どうして、世界はこんなにも
現アメリカ大統領マグナム・スミスが大統領選挙に出馬した時の下馬評は、9対1くらいで対立候補の圧勝だった。その劣勢を覆したのは、彼自身の移民に対する憎悪剥き出しの強気な演説と、アメリカ第一主義、そしてアレックス・ローニンという世界一の富豪の支援があったからだ。
いくら使っても使い切れない資金を得た陣営は、SNSを駆使して世論を扇動し、メディアを買収し、ハリウッド仕込みのイメージ戦略で、アメリカ人の頭にこびりついたステレオタイプな強い白人男性を演出してみせ、そして相手陣営をこれ以上ないほど醜い言葉でこき下ろした。
そのネガティブキャンペーンを最初は鼻で笑っていた相手陣営であったが、徐々にマグナム・スミスの支持率が上がってくると焦りだして、同じように相手のことをディスり始めた。
そんな対立候補の、マグナム・スミスという男がいかに危険かという主張は実に説得力があったものの、不思議と人間は普段から悪口を言い続けてる者よりも、いつもお高く留まってる人間が口にするネガティブな言葉に、より強い嫌悪感を抱くものだ。
そして大衆は、傲慢な人間の言葉は嘘であろうと真実であろうと評価はせず、逆に誠実であろうとする者のたった一度の間違いを永遠に許さないものである。
その後相手陣営は、選挙終盤に突如沸いて出てきたスキャンダルによって急激に支持を失い、それがフェイクニュースであると気づいた時にはすでに決着がついていた。かくしていくつもの遺恨を残したままマグナム・スミスは大統領に復職し、そして日本を含む同盟国はそんな彼の言動に翻弄されて現在に至るというわけである。
ところで、選挙戦勝利の立役者となったローニンは、当選当初こそ大統領の恩人だとか、偉大なるフィクサーだとかメディアに持ち上げられ、政権でも重要なポストに就くことが約束されていた。だが、蜜月は長くは続かなかった。
政権が発足して3か月くらいすると彼はだんだん周囲に疎まれていき、そのうちホワイトハウスの誰それと揉めたという醜聞ばかりが聞こえてくるようになった。結局、半年もしないうちに彼はホワイトハウスを去ることになり、すると今度はSNSを使って政権に対する不満を垂れ流し始めたのである。
それでも恩があることは確かだから、大統領も始めのうちは彼の愚痴を軽く受け流していたのだが、何しろあのパーソナリティだから長くはもたず、暫くするとSNS上で口論が始まり、お互いに口汚く罵りあった挙げ句、最終的には黙らなければ永住権を剥奪すると言われるまでにエスカレートした。
そんな大統領の脅迫ともとれる言葉に、やれるもんならやってみろと捨て台詞を残したのを最後に、ローニンは突如メディアから姿を消してしまった。本当にホワイトハウスから圧力が掛かったんだとも、なんらかの裏取引があったんだとも、単に飽きただけだとも言われているが、本当のところは誰にもわからない。
その彼が、いま有理の目の前に居た。有理が組んでいるプログラムを興味深そうに覗き込んで、不精に生やした顎髭を指で弄びながらしげしげと見つめている。
これは、どういう状況なんだ? 有理は寒いわけないのに、背筋に氷を押し付けられたかのような寒気を感じていた。
以上の経緯を踏まえると、大統領とローニンの間に親しい付き合いがあったことは間違いない。しかし、政権離脱後のことを考えると、今も二人に友情が残っているとも思えなかった。彼らが不仲を演じてるならともかく、少なくともホワイトハウスを去った後、彼が大統領のために何かやったという話はとんと聞かなくなった。逆に大統領を打倒するために、新党を結成するという噂さえある。
だから彼が大統領の差し金だとは思えない。それにもし刺客を送るなら、ローニンみたいに目立つ者より、もっとターゲットに気づかれないよう適切な人選をするんじゃないか。しかし、だからと言って、まったくなんの関係もないとも思えなかった。
「リガードゥ ベスト」
結局なにも分からないなら、そうだと決め打ちして警戒するしかないだろう。有理はそう判断して、咄嗟に探知魔法を唱えた。もしも彼が刺客なら、すでに周囲を取り囲まれている可能性が高い。だが見た感じ、周囲に変わった様子は見当たらなかった。
「ん、今、なんて? よく聞き取れなかった」
ローニンは、そんな有理のつぶやきに反応して聞き返してきたが、もちろん答える義理もないので黙っていると、やがて彼は諦めたように肩を竦めてから、またノートパソコンの方へ視線をやって、
「それはなんのプログラム? 教えてくれよ」
と気さくに話しかけてきた。その表情は穏やかでどこか愛嬌があり、いつもメディアで踊っている、目を吊り上げてヒステリックに叫んでる男と同じものとは思えなかった。本物の彼は人懐っこい目をした、眼鏡で小太りの古の秋葉オタクを彷彿とさせるような男であった。
有理は印象操作って怖いなと考えながらも、だからといって油断してはならないと気を引き締めようとしたのだが、その時、不意に違和感を感じて、気がつけば逆に質問を返してしまっていた。
「え……? 日本語??」
違和感の正体ははっきりしていた。ローニンは有理に向かって日本語で話しかけていたのだ。まさか、彼が日本語を喋るなんて思いもよらず目を瞬かせていると、世界一の大富豪は何をそんなに驚いているのかと言わんばかりに、
「君は日本人だろう? そこに日本語が書いてある」
