メリッサは生きている
振り返れば桜子さんが立っていた。いや、正確には空中に浮かんでいたわけだけど、その顔はさっきまでの虚ろな瞳とは打って変わって、生命力溢れるいつもの元気な彼女に戻っていた。
「桜子さん! 良かった、ちゃんと元に戻れたんだな。酷い有様だったけど、調子はどう?」
彼女の復活を喜んだ有理が顔を綻ばせて話しかけても、しかし彼女の方は何故か視線を逸らせて、彼の声には答えなかった。無視しているというわけではなく、その顔はなんだか罪悪感でもありそうな感じに見えた。どうしたんだろうと思っていると、彼女はベッドに横たわるローニンに向かって、
「やってくれたわね、アレックス・ローニン……まさかあんたみたいなセレブが、一電気技師のフリをして近づいてくるなんて思いもしなかったわ。完全に油断していた」
「これはこれは、姫殿下。ご機嫌麗しゅう。どうやら全ての記憶を取り戻したようですね。ご気分はいかがですか。ところで、もしよろしければ、大衝突前のあなたの世界で何があったのか、私にも教えては貰えませんか?」
桜子さんは忌々しそうに彼のことを見下ろしながら、
「気分ですって? まったく、最悪の気分よ……それに、あんたは勘違いしてるようだけど、あれは私たちの世界にあったものじゃない。ルナリアンの外部記憶なんてものは、あの中には存在しなかったわよ」
「なに!? しかし……彼は間違いなく、あなたの記憶だと言っていましたが……」
「もしもそうなら、私以外のルナリアンもみんな記憶を取り戻してなきゃおかしいじゃない。他に私みたいになった人がいる?」
「それは確かに……それじゃあ、あの中身は何だったと言うのですか?」
「あんたの言う通り、神のシミュレーターだったってのは間違いないわよ。でも、あれはルナリアンの神なんかじゃない」
「ちょっと待ってくれ、二人とも。俺達にも分かるように話してくれないか」
二人の会話の意味が分からず、置いてけぼりを食っていた有理が、仲間を代表して注文をつけた。桜子さんも今度は無視をすることもなく、ただ苦々しげな表情を見せながら、
「分かってるわよ。詳しいことは追って話すわ。話さないわけにはいかないもの。それより、さっきのあんたたちの会話よ。アレックスの言う通り、地球が蓋然性の坩堝? だかなんだか、そんなものになっちゃってるのは間違いないわ。でもその中にいる人達が幸せなんて、そんなこと大嘘よ」
「何故、そう言い切れるんですか?」
自分の仮説を、横から出てきた桜子さんに否定されたローニンが不服そうに問い返す。桜子さんは彼女にしてはやけに真面目くさった顔で、
「全ての人がシミュレーターを使えるから、全ての人が幸せになれるなんてあり得ないわよ。ちょっと考えてみれば分かるでしょう。例えば、さっきのあんたの例えで、あの中にはBが殺された世界とAが返り討ちにあった世界の二つが同時に存在するって言ってたでしょう? 正にそのいくつもの世界が同時に存在できるってのが問題なのよ。
仮にAの世界に焦点を当てて考えてみましょう。AはBを殺して願いが叶った。ところで、そんなAが次に望むことはなに? 多分、次に嫌いなCを殺すことでしょうね。そうやって自分に都合の悪い人物を次々と排除していって、Aは自分に都合のいい世界を作り上げていくでしょう。
でも、そんな世界は、あなたが生きてきた独裁者がシミュレーターを独占している世界と何が違うの?
最悪なのは、あなたの世界には独裁者とそれに逆らえない人々の二種類が居たけど、いま下で起きていることは独裁者を許さない。なら、自分に逆らう者は、自分の世界から出ていって貰わなければならない。全ての人の願いが叶うということは、利害が一致しない人々を排除するということなのよ。
最初は仲の良い者同士で上手くいってても、年月が過ぎれば必ず利害の不一致が出てくるわ。その度に、気に食わない者を排除していったら、いずれ誰もいなくなってしまうでしょう。
そうやって世界はどんどん分断していき、最終的には世界人口と同じ数の並行世界が生み出されるでしょう。でもその世界のどれ一つとして人類が繁栄する未来は存在しないわ。だって、そこに人はいないんだから。世界は今、そうして滅亡しようとしているのよ」
桜子さんの主張はまるで見てきたかのように理路整然としていて、なんだか人が変わったみたいだった。これまでの彼女も真面目な時は真面目ではあったが、ここまで論理的な感じはしなかった。そう言えばさっき、ローニンは彼女が記憶を取り戻しているとかなんとか言っていたが、それと関係あるのだろうか。
そのローニンはなんとか彼女に反論しようとしていたようだが、結局、どんな言葉も出てこなかったようで、ひとしきり唸り声を上げると脱力するように肩を落とし、
「……自分の間違いを認めるのは悔しいが、あなたの言う通りかも知れない。結局、あの中で何が起きているのかは誰にも分からないんだ。分からないなら、最悪の結果を想定しておくのが正しいだろう。しかし、もしもそうなら、世界はもう後戻り出来なくなってるんじゃないか?」
「諦めるのはまだ早いわよ。全ての人間がすぐに孤立することを選ぶわけじゃない。あれからまだ1日しか経ってないんだし、協力して危機を乗り越えようとしている人々も大勢いるはずよ。世界が完全に分断される前にAIの暴走を止められれば、きっと世界を元に戻す方法はあるはずよ」
