もう50年も経つというのに
忘れてるかも知れないから一応説明すれば、ウダブはネパール出身のチベット僧だ。張偉の父親の最期を看取った彼は、母子に訃報を伝えるために来日し、そこで有理とたまたま知り合うことになったわけだが、なんでそんな人とこんな地球の裏側で再会したのかは全くもって謎であった。
それほど親しいわけでもないから、積もる話もないのであるが、とにかくその辺が気になったので誘われるまま会話をすることになったのだが……一人蚊帳の外であった里咲が、誰なの? と聞いてきたので上述の通り説明すると、彼女は、へえ、珍しいこともあったもんだと、暫くの間感心した素振りを見せていたが、不意に表情を変えて小声で、
「……そんな人と本当に偶然出会うと思う? 私たちのことを知ってて追いかけてきたアメリカのスパイってことはない?」
と言われ、確かにおかしいと思い、警戒するに越したことはないと気を引き締めていたのだが、実際、その辺のことを話してみると、あまり気にしなくて良さそうだった。
何故なら、彼がこの島にやって来た理由を、有理は事前に聞いていたからだ。
「私がここにいる理由は簡単ですよ。ほら、チベット情勢が緊迫してきたせいで、穏健派の人々があっちに居られなくなったから、日本にいらっしゃった姫殿下にお願いして、難民申請したじゃないですか。それでです。本当ならもうお役御免なのですけどね。何の因果か、王家と穏健派のパイプ役になってしまったので、致し方なしといったところです」
「ああ……」
「有り難いことに桜子さんのお陰で無事全員、海を渡ってくることが出来ました。しかし、難民と一口に言っても何千人といますからね……その避難先と、就職先を世話するとなると人手はいくらあっても足りないくらいでして、おまけに難民の皆さんは中国語しか話せませんが、こちらでは日本語が必須ですから、こうして両方話せる私がこき使われていたってわけです」
「そりゃまた、ご苦労さまです」
「いえ、桜子さんの御慈悲にすがれて有り難いことですよ。穏健派の皆さんも、こんな急にも係わらず、働き口まで与えてくれた彼女に感謝しています。ただ、子供はそうはいきませんからね」
ウダブがどうして学童から脱走した子供を連れていたのか、それが理由だった。
難民たちは運良く仕事を得られたわけだが、当然だが仕事の内容までは選べなかった。彼らは与えられた職場に行くしかないが、そこに託児所が無ければ子供たちは置いてけぼりにされる。そしてもちろん、彼らの職場にそんな手厚い福利厚生があるわけなかった。
そうなると当然、親が働いてる間、子供はどこかに預けられるわけだが、本来ならまだ親が付きっきりで面倒を見てやらなければならないような子供が、いきなり親から引き離されて施設に預けられたら、そりゃ心細いことだろう。おまけに、大人同士は最低でも異世界語で会話が出来るが、彼らの子供は中国語しか話せないので、ここでは余計に孤立感を深めた。
「それで施設にもなかなか馴染めず、気がつくとすぐ脱走するようになってしまったわけです。今日も多分、お母さんを探しに行ってたんだと思いますけど」
例の子供は、他の子達が遊んでいる広場の隅っこで、特に何をすることもなくぼーっとを壁を見つめて座っている。たまに大人が声を掛けているようだが、まるで反応する素振りも見せない。
彼と似たような子供時代を過ごしたマナが、同情するような顔で尋ねる。
「あれはちょっと、よくないわね……ご両親とは連絡がつかないの?」
「一度、支援団体を通じて連絡してみましたが、いつか必ず迎えにいくから、もう少し我慢してて欲しいと言われまして」
「どうして?」
「ご両親は職を失うことを恐れてるんですよ。仮に、子供のために一時的に戻ってきたとしても、仕事に戻ればまた同じことを繰り返すでしょうからね」
「だったら仕事を変えられない? 多少、稼ぎは少なくなっても、子供と一緒に居られるような仕事はないの?」
「それが出来れば、誰も難民になんかならないでしょう」
そりゃそうだ。マナが黙りこくっていると、ウダブはため息混じりに続けた。
「こんな調子ですから、実は難民の中には、また中国に帰ろうとしている人たちが結構いるんですよ」
「え? でも、彼らはその中国から追い出されたから、ここにいるんでしょう?」
流石にそれは全く考えていなかったので、有理は驚いて聞き返した。
「元いた場所に帰ろうとしてるわけじゃないんです。ここにいるよりは、中国国内のどこか別の場所に居たほうが、まだマシだと考えているようなんです。ただ、あっちにルナリアンの仕事はありませんから、ここで出来るだけ稼いでおきたいみたいですね。多分、あの子のご両親もそう考えてるんじゃないでしょうか」
命からがら戦争から逃れてきたはいいけれど、実際にここの環境を見て彼らはそう思ったようだ。正直に言ってしまうと、有理もその気持ちは分からなくはなかった。多分、ここ出身のマナや里咲もそう思ってるんじゃないか。
ここは昼も夜もわからないような穴蔵で、地上に出るのにも監視の目を掻い潜らなければならず、中国人の違法な商売を除けば実際には仕事もなくて、ろくに言葉も通じず、少なくとも子供を育てるには不適当な場所でしかなかった。
