もし日本に帰ってこれたら
朝起きたら全身が痒かった。特に下にしていた体の右側の方が痒いので、ボリボリかきながら慌てて体を起こすと、ゴイーン! っと盛大な音を立てて、有理は天井に頭をぶつけた。天井が低いことをすっかり忘れていたわけだが、お陰ですっきり目が覚めた。上から煩わしそうに誰かが寝返りを打つ音が聞こえてくる。彼は涙目になりながらベッドから滑り降りるように床に降り立った。
そこはメガフロート内部……マナが住んでる宇宙公社の宿舎からほど近い、営業許可などもちろん取ってなさそうな汚いカプセルホテルの一室だった。とにかく安そうなのと、宿泊客のことなんてこれっぽっちも関心なさそうな従業員の態度が気に入って選んだのが、そんなだからか寝床の状態もたいへん酷かった。
一応、シーツは洗ってあって臭わなかったが、布団に入ると妙に湿り気を帯びていて、この環境だから仕方ないのだと自分に言い聞かせて目をつぶったのだが、どうやら嫌な予感は当たっていたらしい。ここの寝床は何か変な虫を飼っているようだ。病原菌とか媒介していなければ良いのだが……もう布団に戻る気にはなれなかったので、有理はそのままホテルを出た。
彼がどうしてこんな場所に泊まっていたのかと言えば、単純に他に寝る場所が無かったからだ。マナの家は狭すぎて、女三人が雑魚寝で寝転がったら、もう足の踏み場もなく、必然的に男の有理が外に追いやられる羽目になった。それ自体は一向に構わなかったのだが、こんな場所だからまともな宿泊施設なんかなく、ようやく見つけたのが寝床が虫だらけのカプセルホテルだったと言うわけである。
数日前には5つ星ホテルのロイヤルスイートに泊まっていたというのに、えらい転落人生である。実際、距離的にも200メートルくらい落っこちてるはずだ。位置エネルギーに換算すると何ジュールくらいだろうか……
さっさと桜子さんと合流しなければ身が持たないぞ。そう思ってスマホを確認してみたが、一日経っても彼女からの連絡はなく、こっちから掛けても応答はなかった。時間的にはもう宇宙港にとっくにたどり着いているはずなので、だからスマホのバッテリー切れ、なんてこともないはずだ。
彼女は連絡を取る手段がないのだ。その可能性が高い。一体、上で何があったのだろうか? 正直、アメリカが出てきた時点で何でもありだとは思っていたが、他国に内政干渉までするなんて流石に思わないではないか。彼女がひどい目に遭ってたりしなきゃいいのだが……
「あ、有理くん! おはよう!」
そんなことを考えながら未だ慣れない狭い通路を歩いていくと、前方から三人がこっちに向かってくるとこだった。里咲に手を振り返していると、先頭を歩いていたマナが話しかけてきた。
「ちょうどよかった、いま呼びに行こうとしてたとこだったんだけど」
「何かあったの?」
「何もないわ。ただ、藤沢さんが帰国するっていうから、これからお見送りに行こうって誘いにきたの」
「え? 藤沢さん、もう日本に帰っちゃうんですか?」
立ち話なんかしてると通行人の邪魔だから、隊列の一番後ろに並ぶと、前を行く藤沢が振り返りながら話してくれた。
「ここには観光に来たわけじゃないし、あっちに仕事を残してきてますから。目的を片付けたんなら、速やかに帰らなきゃ」
「残念ですね。せっかく、この体でも知り合えたというのに」
「間違ってないんだけど、妙な誤解を招きそうな言い回しですね……」
たしかに。しかし他に上手い言い回しも見つからない。そんなくだらない話をしている内に、三人は昨日のエレベーターホールまでやって来た。まだ時間的には早朝のはずだが、広場は既に通勤客で賑わっていた。スピーカーからアナウンスが流れ、人がゾロゾロとリフトに積まれていく。
てっきりあれに乗るのかと思えば、マナは人をかき分けるように逆方向へ進み、昨日出てきたマンホールのとこまでやって来ると、当たり前のようにその蓋を開けた。
「藤沢さんには悪いんだけど、またここから帰ってもらうわ。本当ならリフトで上に行ければいいんだけど、あれって乗降客の管理がかなり徹底されているのよ。下手に乗ると、どこから来たの? って職質受けちゃうから」
