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この、おバカ!

 里咲が見て衝撃を受けた有理の演技は、彼に言わせれば実はまったく演技をしていなかったと言う。どういうことかと問えば、彼は難しい顔をして長々と説明をしはじめた。しかし、それを聞いて何がわかったという感じでもない。まあ、少なくとも、彼が真剣だったということは分かったが……里咲は呆れながらも、


「……驚いた。君はいつもそんなことを考えて演技をしていたの?」


 有理はとんでもないと首を振った。


「いや俺じゃなくて、イッチさんがだよ。なるほどなって思った。人間は誰だって国や職業、学校なんかの、何かしらの社会集団に属していて、それが知らず知らずのうちに自分たちの物の見方や考え方を、基本的な部分で既定している。実は自分は思ったよりも自由じゃなくて、殆どの場合、自分が所属する社会集団によって、見せられ、感じさせられ、考えさせられているんだ。


 つまり声優だからこそ見えているものもあれば、声優だからこそ見えていない部分もある。実際、俺はまったく演技をしなかったわけじゃないんだ。それなりに頑張ってはいたんだ。でも声優じゃないから、やればやるほどふざけんなってなるわけだ」

「そうだったんだ……でも、それですぐに切り替えて、あの演技が出来たんだとしたら、それは才能があるってことじゃない?」


 責めてたはずの里咲はいつの間にかフォローするようになっていた。しかし逆に有理は大袈裟なくらい腕をバタバタしながら否定して、


「まさか! そんなこと出来るわけがないよ。だから最初から、俺は演技なんてしてないって言ってんじゃないか」

「……どういうこと?」


 そう言えば、さっきから彼はそう主張しているが、それが一番分からなかった。里咲がもう一回尋ねてみると、彼はまた変なことを言い出した。


「今話した通り、エクリチュールってのは簡単に言えば業界にしみついた慣習のことだよ。そりゃ訓練すればいつかは身につくだろうけど、いきなり真似することなんて出来ないって。だからすぐ諦めた。でもアフレコはなんとか乗り切らなければならない。


 そこで発想を変えたんだよ。どうせ、声優の真似事をしようったって俺には出来ないんだから、だったら最初から台本読んで役になりきろうなんて考えないで、俺は君に……高尾メリッサになろうと思ったわけ」

「私に?」

「そう。幸い、俺は君が出演したあらゆる作品を知っていた。君が過去にどんなキャラを演じ、どんなセリフを喋ったかを全て暗記していた。ラジオを聞いて君の個性もある程度は把握していた。そんな君がこの台本を読んで、どう考えるかを想像してみた。そうしたら、過去に見た色んな場面が、それこそ走馬灯みたいに次々と頭の中に浮かんできたんだ。


 あ、このセリフはあの作品のあの場面じゃないかとか、この時の彼女の心情はあの泣いてるシーンにそっくりだとか。そうやってセリフ一つ一つに、別々のシーンをパズルみたいに当てはめていって、全ての作業が終わった時、急に視界が晴れたような気分になった。そしてまたマイクの前に立ったら、後は体が勝手にやってくれた。そりゃそうだろう。俺がやろうとしていたのは、すでに君の脳に刻まれていたことなんだから」


 有理は自信満々にそう言ってのけた。それを聞いていた里咲は、頭の中がひどく混乱しはじめていた。意味は分かるが理解が追いつかない。


 つまり何か? 彼は脚本に書かれていることではなく、高尾メリッサという脚本を演じたということだろうか。彼は当たり前のように言ってるが、そっちのほうがずっと難しいんじゃないのか。


 いや、それより、間違いじゃなければ、彼はもっと聞き捨てならないことを軽々と言っていたような気がする。


「ちょ、ちょっと待って、いま全てのセリフを記憶してるって言った?」

「ああ、見た作品は全部、だいたい把握してるね」

「ウェブラジオまで聞いてたの? あんなリスナー少ないのに」

「ポッドキャストに保存してあるよ」

「……有理くんって、そんなに私のことが好きなの? その、声優として」

「マニアと言っていいね」


 彼ははっきりそう言い切った。そう言われるのは嫌な気分でもなく、寧ろ嬉しかったが、昨日あれだけ頑張って恋人を演じても、ずっと素っ気なかった人にそう言われるのは、なんだか釈然としなかった。


 そういえば、彼はAIにメリッサなんて名前をつけていたのだ。張偉も、彼は高尾メリッサのファンだと言っていた……里咲は恐る恐る尋ねてみた。


「私……てっきり嫌われてるんだと思ってたけど」

「はあ? なんでそうなるの!?」

「だって、有理くんて、いつも素っ気ないでしょう? 以前、助けてもらったお礼に行ったときも、あっそうって感じで、逆に自分の方が悪かったって謝られちゃって困ったし。昨日も、私としては随分サービスしたつもりだったんだけど、喜ぶどころかずっと嫌そうにしてたじゃん」

