なんて素晴らしい人生だろう
集会があったあの日から、有理の生活は一変した。相変わらずクラスでは浮きまくっていて、友達の一人もいなかったけれど、少なくとも理不尽にイジメられることはなくなった。有理のことを馬鹿にしていたヤンキー共は急によそよそしくなって話しかけてくることもなくなり、あの日、駅前に一緒に行ったボランティアの女生徒たちは遠巻きにして避けるようになった。
そういう態度をされると普通の人は傷つくのかも知れないが、少なくとも有理に限っては安堵の気持ちのほうが強かった。そもそも、有理は彼らと仲良くなりたいわけじゃないのだ。有理は地球人、彼らは異世界人ハーフ。有理は名の知れた中高一貫校の卒業生だが、彼らはみんな中卒だ。生きてきた世界も違えば、年齢も違うのだから、話が合うわけがない。仲良くなる以前の問題だった。
この学校はいつも誰かが喧嘩をしていて、教師が怒鳴り声を上げているのが日常茶飯事だった。そんな学校があることを、彼は知識としてしか知らなかった。この理不尽な暴力のど真ん中で彼は何の力もなく、いくら馬鹿にされても口答えできないし、それこそ喧嘩になったら死ぬかも知れないという恐怖から、身を低くして過ごすしか無かった。そんな一人きりの心細さの中で、自分は東大生なんだぞ、おまえらより偉いんだぞという謎の自信が、唯一心の支えだった。もうそんな慰めが要らないのだとしたら、なんて素晴らしい人生だろう。
そして教師の有理に対する期待値も下がって、放課後や休日まで無理やり呼び出されて補習を受けさせられることもなくなった。もしかしたら桜子さんが何か言ったのかも知れないが、それまでの今すぐにでも魔法を使えといったプレッシャーはなくなり、そのうち出来ればいいやくらいの感じに変わっていた。大体、出来ないものは出来ないんだから、いくらやれと言われたって、無理なものは無理なのだ。どうやら彼らにもようやくそれが分かったらしい。
そして当の本人の心境も変わった。物部有理という人間は、なんやかんやでエリート一家の生まれで、小中高とクラスの上位グループに位置し、一浪はしたが、最終的には東京大学に合格したという経歴を辿ってきた。だから自分が『出来ない』という経験がなく、ここまで手も足も出ない状況に放り込まれたのは初めてだったのだ。
それ故に、そもそも魔法なんてものは普通の人間には使えなくて当たり前なのだが、彼自身その出来ないという現実が受け入れられず、そのため補習を無理やりやらされているというのに、腐らずにやり続けてしまっていたのだ。そして得てして、教師はこういう頑張り屋を好むものである。
しかし一旦まるで才能なしの烙印を押され、劣等生であることを受け入れてみると、途端に気持ちが楽になった。教師もがっつかなくなり、本人もやる気がなくなったお陰で、授業も有理のために滞ることなく、定刻で終わるようになった。多分、それがクラスメートに絡まれる一因にもなっていたのだろう。
ともあれ、有理の学校生活は平和そのものとなり、飯も喉を通るようになると体力も回復し、その味の素晴らしさから、この学校に来てよかったとさえ思えるようになっていた。
桜子さんはあの日以来、部屋に来ることはなくなった。いつも学校から帰ると、だらしない異世界人がビールを飲んで管を巻いている、という光景を見なくて済むようになったのは有り難かったが、思った以上に静かな部屋の中で一人でいると、たまに自分が南極基地にでも居るんじゃないかという肌寒さを覚えた。
思い返せば、この学校に来たときからずっと彼女には助けられていたように思える。彼女はきっと、有理がおかしなことをしないように見張っていたのだろうが、それがなんやかんやで精神的な支えになっていた。だから彼女が来なくなったのは、もうそんな心配はなくなったということなのだろう。
部屋の片隅では、取り残された冷蔵庫が時折ブーンと機械音を発しており、中にはキンキンに冷えたビールがまだ沢山入っていた。でもそれを飲む者はもういない。
因みに、別に彼女はいなくなったわけではなく、窓を覗けば、相変わらず隣の工事現場で働いていた。彼女が鳶の親方だというのも本当だったらしく、だから会いに行こうと思えばいつでも会いに行けた。見上げればいつも彼女は高いビルの外壁に張り付いていたり、忙しそうに飛び回っており、気さくな彼女のことだから、きっと声を掛ければすぐに降りてきて話をしてくれただろう。でも、そうしなかった。
それは彼女に掛ける言葉がないとか、会いたくないとか、そういう理由ではなく、単に恥ずかしいから、シラフでは会いに行けなかったというだけの話だ。だから……
5月も半ばを過ぎ、夜も暖かくなってきた頃、有理は冷蔵庫の中から缶ビールを二本掴んで部屋を出た。季節柄、まだ缶が汗をかくほどではなく、いつまでも手の中でひんやりとしている。これみよがしに酒を持ち歩いていると、彼の姿を見た寮生がギョッとして振り返り、ロビーに降りていくとたまたまそこにいた鈴木に見咎められたが、没収しようとする彼に向かって今日は自分の誕生日なのだと言うと、彼はちょっと考えた後、今日だけは見逃してやるから、これからは見えないところでやるんだぞと言って去っていった。その背中を見送りつつ、なんだかんだいい先生なのかも知れないと思った。
寮を出て隣の工事現場に入り、またいつかの夜みたいに真っ暗な階段をえっちらおっちら上がっていく。電気が通ったらしく、非常口を示す緑のランプがあちこちで光っており、それがかえって薄気味悪かった。なんだか夜の学校とか病院とか、そんな雰囲気がするのだ。
内装もかなり進んでおり、前はぽっかりと口を開けていただだっ広い空間が埋まって、全体的に以前来たときよりも狭く感じた。この調子なら、完成まであと少しなのかも知れない。ものすごい急ピッチだが、そういえば今年中にあと一軒建てると言っていたことを思い出す。それはつまり、まだこれからも生徒が増えるということなのだろうか? これ以上、ヤンキーが増えることだけは勘弁願いたい。
カツンカツンと足音を立てながら階段を上り続け、やっとたどり着いた屋上へ続くドアを開けると、ビューと夜風が顔に吹き付けてきて、瞼を閉じ、また目を開ければ、その先に桜子さんが立っていた。有理はそんな彼女に向かって缶ビールを放り投げた。彼女はそれを黙って受け取り、プシュッとプルタブを引き上げた。
月に照らされて、まるで自分で光ってるみたいに白く輝いて見える。本当に、黙ってさえいればどこかのお姫様みたいなのに……と思ったところで、本当にお姫様だったことを思い出し、別に面白くもなんともないのになんだか笑えてきた。敬語を使ったほうが良いんだろうか。
今日も風が心地よく、月が綺麗な夜だった。




