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神が無限であるなら

 憧れだったグランド・キャニオン縦断に挑んでいた都原(いちはら)は、なんとゴール目前で友人のパテルが倒れているのを発見した。どうして彼がこんな場所にいるのか分からなかったが、とにかく怪我をしている友人を放置しておくわけにはいかないから、都原は慌てて駆け寄るとパテルのことを抱き起こした。


 暗闇の中で見たパテルの顔は死人のように見えたが、都原に抱き起こされると辛うじて意識を取り戻したらしく、薄っすらと開いた唇をピクピクさせながら、


「み……水……」


 と、か細い声で呟いた。どうやらのどが渇いているらしい。都原はすぐバックパックにぶら下げていた水筒を手に取ると、片手でなんとかキャップを外してパテルの口にくっつけた。自力で飲む力がないようなので、唇を湿らすようにゆっくり注ぎ口を傾けると、暫くして彼の喉がゴクゴクと動いているのが見えた。


 パテルは一心不乱に水を飲み続けている。昼間のバックパッカーが言っていた迷い込んだ観光客というのがパテルのことなら、彼はどれくらいの間ここに居たのだろうか? もしかして予定の日に現れなかった都原のことを心配して探しに来てくれたのかとも思ったが、冷静に考えて、彼がそんな無謀なことをするとは思えなかった。仮にするとしても、まずレンジャーに相談するだろう。


 どうして水も持たずにこんな場所にいたのかは気になったが、今は介抱する方が先だ。都原は水を飲んだパテルが落ち着くのを待つと、


「肩を貸してやるから、歩けるか? こんな場所よりは、川岸まで下りた方が良い」


 都原が提案すると、パテルは頷いて肩に腕を回してきた。水を飲んで多少元気を取り戻したようで、思ったより足取りもしっかりしていてホッとした。


 支えるように川岸まで下りてくると、都原は荷物を下ろしてコットを組み立て、パテルをその上に寝かした。彼は必要ないと言っていたが、やはり相当疲れていたらしく、すぐに横になった。月明かりに照らされた額の傷口がテラテラと光っていた。


「それで、一体、何があったんだ?」


 バックパックから救急箱を取り出し、応急手当をしながら聞いてみると、彼は暫く考え込むようにしてから、


「喉が乾いててな……水が飲みたくて耐えきれなくなって、ここまで下りてこようとしたら足をすべらせてこのザマさ」

「いや、そうじゃなくって、そもそもどうしてこんな場所に居たんだって聞いてるんだよ」


 ここは世界で最も過酷な死の谷である。何の準備もせずに足を踏み入れていいような場所じゃない。何を考えてこんな場所に居たのかと聞いているのだが、パテルは押し黙ったまま、一向に口を開こうとはしなかった。


 元々、口数が少ない男だったが流石に様子がおかしすぎる。そんなに言いにくいことでもあるのだろうか? 都原は不審に思ったが、問い詰めても仕方ないと、まずは手当を優先した。


 傷口を消毒してガーゼを当て、包帯で固定する。傷口はほとんど閉じていたから、暫くすれば血は止まるだろう。一連の手当に水を使ったから水筒の水が切れかけており、都原は鍋とガスコンロを取り出すと川の水を煮沸し始めた。グツグツと十分沸騰するのを待ってから水筒に詰め直していると、ようやく観念したのか、パテルが話しかけてきた。


「……実は……お前に預かってほしいものがあるんだ」

「預かってほしい? そりゃ構わないけど、何をさ?」

「これだ」


 そう言うとパテルは無造作にポケットに手を突っ込み、そこから小さなスティックを取り出してきた。一見してUSBメモリのようである。何の変哲もないストレージだ。都原はそれを受け取ると矯めつ眇めつしながら、


「これはなんだ? 中には何が入ってるんだ?」

「うん……」


 するとまたパテルは押し黙ってしまった。見た感じ、別に意地悪をしているわけでも、不機嫌なわけでもなく、どちらかと言えば何かを言い倦ねているような、そんな感じだった。都原は肩を竦めると、


「まあ、俺とお前の仲だし、理由は聞かないけどさ。明日じゃ駄目だったのか? 予定より到着が遅れたのは悪かったけど、駐車場で待っててくれれば、明日にはノースリムにたどり着くはずだったのに」