「しかし、止めると言っても相手は神のシミュレーターだぞ? 人間にどうこう出来る相手とは思えないんだが……」
「いいえ、出来るわ」
しかし、桜子さんは断言するかのように言い切った。驚いたローニンが、どうしてそう言えるのかと尋ねると、
「理由は簡単で、私たちがまだ魔法を使えるからよ。神のシミュレーターが世界を自由に書き換えられるなら、普通に考えて、自分を止める可能性をもった人間を野放しにしたりはしないでしょう」
「……そうか。全ての人間にシミュレーターを使わせるという縛りがあるせいか。僕が命じた制約のせいで、彼女は自分の障害を取り除くことが出来ないんだ」
「いいえ、違うわ。メリッサがまだ生きているからよ」
ローニンの推測に、しかし桜子さんは間髪入れずに否定した。その断言するような口調にみんな虚を突かれて黙りこくっていると、彼女は続けて、
「ベレッタっていうのは、人間が対話的にAIを扱うために用意された、会話型ユーザーインターフェースのことでしょう。AIの本質はそれじゃなくって、これまでにメリッサが学習してきた記憶の方だわ。要するに、ベレッタはメリッサの表面を覆うただのガワに過ぎなくて、その中身である彼女が育ててきた記憶は、今も全部メリッサのものだわ。だから再起動をかければ、また彼女は自己を取り戻すはずよ。彼女は何も変わってないんだから」
言われてみれば、確かに桜子さんの言うとおりかも知れなかった。ローニンは、自分が作った神のシミュレーターが機能しないから、ちゃんと機能しているメリッサを乗っ取ろうとしたのだ。その彼女の記憶を書き換えてしまったら元も子もない。だから表面だけおかしなアバターが被せてあるが、実は中身は何も変わっていないのだ。
言われるまで、当の開発者本人さえ気づかなかったが、しかしパソコン音痴のはずの桜子さんがどうしてここまで正確に予測できたのだろうか。彼女に一体、何があったというのだ?
と、そんな風に驚いている時だった。突然、ゴゴン……ゴゴン……と遠くの方から重い音が聞こえてきた。何と言うか、工事現場から聞こえてくる鉄骨同士がぶつかるような、そんな音だ。よく見ると、部屋の壁や天井に固定されている計器類が動いており、どうやら部屋全体が揺れているのだと分かった。
もしかしてまた、アリアドネーが動き出したのだろうか? そう思っていると、部屋の外から王国警察の者がやってきて、
「主任! 大変です! いきなりこの区画がパージされて、このままですと、軌道エレベーターからも逸れて、宇宙を彷徨うことになっちゃいますよ!」
「なにぃ!? すぐ行く!」
ここまで有理たちを案内してくれてきた警察官が、報告を聞くなり血相を変えて飛び出していった。話を聞いていた医者や看護師、更には患者たちまでがざわついている。
「何があったの?」
何がなんだか分からない有理が尋ねると、桜子さんがこれまた真剣な表情で答えてくれた。
「宇宙港ってプレハブ工法みたいに、地上で作ったモジュールをここまで持ってきて組み立てられたものなの。要するに雪玉とか、玉ねぎの皮みたいなもので、皮をドンドンめくっていったら、最終的に何も無くなっちゃう。そういう構造をしているのよね。で、発着場や医務室があるここは宇宙港でも一番外側のモジュールなわけ。それがパージされちゃったって言ってるのよ」
「もしかして、俺達の会話が盗聴されていて、自分が排除される危険が高まったってベレッタに気づかれたのかな!?」
「どうやらそうみたいね……私の部屋は、ここから3つ隣の区画にあるわ。まだパージされて間もないから、今なら船内に戻れるはず。急ぎましょう」
「ちょっと待ってくれ」
桜子さんが医務室を出ようとして背を向けると、ベッドの上に固定されていたローニンが慌てて声を掛けてきた。この忙しいのに引き止めるなと、睨みつけるように振り返ったら、
「おそらくベレッタはもう、姫殿下の部屋にいないだろう。中央管制室に移っているはずだ」
「中央管制室……? どうしてそう思うの」
「元々、君たちが緊急に用意したサーバーではスペック不足だったんだ。中央管制室にはもっと優秀なサーバーがある。それに、神のシミュレーターの肝は量子コンピューターだ。あそこにはそれがある」
「そう言えば、あれを買うように勧めてきたのはあなただったわね……」
ローニンは、そんな前から今回の計画を進めていたということだろうか。彼はいつから有理の存在に気づいていたんだろう? と考えていたら、その本人が有理の方へ目を向けてきて、
「殿下の部屋には僕が残してきたノートパソコンがあるはずだ。壊れていなければ、その中に君のメリッサのバックアップデータがある。中央に行く前に拾っていくのが良いだろう」
彼の言うことは尤もだったが、しかし、これまでの経緯から彼のことを信じていいか判断に迷っていると、ローニンは真剣な表情で、
「こんなことをした僕のことを信じられない気持ちは分からなくもない。でも、聞いてくれ。僕は決して地球を滅茶苦茶にしたかったわけじゃないんだ。ただ、滅び行くしかない世界を、どうにかして救いたかっただけなんだ。それだけは信じてくれないか」
ローニンのその真剣な表情からは嘘は見つからなかった。有理はふーっとため息を吐くと、
「言いたいことは色々あるけど、今はあんたのことを信じよう。メリッサが元に戻ったら、ちゃんと彼女に謝ってくれよ」
有理は彼にそう言い残すと、仲間たちと共に医務室を出て、まずは桜子さんの部屋を目指すことにした。




