14.打算と契約
ミルシュカの決断を、エリアスがうなずいて受ける。
口角が少し上がって、表情が優しく見えた。
「仕方のないやつ。よし、なら契約を結ぶぞ。それに、まずは朝食だ。腹が減った」
エリアスはさっとベッドを降りて身支度するので、ミルシュカも部屋の方々に散らしてしまっていた衣装を回収する。
一苦労して踊り子姿を整えたというのに、エリアスは目くじら立てて文句をつけてきた。
「おいっ、ミルシュカ、まだその格好でうろつく気なのかっ!? 」
「だって、他の服はないんだぞ? 裸に毛布よりマシだ」
「面積的には毛布を巻いていたほうがマシだ馬鹿」
「動きにくいんだ。第一、毛布は服じゃないぞ馬鹿」
眉を寄せて唸り声をあげたエリアスは、部屋を飛び出し、時間を置いて戻ってきた。
「朝食と一緒に手頃な衣服を頼んできた。だから、絶対に今の姿を他人に見せるな」
「他人って、もうお前に見られているぞ」
「俺はっ、……俺は数に入らない。他人じゃないっ」
(その論理はなんだ? 貴重な協力者ではあるが。……私の衣装の着方はおかしかっただろうか?)
何気なく壁にかかった姿見を見て、ミルシュカも仰天した。
「おい! セレスタイト卿、大変だ!」
「なんだ?」
「この宿のベッド、奇怪な虫が出るようだぞ! 私の体を見ろ、こんなにも虫に食われている!」
鏡に映ったミルシュカの体には、赤紫めいた痕が無数についていた。
露出の多い踊り子の衣装ゆえ、どこがどうなったか一目瞭然だ。
「まだ痛みや痒さは出ていない。しかしこの皮膚の色からして、あとから相当ひどい症状が出るかもしれない……」
深刻なミルシュカに対し、エリアスは顔を真っ赤に染めている。
「ひどい症状など出るか! 悪かったな、奇怪な虫で!」
横目を向けたミルシュカにエリアスが我慢ならないといった様子で叫んだ。
「それは俺が吸った痕だ! すまなかったな遠慮がなくて!」
エリアスがやったこと。理解できず、ミルシュカは首をかたむけた。
「セレスタイト卿が!? なぜこんなところを吸うのだ? 人の体液でも摂取する性質なのか? たまに耳する『昆虫系男子』というやつか」
「誰が体液なぞ摂取するか! キスマークも知らんとは無知すぎるぞ。あとたぶんその昆虫どうたらの単語、お前の思っている意味と異なるからな!」
体液を吸われたわけでないとわかって安心したが、なぜエリアスがミルシュカの体を熱心に吸ったのか、答えてもらえなかった。
朝食と衣服の到着で会話が中断されたからだ。
届いた服は首元まで襟がついていて肌が隠れる貞淑な意匠だったので、ロマンティックにすぎる雰囲気であることは無視して着替えた。
エリアスに身体を見られる心配が消えて人心地つく。
食後、エリアスは机で羊皮紙と睨めっこをしていた。
ややあって、手持ち無沙汰だったミルシュカに、今しがた作成したばかりであろう書類を差し出す。
『協定契約書』
そう書かれた書類には、セレスタイト伯爵エリアスの協力のもと、ミルシュカが領地奪還を果たせばエリアスの妻となる。という例の約束に関する事柄が続き、すぐ下に署名欄がある。
「できたぞ。そこに署名と、辺境伯の印章代わりに血判をよこせ」
羽ペンとナイフが置かれたベルベット敷のトレーを手渡されたが、それより気になるのは契約書だ。
署名の下、三つ折りにすれば三分の一に当たる部分が、折られたままだ。
「なあ、セレスタイト卿。私を侮りすぎではないか? なんだ? この不自然な折れ目は」
畳まれているところを広げれば、細かい字で注釈がずらずら綴られていた。
エリアスの舌打ちに、やはりこいつは性格が悪い信用ならないと、ミルシュカは警戒を強める。
隠れていた部分を広げれば、婚姻後の過ごし方について取り決めが書いてあった。
婚姻関係にあっても、ミルシュカはセレスタイト領ではなくスペルサッティン領で領主をすることを認める。定期的にエリアスが通う。
二人の子どもはそれぞれ順にセレスタイトとスペルサッティンの後継につける。など、意外にもミルシュカに配慮した内容である。
領主である以上、跡取りは最重要と言っていい事柄ではあるが、エリアスがミルシュカとの間にできる子どものことまで想像して契約書を作製したというのは居心地悪い。
それに──
「この一番最後の『行動を共にする期間、甲であるミルシュカは乙エリアスと毎夜肌を合わせて眠ることを義務とし、この時乙の求めがあれば甲は乙の望む行為に応じなければならない』というのは……って、ふざけるな!」
椅子に足を組んで座り、ふんぞり返っているエリアスが言う。
「ふざけてなんかいない」
「ならますますタチが悪いぞ! ま、毎日、肌を合わせてって……どういうことだ!?」
「どういうこともなにも。俺は一人寝なんて嫌だ。お前は俺の嫁になるんだろ。毎夜少なくとも上半身は裸で抱きしめて寝させろ。昨晩はすでにしているんだ、あれで眠れていたことだし、いいだろう」
いい訳がない、さらっと認めさせようとするなと思うが、やはり問題なのは次の一文だ。
「お前の望む行為ってなんだ、不穏にすぎるぞ!」
「……裸の女を抱きしめていればある種の欲望が高まりもする。妻にする女がそこにいるのに他の女で発散するわけにもいかないだろう。そこは俺に応じろ」
「な、な! 昨夜みたいなことを、まだ……?」
片手で髪をくしゃくしゃに乱しながら、エリアスは言い放つ。
「するに決まっているだろう、男はしないと溜まるんだから。もちろん、お前は今傷を負ってるようなものだし数日は猶予をやる。月の障りがあったり、俺が疲れている時なども求めない」
お断りだ! と言いかけてミルシュカは飲み込んだ。
彼と契約を結ばず無一文で別れれば、どうせ色んな男に抱かれ続ける羽目になるだろう。
ならば、貴族であり紳士的なエリアスのほうがマシだ。それで領地にも帰れる。
口を引き結び、不満を喉元までで抑え、ミルシュカは羽ペンをとって署名した。
ついで圧迫して鬱血させた左薬指にナイフを入れ、血判とする。
指から滲み続ける血に、手当できるものがないか探していると、エリアスが素早く左手をとって口付けた。
舌で血を舐めとられ、ミルシュカは狼狽した。
その舌が昨夜どう動いたかを連想してしまう。
「……や……」
「……んっ、ほら、血は止まったぞ」
勢いよく左手を引き抜き、身構える。
「セレスタイト卿! やはり人の体液を吸う癖があるのではないか!」
「誰がそんな癖を持つものか! まったく……お前はこの辺の機微に疎いのだな」
ミルシュカから視線を外したエリアスは室内を横断し、ベッドサイドを確かめる。
「持ち物をまとめておけ、あと少しでチェックアウトする」
「ここを出てどうする気なのだ?」
「お前を見つけたのは本当に偶然だったんだ、お前がすぐ領地奪還に向けて動きたいのは理解するが、動くには準備を整えなければ。俺の家、セレスタイト伯爵家に帰る」
明らかなことだった。
彼も領地を預かる伯爵なのだ。ミルシュカを手助けするにしても、日程の調整をして時間をつくらなければできない。
その手を借りられるだけでも、これまでと比べればずっといい。
ミルシュカは踊り子の衣装を小さな鞄に詰め、舞踏用の剣を持って支度した。