「まったく、その通りなんだが、俺も何から話していいのか……そもそも、お前に話していいのかも、お前に話すべきなのかも、まだ良く分からないんだよ」

「分からないって……どういうことさ?」

「実を言えば、俺もまだそのUSBの中身は見ていないんだ」

「見てない? どうしてそんなものを俺に?」

「ああ、だからちょっと待ってくれ! 考えをまとめる時間をくれ」


 矢継ぎ早に質問を返す都原に対し、パテルは視線を逸らすようにそっぽを向くと、大げさに手を振り上げてお手上げのポーズを見せてから、がっくりと項垂れて溜め息を一つ吐いてみせた。


 その芝居がかったリアクションがまったく彼らしくなくて、都原が面食らっていると、パテルは今まさに考えながら話しているかのように、一つ一つ区切りながらゆっくりと話し出した。


「4日前、グランド・キャニオンの入口でお前と別れたあと、俺はラスベガスにいるはずの教授に会いに行くって言ってただろ?」

「ああ」

「その言葉通り、俺はラスベガスに行ったんだよ。ところが、指定されたホテルのラウンジに行っても教授は現れなかったんだ。忙しい人だからそういうこともあると思って、俺は大して気にも留めずに帰ろうとしたんだけど、そうしたらホテルのフロント係に呼び止められて、手紙を渡されてさ」

「手紙?」

「そうなんだ。どうも教授が予め俺が来るのを見越して預けていたらしいんだ。でも、そんな遠回しなことする必要もないだろう? 電話でもメールでもすりゃいいだけの話じゃないか」

「それもそうだな。それで手紙にはなんて書いてあったんだよ?」

「ああ……それが、呼び出しておいて済まないって謝罪の言葉と、待ち合わせ場所を変えて欲しいって要望だった」


 パテルは一旦そこで区切って、わけが分からないと言った感じに頭を振りながら、


「ところがその新たな待ち合わせ場所ってのが、俺とお前がグランド・キャニオンに行く途中で立ち寄った街だったんだよ」

「前日に一泊した、あの街か?」

「そうだ。俺もまさかそんなところにとんぼ返りするとは思わず、狐につままれたような気分だったよ。ところがさ、そうして辿り着いた待ち合わせ場所にも、教授はやっぱり来なかったんだ」


 それだけ聞くと、教授がとんでもなく気まぐれな男のようにも思えるが、恐らくは彼の身に何かが起きていたんだろう。パテルもそう思って、何かあってはまずいと、教授のことを辛抱強く待つことにした。


「でもいくら待っても、待ち合わせのレストランに彼は現れなかった。そのうち店員がそろそろ閉店だって言ってきたんで、仕方なく店を出た。外はもう真っ暗だったし、今更家に帰るわけにもいかないだろう? それで俺はあの日泊まったモーテルにまた宿泊することにしたんだが……そしたらさ、そこに教授が訪ねてきたんだよ」

「教授が、部屋に直接か?」

「ああ」

「どういうことだろうか……」


 都原が疑問を呈すると、パテルは鈍いやつだなと言いたげに、


「どうもこうも、俺がどこに泊まるかなんて分かりっこないのに、そんな偶然あり得ないだろう? となると、それまでの経緯からして、教授は俺の行動をずっとどこかで見張っていたんだよ」

「確かに、そう考えるのが妥当かも知れないが……でも、なんのために?」

「もちろん問い質したさ。そしたら教授は答える代わりに、まずはこいつを預かってくれって、それを俺に押し付けてきて……」

「それってのは……このUSBメモリのことか?」

「そうだ。それを俺に押し付けてきて……その……」


 パテルは一字一句同じ言葉を繰り返した挙げ句に言い淀むと、暫くの間、続く言葉を探して口をパクパクしていたが、そのうち諦めたかのように頭を抱えて、突然、おかしなことを言い出した。


「なあ……都原は神を信じるか?」

「はあ? 突然どうしたんだよ」


 そうして友人の口から飛び出してきた言葉が意外すぎて、都原は素っ頓狂な声を上げた。こんな時に冗談を言ってる場合じゃないだろうと突っ込もうかとも思ったが、よく見れば相手の顔が思ったよりも真剣だったので茶化す気にもなれなかった。


「教授がそんなことを言いだしたのか?」

「ああ」


 都原が困惑気味に尋ねると、パテルは首を縦に振って、両手に顔を埋めた。


「もちろん、俺は信じていなかった。馬鹿らしいとさえ思っていた。でも今は正直分からないんだ。もしかしたら神はいるのかも知れない……なあ、都原。もしも神がいるとするなら、それはどんな存在なんだろうか」


 パテルは疲れ果てたかのように俯いている。ため息混じりに吐き捨てたその言葉は支離滅裂で、とても論理的な彼のものとは思えなかった。


 そう、パテルはいつも論理的だったのだ。こんな怪しげな言葉を発するようなやつではなかった。ましてや、なんの装備も持たずにグランド・キャニオンに降りてくるなんて、そんな無謀なことをするやつとも思えなかったし、そこで都原を待ち構えようなんて考えるわけがなかった。


 そんな彼をこんな行動に掻き立てるとは……教授は一体、彼に何をしたんだろうか?