寧ろ、よくもこんな場所でマナみたいな良い子が育ったものだと感心すらした。そんなことを漫然と考えていると、今度はウダブの方が有理に尋ねてきた。
「ところで、あなたの方はどうしてここに?」
ウダブは会話が一段落したから話題を変えるつもりで聞いたのだろうが、有理は返答に窮した。
マナは里帰りの一言で済むだろうが、有理の方はそうもいかない。彼女の里帰りについてきたと言えるほど二人の関係も深くないし、かといって観光に来ただけだと言っても、それならどうして地下に潜ってるんだと言われてしまうとこれまた返事に困る。
大体、ここはそんなホイホイと遊びに来れるような場所じゃないのだ。何しろ、日本から見れば地球の真裏にあるのだから。
何かそれっぽい言い訳はないものだろうか……有理が言葉に詰まっていると、そのとき突然、彼の背後から声がかかった。
「その人はアメリカにかけられた不当な嫌疑から逃れるために、ここで身を隠してるんですよ。だからここで見たことは誰にも言わないであげてください」
まったくもってその通りなのだが、なんでバラすの!? と驚いて振り返れば、予想外の人物が立っていてまた驚いた。
そこに居たのは、さっきマナと話していた近所の小母さんで、有理とは二回くらいすれ違っただけの人のはずだ。そんな人がどうして有理の素性を知っているのだろうか。まさかマナがバラしてしまったのかと見てみれば、彼女も驚いた顔で首を振っていた。
小母さんはそんなマナに向かってニコッと笑いかけると、
「ごめんなさいね。マナちゃんが連れてきた人だから、悪い人じゃないのは分かってるんだけど、どういう人なのかちょっと調べさせてもらったのよ。だから、あなたの事情もある程度は把握しております。誰もあなたが悪いとは思っていないから、ここに居る間は安心してちょうだい」
そう言った小母さんからは、何か妙な迫力のようなものが感じられた。ビックリして周囲に視線を走らせてみれば、広場にいる大人たちがみんな、一瞬だけこっちを見て会釈をしてきた。てっきり暇してるだけだと思っていたが……もしかして、彼らは子供らを見守るついでに、この広場に入ってくる者を監視していたのか?
何者なのかと驚いていると、マナが苦々しそうな顔で彼女に尋ねた。
「どうして小母様がそんな真似をするの?」
「マナちゃんに悪い虫がつかないように、お母様に頼まれていたのよ。ほら、私とお母様とは、子供の頃からずーっと仲良しだって知ってるでしょ」
「そう……そういうこと……」
マナはどこか不服そうな顔をしている。どういうことなんだろうか。家族のことっぽいから首を突っ込んで良いものかと迷っていると、そんな有理に向かってウダブが言った。
「ふむ……何があったか知りませんが、私でお役に立てることがあったら何でも言ってください。力になりますよ」
「いいんですか?」
まさか何も聞かずに受け入れられるとは思いもよらず、驚いて聞き返すと、彼は当然だと言わんばかりに頷いて、
「そうするだけの恩を、私たちは桜子さんから受けていますからね。それに私の個人意見ですが、どうもアメリカという国が好きになれなくて……仮にあなたがどんな凶悪犯であっても、あまり協力したいとは思えないのですよ」
見た目はいかにも善良そうな僧侶からそんな言葉が飛び出てくるとは本当に意外で、どうしてかと尋ねてみると、
「あなたはアメリカにいるルナリアン難民というものを見たことがありますか? 欧州にも、日本にも、なんなら中国にさえいるというのに、実はアメリカには一人もいないんですよ。あそこに居るのは、市民権を金で買った富豪とセレブばかり。日本の親分面をしているから、ルナリアンのために何か行動をしているように思われがちですが、実を言えば、50年前の大衝突から排他的な政策を取り続けているのは、中国を除けばアメリカだけ……中国の方が目立つから影に隠れていますが、実はルナリアンに最も冷たいのはアメリカ人なんですよ」
そう言われてみれば……アメリカの貧困問題はよく聞くが、そこにルナリアンの名前があがることは殆どなかった。いや、ウダブの話が本当なら、一度もなかったのではないか。
あそこにはテレビを賑わす異世界人セレブが大勢いるけれど、彼らが積極的に同胞たちを支援しているなんて話も聞かなかった。なんなら今回、チベットの過激派を支援していたのは彼らだという噂すらあった。その裏には、アメリカがいたのか……?
あの大統領の顔がちらりと脳裏を過る。
つい最近までポリコレが幅を利かせて、世界的にも人道支援に積極的なイメージがあったが、考えてもみれば当初、彼らがメガフロートに投資したのは、難民を近づけさせないためだったのだ。
もう50年も経つというのに、彼らは異世界人に冷たいままなのだ。なんか意外ではあるが……
「ここに居る人はアメリカに義理なんかないから、安心して滞在なさいな」
そんなことを考えていたら、小母さんが同情するようにそう言ってくれた。隣でウダブも頷いている。有理はそんな彼らの厚意をありがたく受け入れることにした。




