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悲しき呪文

 下層の通路を歩いている時、偶然に出くわした里咲の昔の知り合いは、売春婦に身をやつしていた。そして明かされた彼女の過去は、思った以上に過酷なものだった。もしかしたら、自分も同じ人生を歩んでいたかも知れないと言う彼女にとって、演ずるということがどれだけ重要かを有理は理解し、そんな彼女を巻き込んでしまったことを本当に申し訳なく思った。


 藤沢とも約束したように、早く彼女を仕事に復帰させてあげたいところだが……いかんせん、今は浮上の切っ掛けすら何も思いつかなかった。少なくとも、桜子さんと合流してからでないと何も出来そうにないが、彼女との連絡も途絶えたままである。


「あ、いた! 二人とも、こんなところでなにサボってるのよ!」


 そんなことを考えていたら、通路の方から声が聞こえてきた。振り返ればマナとウダブが居て、彼女は肩を怒らせこっちに歩いてくるところだった。


「いつまで経っても待ち合わせ場所にこないから、どうしたのかと思ったら、あんたたちまだ最初の地点で油売ってたのね。一体、どういうつもりよ!」

「ごめんごめん、ちょっと昔の知り合いに会っちゃって……」


 怒り心頭で拳を振り上げるマナに対し、里咲が少し弱った感じに返事する。マナは最初は怒りが収まらない様子だったが、すぐに里咲の雰囲気からなにかを察すると、仕方ないといった感じに腕をおろした。


「……そう。そういうことなら仕方ないわね」

「ごめんね、すぐ引き返したらまた会っちゃいそうで」

「それで、肝心の子供の方は? ここにも居ませんでしたか?」


 二人のやり取りに、ウダブが強引に割り込んでくる。そんな彼らも例の子供を連れて居ないから、どうやら彼はまだ見つかっていないようだった。


「一応、抜け道で聞き込みしましたけど、そんな子供は見ていないって言われましたよ」

「そう、こっちも心当たりは全部回ったんだけど、どこにもあの子は居なかったわ」

「参りましたね」

「ごめんなさい、ウダブさん。自信満々に誘っておきながら、何の成果も上げられなくて」

「いいえ、一人で闇雲に探すよりはずっと良いですよ。少なくともこれで、彼は上へ行っていないと分かったわけですし」

「そう、ねえ……でも、本当にそうなのかしら?」


 マナはまだ納得できないといった感じだったが、一通り回って見つからなかったんだから、きっと迷子にでもなっているのだろう。4人は一度宿舎に戻ろうと歩きかけたが、その途中で、マナがふと何かを思いついたように、


「……ちょっと待って」


 彼女はそう言うと、さっきまで有理たちがもたれ掛かっていたテラスの手すりに身を乗り出すようにして空を見上げた。


「居た」


 その言葉に驚いて、有理たちも戻って彼女の横から上を見上げてみた。すると、テラスから10数メートルほど上の方に、ほとんど垂直の壁の突起に、ぶら下がるようにして固まっている小さな影が見えた。まさかと思って目を凝らせば、それは例の探していた子供で間違いなかった。


「マジかよ!? 助けなきゃ!」


 有理がそう言い終わるより先に、マナが手すりから飛び立って子供のところまで上がっていった。今にも落ちそうだった子供はマナを見つけるなり、コアラみたいに彼女の体にしがみついた。


「もう大丈夫よ」


 子供を連れて下りてきたマナがテラスに着地し、まだ必死になってくっついている子供に優しく話しかけると、ようやく助かったことが分かった彼は腰を抜かすように地面にへたり込んで、しくしくと泣き出した。小さい子に泣かれて有理がオロオロしている横で、里咲が慣れた様子でそんな子供の体を抱きしめ慰めていた。


「いやー、間一髪でしたね」

「ごめん、俺たち、ずっとここに居たのに気づかなくって」

「普通、壁に子供が張り付いてるなんて思わないから、仕方ないわよ。でも助かって良かったわ」


 その子を囲んで話し合っているうちに、彼の方も落ち着いてきて、しゃくりあげることもなくなって来た。見たところ怪我もなく健康そのもので、これで一件落着と彼を宿舎へ連れ帰ろうとした時だった。


「我想念我的妈妈」


 ウダブが彼の手を引いて歩こうとすると、彼はイヤイヤをするように体を振ってぐずり始めた。何を言っているのか分からないのでウダブに聞くと、


「お母さんに会いたいって言ってます」


 そりゃそうだろう。他に言葉も見つからなくて黙っていると、子供はまたさっきみたいにシクシクと泣き始めてしまった。気の毒には思うが、他人の家庭に首を突っ込むわけにもいかないし、自分たちにはどうしてやることも出来ない。ましてや、有理は今は逃亡の身だ。


 ところが、そうして4人がテラスの上で困っている時だった。


「我找到他了! 他是个通缉犯!」


 今度は通路の方から中国語が聞こえてきて、なんだなんだ? とそっちを見れば、数人のいかつい顔をした中国人の男たちが、こっちに向かって駆けてくるのが見えた。


「无路可逃 别动!!」


 よく見れば彼らは手にピストルらしき物を持っていて、こっちに向けて何かを口走っている。何を言っているのか分からないが、どう見ても穏やかじゃない。どうも噂の中国系マフィアのようだが、連中の恨みを買うようなことはしてないはずだが、わけが分からず焦っていると、ウダブが通訳してくれた。