「いや、全然そんなことないですよ!?」

「そんなことあったよ。だって、本当にファンだったなら、もうちょっとデレデレしてもいいんじゃない? 嬉しいって言ってくれてもいいと思うよ? 二人でパラグライダーに乗った時だってさ、ずっと頭の上からため息が聞こえてきて、そんなに嫌なのかって結構傷ついたんだよ?」

「や、それは……あー、それは……申し訳ないと思うけども……」


 里咲が不満を口にすると、有理は何故か悶絶するように体をくねらせていたが、やがて脱力するようにその場に膝をつくと、口を手で覆うようにしながら白状した。


「あのね、高尾さん? その……人間の好きって気持ちは性欲と直結してるんだよ。特に男子は好きな女子にあんな風にされたら、意識しないように意識しないわけにはいかないんだ。パラグライダーで二人乗りしたときは、ほら、俺がこう、後ろから抱きつくような格好だったじゃない? すると、こう、君の腰の部分に当たってしまって、自分を律しておかないと、ちょっとマズイことになりそうだったんだよ。その……主に下腹部の辺りが……」


 彼の顔は信じられないくらい真っ赤である。言われた里咲は、パラグライダーに乗った時の二人の態勢がどんなだったか思い出して、彼が何を言いたいのかを瞬間的に察した。


「あー……あー! あー、あー……あー。うん」


 そうか。彼は確かに素っ気なかったが、それはあれがあれしないように、気持ちを抑えていたからなのだ。それじゃ、会話すらまともに出来なかっただろう。


 そして彼女は、昨日、自分が彼にしていたあらゆる所業を思い出して、妙な罪悪感を覚えると同時に恥ずかしくなってきた。そうとも知らずに、あんなグイグイ行くなんて、殆どただの痴女じゃないか。演技もへったくれもない。なんだか自分も顔が熱くなってきた。


「ごめん……相手の気持ちも考えずに、役に集中することばかり考えてた。これじゃプロ失格だよね」

「いや全然。俺の方こそ役に立てなくて」

「でもそっか……それじゃ、君があのアフレコで演技してなかったっていうのは本当のことなのね」


 有理は思いっきり頷くと、


「うん。演技しようにも、俺にはなんの引き出しもないからね。手持ちの札はただ一枚、高尾メリッサに関する情報だけだった。俺は本当に何もしていない。もしそれが素晴らしいと思ったのなら、それは君自身の演技が素晴らしかったんだよ」


 彼は清々しくそう言い切った。里咲はそんな彼を見ているうちに、だんだん自分が怒っていたことが馬鹿らしく思えてきた。彼の演技に嫉妬していたはずが、蓋を開けてみれば実は自分自身の演技だったなんて、まるで童話や絵本にでもありそうな寓話ではないか。


「そう……そんな風に言われると恥ずかしいな。でも、君はそう言うけれど、私自身はあんな演技が出来るとは思えないよ。あれを初めてみた時は、本当に衝撃的だった。ずっとこうやりたいって頭の中で思い描いていたものを、ずっと自分が追い求めてきた理想を、君に突きつけられたような気分になったんだよ」

「ふーん……俺自身はそんな凄いことをやったっていう自覚はもちろんないんだけど……でも案外、そういうものなのかも知れないね」

「そういうものって?」

「ほら、自分に対する一番のおべっか使いは自分自身だっていうじゃない。人間って、自分はこういう人間だって思ってても、実際それには相当なバイアスが掛かってるはずでしょう。それをある時、他人の口から気づかされて、俺達はハッとするわけだ。俺も、あの学校に通うまでは、自分のことをもっと利口なやつだと思ってたよ。でも実際は、俺は勉強は出来ても、やれることは殆どなかった。こんなもんなんだって思い知らされたね」

「そうなんだ」

「自分ってものは案外、他人の目を通してでしか分からないものなんだよ。今回、高尾さんはそれを目の当たりにして、理想とのギャップに驚いたんじゃないかな」

「そう……だね。そういうものなのかな……」


 里咲は感心し、そして一度は有理の言葉に納得しそうになったが、


「……あれ? でもちょっと待って。有理くんが見せてくれたあの演技は、私の思い描いてる理想よりも、ずっと凄かったんだよ?」

「そうなの?」

「そうだよ。だから私は嫉妬したんじゃない。でも君はあれを、私自身になりきったつもりで演じたんだよね?」

「ええ……まあ……」

「なら、有理くんには、いつも私があんな風に見えてるわけ?」

「……え?」


 あんな風にとは、どんな風に? 実際それを見ていないから分からない。でも自分がしでかしたことなんだから、こんな風だというのはなんとなく分かる。


 あの時の自分は必死だった。とにかく彼女の魅力を引き出すことに全力だった。後のことなんか考えず、がむしゃらに突き進んだ。もしそれが彼女の理想を超えているのだとしたら、そんなのもう愛の告白と変わらないではないか。