 さっきから聞いてるのに、どうして彼は本質的なことを何一つ答えてくれないのだろうか?


 神についてなんて考えたこともなかったし、正直なところ都原も信じちゃいなかった。茶化すのは簡単だ。おまえは疲れてるんだとでも言えば、彼も納得してこの話はすぐ終わるだろう。USBメモリの中身が何なのかは気になるが、どうせ家に帰れば分かる話だ。急ぐ必要なんてない。


 だが都原は、今ここで彼とちゃんと向き合っておかないと、もしかして取り返しのつかないことになるんじゃないかと、なんだかそんな気がしてならなかった。


 しかし、なんて答えて良いかも分からず、暫くの間、二人はガスコンロで湯気を立てる鍋の水を見ながら黙りこくっていたが、


「無限……」


 と、その時、不意に都原の脳裏に何かが過ぎり、彼は知らず知らずのうちにその言葉を口にしていた。指の間から覗くパテルの目が、ぐるんと動いて都原を捕らえた。無意識に出た言葉に、彼はどうしてそんなことを言ってしまったのかと焦りながら、


「いや、ほら……お前と出会った時、そんな話をしたじゃないか。無限には種類があるって。トレイルの最中にそれを思い出してさ」

「ああ、そんなこともあったな」

「……俺は神ってのが何なのか考えたこともなかったが、ただ、髭面の爺さんのことだとは思えないな。ピタゴラス教団じゃあないけど、俺もなんていうか、そういう無限的な、常識では計り知れない何かなんじゃないかと思う。考えても見りゃ、神は全知全能なんだろう? あらゆるものを神が作ったというなら、彼はアダムとイブを作り出した頃、既にスマートフォンについても知っていなけりゃおかしいじゃないか。つまり神ってのはそういう、時間とか空間とかを超越した存在なんじゃないだろうか」


 それはその場で思いついただけの殆ど即興の話だったが、都原は意外と悪くない考えじゃないかと思った。神という存在を一義に定義してしまうと、途端に人間臭く胡散臭くなる。でも無限ならその心配はない。無限は人間には見ることも触れることも出来ないが、その存在を考えることならいくらでも出来るのだ。


 パテルもその考えが気に入ったのか、暫く考え込むように目を瞑ったあと、なるほどと言って何度も頷いてみせた。どうやら彼も都原が言うように、神が無限であることには異論はないようだった。ただし、二人が見ている無限の種類は、どうやら少し違うようだった。


「しかし、神が無限であるなら、それは可算なのだろうか。不可算なのだろうか」

「え……?」

「リーマンによると、あらゆる空間はより高次元の球にコンパクト化することが出来るんだ。そして解が無限の時にだけ、それは一点に収束する。つまり、無限の先に高次の存在が現れるってことさ。それっていかにも示唆的だよな」


 パテルはまるで難解な数学の問題を解いているときのように上機嫌に見えた。都原にはよく分からなかったが、きっと彼には見える何かがそこにあったのだろう。まるで無限の問題そのものだ。都原がその様子を眺めていると、やがてパテルはまた嫌なことでも思い出したかのように眉間に皺を寄せてため息を吐き、またおかしなことを言い始めた。


「教授はその無限を見たらしい。彼は青ざめながら俺にUSBメモリを渡すと、これを然るべき者に渡して欲しいって言うんだ」

「……どういうことだ?」

「分からないんだ。その然るべき者ってのが誰か教えてくれって聞いたら、それはお前に任せるって言うんだよ。教授はとにかく一秒でも早くこいつを手放したがっていた。そんな無茶な話はないだろう? だから俺は、話してくれないならこれは預かれないってメモリを突き返そうとした。そしたら、彼は渋々話してくれたよ……でもそれが……到底、信じられない内容でさ……」

「教授はなんだっていうのさ?」


 都原が当然の疑問を返すと、パテルはまた言うかどうか考えあぐねるように口をパクパクさせてから、


「それが……教授は一年前にあったあの大衝突は、自分たちが引き起こしたものだと言ったんだ」


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