだな、私も馬鹿にされたようだ……好き……エリアス」
瞼を閉じて、そっと待つ。
そうすれば、誰よりもミルシュカを理解してくれる彼が、唇に優しいキスをくれた。
◇◇
「……スクエータの飛行使い魔、トライアンをやったやつか? ヘルメスも出会ったか……」
部屋を訪れたユリウスの話に、エリアスが鎮痛な面持ちで返す。
話題に上がったヘルメスは、彼らの末の弟であるという。
「ヘルメスは飛行の腕が劣ります。最近、兄上の放蕩が治まったという噂も広まっており、兄上に、前線に来てもらいたいという声がちらほら出ています」
エリアスは沈黙したまま難しい表情を浮かべる。
その原因は自分にあると察し、ミルシュカはエリアスを心配して見つめた。
「今回は、王の声がかかるまで出ない。領地のこともあるが、他にやらねばならないことがあるんだ」
「兄上? スクエータを挫かねば国自体が危うくなるのですよ?」
「それでもだ。そこは王が判断するだろう。それより、今日の伝令は? 俺の頼んでいる情報の伝達はなかったか?」
そちらの情報は、未だに集まっていないようだった。
「お望みの報せはありません。……しかし、兄上自身には良い進展があったようですね。今日はそれで我慢ください」
「ユリウス、……お前」
「俺はすでに失恋していますから。駄々をこねて兄上から譲ってもらえなかったのは初めてになります。幼少の頃はいつも、すみませんでした」
ユリウスはミルシュカとすれ違う際、片目をつぶって合図してきた。
ささやかな微笑みと共に、彼はドアをくぐっていった。
「祝福……かな、彼には悪かったな」
「悪いもんか、兄の連れてきた女に横恋慕して、キスまでしたんだぞ!」
「……何も感じなかった。数に入れなくていいだろう」
「手の甲でもこだわったくせに、自分の事にはゆるくないか」
まだ嫉妬を燻らせているエリアスを笑って、ミルシュカは両思いの朝に浸るのだった。
◇◇
常連になった情報屋でエリアスが冊子を入手してきた。
外の街路に面したベンチに腰掛け、手渡される。
「スペルサッティンの四季報だ。春までの出来事がまとまっている」
「ありがとう、やっと中身ある領地の事情に触れられる」
ページをめくって概要だけ飛ばし読んだ。
記事の内容から故郷に大した変化はない。
にもかかわらず。
「……作付け面積がずいぶん減っている。これでは備蓄できない……いや、収穫次第で備蓄から回すしかなくなる」
領地各地区の農地計画報告に並んだ細かい数字を見て、うなってしまった。
レイモンドが遊び呆けているだけなら、例年と同じ計画で進めるはず。なのに、そうではなかった。
「あるいは、作付けへ回す労力がとれないほどの『何か』があった……?」
「ミルシュカ?」
「すまないセレスタイト卿。考えすぎだといいんだが、しかし今年の収穫が大豊作でもなければ厳しいのは事実だ。レイモンド……あの者が備蓄を調整しつつ流していけるか不安でもある」
エリアスが横に座ったまま、腕を伸ばし抱きしめてくれた。
彼はミルシュカを落ち着ける時、いつもこうしてくれる。
ひと瞬きの間、彼の感触に酔う。
「なあ、エリアス。往来だ。ありがたいんだがな、控えろ」
「俺は気にしない。このままお前の唇を奪ってしまいたいくらいだ」
「やめとけ、そこが情報屋なんだぞ。セレスタイト伯爵、接吻! 熱愛! とか記事になるのは遠慮したい。通いにくくなる」
そっと手を重ねられた。
「今はこれで勘弁してやる」
拗ねるように反対を向くエリアスに、ミルシュカは頬を緩めた。
こういう子供っぽいところも、今では愛おしい。
◇◇
セレスタイト邸に帰り着いた二人は、玄関でユリウスに出迎えられた。
その表情の硬さが、よくない話があるとすでに告げている。
「おかえりなさいませ兄上。早馬が報せを届けてきております。一つは探らせていたスペルサッティン。彼の地の領内上空を使い魔が飛行していたという目撃情報」
目を見張ったミルシュカに、さらなる報せが続く。
「もう一つが、ヘルメスの負傷。さらに王から、兄上を戦地に欲しいとの要請です。『二週間程度なら猶予をやるので、前線に行く準備を整えよ』とのことです」
繋いでいたエリアスの手に強すぎる力がこもる。
離れたくないという、彼の戸惑いが伝わってくる。