聞くところによれば、あのエレベーターは税関みたいなもので、下の人間が勝手に上の観光地で商売をしないように見張る役目があるそうだ。そんな場所に、出入りの記録が残ってない藤沢が近づこうものなら、追い返されるだけならまだマシな方で、最悪逮捕される可能性もある。
文字通り、あれは臭い物に蓋をしているというわけだ。街の景観を守るためとは言え、なんとも世知辛い話である。
因みに、リゾート島に渡る船には入管なんてものは無く、出入りは自由だった。理由は、船に乗るのに既に高い金を払っているからだろうが、こんなとこにも貧富の差が露骨にちらついていて、なんだか蓬莱王国という国が段々嫌になってきてしまった。桜子さんには悪いが。
マンホールの前で藤沢は振り返ると、里咲と有理に向かって言った。
「本当なら、里咲ちゃんも一緒に連れて帰りたいとこだけど、あなたたちの事情は理解したわ。私には応援することしか出来ないけど、早く解決するといいわね」
「すみません、大事なタレントを巻き込んでしまって」
「それはいいのよ。案外、話題になって仕事が増えるかも知れないから」
藤沢は既に復帰した時の皮算用をしているようだ。転んでもタダでは起きない性格である。彼女は里咲の手を握ると、
「里咲ちゃんがいつでも復帰できるように、日本に帰ったら根回しはしとくわ。だからあなたもボイトレやお芝居の稽古を忘れないようにね」
「はい!」
「お家の方も、帰ってきたときすぐ使えるよう、契約はそのまま残してあるから。安心してちょうだい」
「え? あ、お家ですか! あ、ああ、ああ、そうですね。あのあの、あのお……お部屋の方はですね? その、お入りになられちゃいましたか……?」
里咲は、あの汚部屋が見られたと思ってしどろもどろになっている。ところが藤沢の方は感心した素振りで、
「ごめんね。遺品整理のために勝手にお邪魔しちゃったけど……それにしても里咲ちゃん、あなた凄く綺麗にお部屋を使ってたのね」
「え!?」
「不動産屋さんも褒めてたわよ。多少、経年劣化の痛みはあったけど、フローリングも壁紙も綺麗なままで、特に水回りなんてプロが磨いたみたいにピカピカだって。若い子の一人暮らしじゃ中々こうはいかないって」
「え? あ? そ……ですか? あ、はい! あれね、あれ!」
里咲はめちゃくちゃキョドっている。有理はその背後で武士の情けだと沈黙していた。藤沢はそんな彼の方へ改めて向き直ると、
「里咲ちゃんとは、うちの事務所に来た時から、ずっと家族みたいな関係を築いてきて、特に社長は彼女のことを本当の娘のように可愛がってましたから、死んだと聞かされた時はかなりショックを受けていたと思います。私もここに来る前はまだ半信半疑でしたが、こうしてみんなに良い知らせを持って帰れることになって、本当に良かったです。まだこれから色々大変でしょうが、頑張ってください」
「はい、ありがとうございます」
「それから……アイドルじゃないんだから無粋なことは言いませんけど、彼女はまだ未成年ですし、くれぐれも間違いは起こさないようお願いしますね」
「ちょ、藤沢さん? 私たち別にまだ付き合ってるとかそういうわけじゃないよ?」
「全然そんなんじゃないです!」
二人は大慌てで否定したが、藤沢はいいからいいからと手を振って、
「今度会えるのはいつになるか分からないけど、もし日本に帰ってこれたら、今度こそ焼き肉食べに行きましょう。ちゃんと一里塚さんも誘っておきますから」
彼女はそう言うと、マナと一緒にマンホールの下へと去っていった。
先に帰っていてくれと言われ、開け放していたマンホールの蓋を閉めて振り返ると、そろそろ通勤時間を迎えたのか、雑踏はいよいよ混雑を増し、ただ立っているのも大変になってきた。誰かの肩がぶつかり、波に揉まれるように体が回転する。人が絶え間なく流れる川の水のように現れては消え、このままじゃ逸れてしまうと、焦って里咲の姿を探せば、不意にその手をギュッと握られた。
「有理くん、行こう」
「うん」
有理もその手をギュッと握り返すと、二人は肩を寄せ合って歩き出した。