「まずいですね……彼らはあなたのことを賞金首だと言ってます」

「げえ!? もしかしてバレたの??」

「どうしましょうか? 動くなって言ってますが」


 どうするもこうするも、動くなと言われてハイそうですかと聞くわけにもいかない。有理が目配せすると、その意図をすぐに察したマナが、


「ウダブさんは、その子をお願い。鴻ノ目さん、分かってる?」

「あ、はい」

「じゃあ、イチニのサンで飛ぶわよ。イチニの……サン!!」


 掛け声とともに里咲が有理の背中に抱きついてくると、彼らは一瞬にして上空へと飛び上がっていった。隣ではウダブに抱かれた子供ごと、彼を引っ張り上げるマナもいる。


 袋のネズミだと思っていたのに、有理たちが空を飛んで逃げるなんて思いもしなかったのだろう。すぐに中国人マフィアが手すりのところまで殺到してくると、彼らは空を飛んで逃げる有理たち目掛けて、躊躇なく拳銃をぶっ放してきた。


「うわ! プロテス! バリア! プロテクション!!」


 咄嗟に防御系魔法を展開すると、見えない障壁に当たった弾丸がビシビシッと音を立ててどっかへ飛んでいった。多分、生死は問わないと言われているのだろうが、そっちがその気ならこっちも遠慮する必要などない。


「あいつら、マジかよ……メラ! ギラ! ファイア!」


 頭にきた有理が魔法を連発すると、突然、何も無いところから現れた炎に巻かれた男たちが、アチチアチチと言いながら転げ回るように通路の中へと逃げていった。


「はっはあー! ざまーみろ、くそが……って、いっつぅぅーーーっ」


 有理が逃げ惑うマフィアを見て、痛快な雄叫びをあげていると、その途中で突然、頭に刺すような痛みが走った。まさか、銃弾が当たったのだろうかと一瞬血の気が引いたが、触ってみてもどこにもおかしなところはなく、特に血も出ていなかった。


「どうしたの、有理くん! 怪我!?」


 有理の様子がおかしいと思った里咲が聞いてくる。


「いや、気のせいだったみたい。それより、さっさとずらかろう!」


 炎の攻撃が一段落して、マフィアたちがまたテラスに出てこちらを見上げている。もう十分に距離があるから撃ってはこないが、あそこへ戻るのはもう無理だろう。どこか別の場所に着地しなければならないが、見たところ近場に都合の良い足場はなかった。仕方ないのでそのまま下層を飛び越えて、有理たちは上の歓楽街まで上がってきた。


 そして島の上のアスファルトで舗装された地面に下りた一行は、しかしホッと一安心とはいかなかった。突然、ピピピピピーーッ!! っと笛の音が聞こえてきて、見れば制服を着た王国警察の警官がこっちに駆け寄ってくるところだった。


「そこ止まりなさい! 正規の手続きを経ずに上に来るのは犯罪だぞ!」


 警官は凶悪犯でも見るような目つきで、腰のホルスターに手を掛けながらじわじわとこちらへ詰め寄ってくる。上に上がってきた事情が事情だけに、話せば分かってくれそうだったが、


「無理よ、手配書はこっちにも回ってるのよ」

「そうだった」


 照会されたらアウトなので逃げるしかなく、有理たちはまた慌ただしくその場から逃げ出した。


「あ、こら! 待ちなさいっ!!」


 しかし、今度はさっきみたいにはいかなかった。空を飛んでしまえば中国人は手を出せないが、この島の警官はもちろんルナリアンだらけなのでそれが通用しないのだ。


 有理たちが空へ逃げると、すぐ同じように空を飛んで追いかけてきて、警官は飛びながら無線を使って仲間の応援を呼んでいるようだった。すぐに様子がおかしいと気づいた他の警官も飛び上がってきて、彼らの行く手を遮ろうとしてきた。マナも里咲も、彼らの包囲網を掻い潜って逃げようとしたが、流石に相手も捕物に慣れているようで上手く行かない。


 なにか手を考えなければ、このままでは捕まるのは時間の問題である。里咲に運ばれ、右に左に体を振られながら必死に考えた有理は、一つ、方法を思いついた。


「レムオル!」


 説明しよう。レムオルとは国民的RPGに出てくる知る人ぞ知るマイナー呪文だ。その効果はきえさり草というアイテムと同じで、プレイヤーの姿を透明にすること。鍵開けの魔法アバカムと同様、アイテムで代用できる上に、覚える頃には用済みになっているので、使われることは殆どないという悲しい宿命を背負った呪文である。


 要は、姿が見えなければ追いかけることも出来ないのだから、何か光学迷彩みたいな魔法はないかと記憶を辿って出てきたのがこれだった。多分、いつものエスペランド語の組み合わせでは再現出来なかったろうから、あのセピアの世界で魔法のルールが拡張されてなければ、今頃詰んでいたかも知れない。


「ちょっと、どうなってるの?」


 突然、自分たちを追いかけていた警官隊が算を乱している姿を見て、マナが不思議がっている。


「俺達の姿は、今あの人達からは見えてないんだ。説明は後にして、今は逃げよう」


 有理に言われたマナが頷き返す。一行は警官から見えていないのを良いことに地上に降りると、彼らが向かっているのとは逆方向の路地に身を隠した。


 魔法の効果はすぐ切れてしまったが、その時にはもう警官隊の包囲網からは完全に脱していた。彼らはまだ暫くの間、逃亡者を探して上空をウロウロしていたが、やがて捜査を広範囲に広げるつもりか、あちこちへと散らばっていった。


 その様子を狭い路地から見ていたマナは、ホッとため息を吐くと、


「どうにかやり過ごせたわね……あんたの機転が無ければ、危ないところだったわ」


 彼女は前科持ちにならなくて済んだと笑いかけながら有理の方へ振り返ったが、


「……有理くん? ……有理くん!!」


 ところが振り返れば有理は里咲に抱きかかえられたまま、鼻血を垂らしてぐったり意識を失っているのであった。


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