「……有理くんって、そんなに私のことが好きなの?」


 里咲はまるで素朴な疑問をぶつけるように、小首を傾げて見つめている。有理はその瞳にたじろいだ。


「えーと、高尾さん。それは実に難しい問題であって……」

「呼び方がまた元に戻ってるよ」

「え? あ、ごめん。直すよ、直すけど」

「ちゃんと答えて」


 彼女は彼がまた変な方に行ってしまわないように、手をぎゅっと握りしめると、じっとその目を覗き込んできた。


 彼女の吐息が、顔に掛かるくらいに近くにある。彼女に掴まれた腕が、なにか柔らかいものにぶつかっている。そして彼女のその大きな瞳には今、自分の姿が映ってるっぽいのだけれど、彼にはそれを確かめる術はなかった。


 有理の顔は瞬く間に赤く染まり、黒い目玉はピンボールみたいにあちこち飛び回っていた。うっかり口を開けば、心臓が飛び出してしまいそうだった。彼はか細い声を絞り出すように言った。


「ゆ……ゆるして……」

「ご、ごめん!」


 その顔があまりにも情けなくて笑えてきたのと同時に、自分がものすごく前のめりになっていることに気づいて、里咲はハッと我を取り戻すと、握っていた手を慌てて離してパッと飛び退いた。すると彼女の顔もみるみるうちに赤く染まっていき、まるで二人のゆでダコがお見合いしてるような奇妙な情景がそこに広がった。


 お互い、相手の顔すら見れなくなって自然と背中合わせになり、黙りこくったままモジモジと体をくねらせている。そんな二人の姿を、空の上から海鳥たちがアホーアホーと囃し立てた。彼らはしばしの間そうやって黙りこくっていたが、やがてどちらからともなく、


「帰ろうか……」


 と歩き出した。そして肩がくっつくくらい傍にいるのに、二人とも相手の方を見ないで、


「これから、どうしよっか? 新婚のフリは続けたほうがいいのかな?」

「それは多分、そうした方が良いんだろうけど」

「でも、私の演技は見破られちゃったんだよね」

「それなんだけど、演技なんかしなくていいんじゃないか? どうせ、ここに来る人達なんて、みんな新婚ばかりで自分たちのことにしか興味がないんだ。日本語も通じないんだし。俺たちが何やってても分からないよ」

「確かに……こういうのなんて言うんだっけ。骨折り損のくたびれ儲け? でも、普通にしてるって、何をすればいいのかな?」

「この間みんなで海に行った時みたいのでいいんだと思うよ。周囲の目を気にするより、自分たちが楽しむことだけ考えてれば、自然とそれらしく見えるんじゃないかな?」

「そう、かな……そうかも。じゃあ、あの時みたいにまた釣りでもする?」

「いいよ。でも釣具貸してくれるようなとこあったかな……」


 確か、オプショナルツアーにそんなのもあったかも……有理が記憶を辿っていると、隣に並ぶ里咲がぼそっと呟いた。


「手、繋ぐくらいしてもいいよね? 新婚なんだし……」

「え?」

「……その方が自然なんじゃないかな?」


 そして有理の手に、彼女の手が重なってきた。まるでそこに引力でもあるみたいに、最初は指先がくっつくくらいの控えめだったそれは、どんどん大胆になっていき、やがてどちらが求めるわけでもなく、自然と二つは一つになった。


 いま何を考えてたんだっけ? 全神経が手のひらに集中して、有理はちょっと前のことすら思い出せなくなっていた。ちょっと横を向けば済むことなのに、その手の先にいる人の顔を思い出そうとして、脳がフル回転していた。


 だから自分たちの周囲の様子なんてまったく見えていなかった。それは自分たちが今まさに歩いていこうとする先から聞こえてきた。


「ああああああーーーっ!! 見つけたああああああああーーーーっっ!!!」


 突然、二人の前方から、素っ頓狂な叫び声が聞こえてきて、その大声に驚いて二人の手は離れてしまった。まだ手のひらに残る感触を惜しみつつ、有理はなんてもったいないことをしやがるんだと大声の主を睨みつけた。


 一体、どこのどいつだ? しかし、その目はすぐ困惑の色へと変わっていった。すぐ隣では、里咲もまたその人物の登場に驚愕している。それもそのはず……普通に考えたら、それは絶対にここに居るはずがない人だったからだ。


「え? え? なんで……?」


 もったいぶらずにさっさと正体を明かそう。


 今、二人の目の前に、里咲の事務所のマネージャーの藤沢が立っていた。


 もちろん、ここは東京ではない。海外の、メガフロートからは船でしか来れない離島の、そして世間的には死んだことになっている里咲がここに居るなんて誰も知らないはずなのに、なんで? と二人が驚いていると、同じように驚愕の目をしたまま固まっている藤沢の後ろから、ひょっこりと椋露地マナが姿を現した。


 その人物の登場もまた意外で、二人が戸惑っていると、逆にマナの方は呆れたようにため息混じりに近づいてくるなり、


「この、おバカ!」

「あいたーっ!!」


 と、里咲に向かって思いっきりジャンピングチョップをかましてくるのだった。


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