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26.岸壁の途上

「…………っく」


 エリアスの手は小刻みに震えていた。


 契約書の端を握り、引き裂こうとする指に力を込めながら、それでも彼は破らなかった。


 静かな葛藤の末、乱雑に契約書を握りしめると、勢いよく懐に戻す。 

 そして、痛みを吐き出すように、苦しげに言い放った。


「契約は……破棄しないっ!!」


 くるりと、背を向けたエリアスは、駆け出した。


「セレスタイト卿!」


 エリアスの後を追おうとするミルシュカを、ユリウスが割り込んで阻む。


「ユリウス様、退いてくれ。セレスタイト卿が行ってしまう。セレスタイト卿がっ、私は……」


 胸の奥が締め付けられて苦しい。

 エリアスを追いかけなければ、取り返しがつかないと思えて。


「『私は』どうなのだミル。俺はお前への想いを口にした。返事をもらっていない」


 ユリウスが恋情を盾に立ちはだかる。

 しかし彼には悪いが、今はどうでもいい。

 ミルシュカの心にはエリアスのことしかない。


「それなら即答してやろう」


 揺るがず言い切る。


「ユリウス様、貴殿では役者不足だ。私は、セレスタイト卿を追わないと。私は彼でないと……だめなんだ」


「……っ」


 道を譲ったユリウスをすり抜け、エリアスに追いつこうと走った。

 しかし、エリアスの姿はもうどこにもない。

 諦めきれず、彼の走り去った方向へ行って探しても、見つからなかった。


「セレスタイト卿……どこへ?」


(ここは家なのだから、戻ってくる……のだよな?)


 一人、エリアスの居室に戻った。

 彼の香りが残る、肝心の本人の部屋の空虚さに、人恋しさが増す。

 

(つい口に出るまま言ってしまった。『セレスタイト卿でないとだめ』とはなんだ。私にとってセレスタイト卿は何だというんだ)


 心が揺れて、落ち着かない。


 旧市街で見た光景が、頭をよぎる。


 エリアスが他の女を情熱的に口説いていた姿。

 夕刻の庭で見せた、傷ついた顔。

 不敵な澄まし顔、皮肉たっぷりに得意げな表情、たまに見せる優しい眼差し。


 エリアスを思い返すたび、胸が甘くも、苦しくもなる。


 今、彼はどこにいるのか。

 ユリウスと恋仲だと誤解されたままだ。

 一体エリアスにどう思われているのだろうと考えるだけで、窒息してしまいそうになる。


(色々ありすぎて混乱する……)


 エリアスに抱く感情に名前をつけられない。


(私にとって、セレスタイト卿とは)


 離せない。

 ミルシュカからだって、エリアスの手を離すことはできない。

 援助してくれているからとか、契約相手だからというのではなく。もっと。


(……かけがえのない存在?)


 今それだけが、はっきりしている。



◇◇



 エリアスは、二日間戻らなかった。


 セレスタイト伯爵邸に寄っているかすらわからない。

 彼がようやくミルシュカの前に姿を現したのは、三日目の午前になってから。

 遠出へ連れ出すためだった。


「セレスタイト卿! 今までどこへ……ちゃんと話をしたいんだ」


 ミルシュカはエリアスの腕に掴みかかって立ちはだかった。

 しかし、彼は顔を背けたまま、活気のない声で呟く。


「必要ない。……出るぞ、馬車に乗れ。解呪士が見つかった」


「……探してくれてたのか。……すまない」


 応えずエリアスは馬車の待つ表へ行くよう示し、ミルシュカも黙ってついて行った。


 馬車の中で、隣にいるのに。エリアスのことがとても遠く感じられる。


「あの、先日の、ユリウス様の件だが、誤解だ。私は……彼とは何も」


「ああ」


「あのキスだって、油断した隙にされただけで」


「……そうか」


 エリアスは心ここに在らずで、言葉を重ねても真にとってもらえない、彼の心を持ち上げられない。

 ミルシュカも諦めてしまって、馬車は沈黙に支配された。


 到着したのは、くりぬき式の住居が並ぶ崖だった。

 岩壁に沿うリボンのようなか細い道を登って、さえない木戸の前で止まる。

 エリアスは叩けば割れそうな木戸をノックした。


「先触れで話は聞いているだろう。セレスタイト伯爵エリアスだ」


「お入りくだされ」


 濃い緑のローブを被った老女は、見るからに特殊な術を行いそうな風貌だった。


「解呪を頼むと聞いているな。ミルシュカ、胸を」


 魔法衣の合わせから右胸を出し、老女に見せる。


「ん、うーむ。かなり高度な隠蔽じゃな。わしでも目を凝らしてうっすらとしか……」


 エリアスが紙片を差し出す。


「これがまやかしなしの紋を写したものだ。解くことはできないか?」


 エリアスの差し出した紙をしばらく見つめ、老婆はゆっくりと首を振った。


「わしの……真っ当な解呪士の知る紋とは体系から異なる。理論を知る術士か、あるいは理論も飛び越えた解呪の力が必要じゃ」


「そうか……すまなかった。話の分くらいは代金を払う」


 エリアスと二人、出ようとしたが、エリアスだけ老女に呼び止められた。


「わしの雇い主はセレスタイト伯爵になるのだえ? ならば伯爵にだけ話しておきたいことがある」


「……ミルシュカ、待っていてくれ」


「ああ、では私は先に外にいる」


 退室して、岩壁のスロープで待つ。

 崖の風は強く、ミルシュカの髪をなぶって乱した。


「済んだ」


 たった一言をかけたきり、エリアスはミルシュカを追い越して道を降りていく。


「なあ、セレスタイト卿。解呪ならまた他の者を探せば……」


「白の解呪士を探すぞ」


「え?」


「もうこの際だ、一瞬で高度な回復が使える術士でもいい。徹底的に情報を集める」


 方針の転換を言い渡され、うなずくしかできなかった。


 どうせ、ミルシュカはセレスタイト伯爵家の力がなければ噂話も集められない。

 解呪士だろうと白の解呪士だろうと、話違いな気がするが回復術士でも、エリアスの判断でいい。


 あとはエリアスに黙りこくられたまま屋敷に帰り着いた。

 すぐ部屋に入ったミルシュカと異なり、エリアスは自室を通り過ぎてどこかへ行ってしまう。


 また、しばらく一人寝だと思ったが、彼は夜中になってひっそりと戻ってきた。


 ベッドに乗り上げる振動と、後ろで毛布が持ち上がる感覚。

 久しぶりのエリアスの気配に緊張した。

 この部屋で初めて肌を合わせて寝た日のように、色めいた雰囲気を消したエリアスに、ゆるく抱き寄せられる。


「……セレス……タイト卿……?」


「……眠るだけだ。だから、黙ってこうさせてくれ」

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