彼はそう言ってノートパソコンを指さした。その通り、有理のプログラムにはコメントアウトに日本語が表示されていた。つまりローニンは、日本語を喋るだけじゃなくて読むことも出来るらしい。驚いていると彼は続けて、
「このアルゴリズムはベイズだろ? 君もAIをやってるの」
「え、ええ、まあ」
「やっぱり。僕も似たようなのを書いたことがあるよ。20年くらい前だったかな。おお、自己紹介がまだだった。僕の名前は、アレクサンドロス・ミハイロビッチ・ローニンです。あー……主にアメリカで会社を経営しています。んー、知らないかな?」
「あ、いえ、知ってます。知ってますよ。ミスター・ローニン。テレビで見たことあります」
「そうか、ならば良かった」
ローニンはニコニコしながら有理の顔を見つめている。もしかして、自己紹介を待っているのかと気付いた有理は、話しかけるんじゃなかったと後悔しながら、
「あ、関です。関って言います」
と適当に嘘をついておいた。
「そうか、セキ。会えて嬉しいよ」
ローニンはそう言って、欧米人らしい大袈裟な素振りで握手を求めてきた。有理が恐る恐る手を差し出すと、彼は奪い取るようにがっしりと握手を交わした後、相変わらず人懐っこそうな笑みを浮かべながら聞いてもいないことを話し始めた。
「休暇のつもりで遊びに来たんだがね。どうしても仕事のことが気になって。庭でパソコンを開いていたら、彼女に怒られてしまったよ。そうしたら隣で僕と同じように仕事してる奴が居るじゃないか。つい嬉しくなってね。挨拶しにきたんだ」
「そうなんですか」
「集中してるようだから声が掛けづらくて。驚かしたならごめん」
「いえ。構いませんよ。声を掛けていただいて光栄です」
その会話からしても、大統領の差し金という感じは全くしなかった。彼は本当にたまたま隣のコテージに居合わせてしまっただけなのだろうか。とはいえ信用する理由も何も無いから、警戒は怠らないようにしようと心に決めつつ、有理は思い切って尋ねてみた。
「あのお……ミスター・ローニン」
「アレックスでいい」
「あー……では、アレックスさん。暫くメディアで見かけませんでしたけど、今まで何をしてたんですか? 大統領にはもう協力しないんですか? せっかく彼を当選させたのに、それってもったいなくありません?」
有理はパパラッチでも聞かないようなことをズケズケ聞いてみた。大統領の手先ならボロを出すかもと思ったのだが……するとローニンは一瞬ムッとした顔をして見せたが、すぐに表情を和らげると、寧ろこの不躾な青年に興味が湧いてきたといった感じに腕組みをしながら言った。
「別に損得で彼に協力したわけじゃないからね。僕には僕の目的があったのさ。それが達成されたから、政権から距離を置いたってだけの話だ。その辺はマスコミにも話したと思うがね」
「目的……?」
「セキはこの空を見てどう思う?」
セキ……? あ、自分のことかと気づくまでちょっと反応が遅れたが、有理は言われるままに空を見上げた。
見上げる空はいつもどおりの青空で、別段何も変わりなく、強いてあげれば南国特有の青の濃さが感じられたが……多分、ローニンが聞きたいのはそんなことではないだろう。
彼はその空の中央に伸びる軌道エレベーターのことを聞いているのだ。有理はふむと視線を戻すと、
「実に壮大な景色ですね。人類がこんな凄い建物を作っただなんて、実際にこの目で見てもまだ信じられない気分ですよ」
それは実に当たり障りのない優等生な答えでローニンは気に入らないかなと思ったが、意外にも彼は同意して、
「君の言う通りだ。実際、僕が子供の頃には、誰も近い内にこんな建物が出来るなんて想像すらしていなかったよ。NASAが撤退してから宇宙開発は何十年も滞っていて、月に行くのすら夢のまた夢と思われていた。それがナノワームが発見されるや、あれよあれよという間に、人類はこんな建物を組み立ててしまった。来年、宇宙港が開港したら、一般企業による月の周遊旅行まで計画されている。物凄いことだ。なのに……」
ローニンの絶賛の言葉の後には逆接が続いた。
「なのに、こんなSFみたいな建物がある割には、この世界の科学技術は数十年は遅れていると思わないか?」
「……え?」
まったく予期していない言葉が出てきて有理は面食らった。ローニンはそんな有理の返事など期待していない感じに話し続けた。
「君もAIをやっているなら気づいてるんじゃないか。2070年代の僕たちが使ってる技術は、殆どが50年以上前に開発された枯れたものばかりだ。例えば、昨今流行りの生成AIも、本を正せば00年代に流行った機械学習が始まりだった。君が使ってるそのスマホも、同じ年代に今はなきApple社が開発したものだ。僕が最近手掛けた自動運転車なんかも、酷くもてはやされてるけど、本当ならもう何十年も前に出来てておかしくない代物だったんじゃないか。
なのに僕達は未だにそんなものを有難そうに使い続けている。僕は、この世界の科学は、何かチグハグになっているんじゃないかと思っているんだ」
そんなローニンの言葉は、有理の心のどこかにぽっかりと開いていた隙間に、ピタリと嵌まるように突き刺さった。確かに、有理もメリッサを開発しながら、そんな風に思ったことがあった。どうして、誰も自分と同じことをやらなかったのだろうかと……
どうして、世界はこんなにも遅れているのかと……
「いつからそんなことになってるのかと言えば、どうも50年前の大衝突の後かららしい。それまで常に世界一の科学を誇っていたアメリカは、あの時を境に、何故か技術局をコストカットし続けてきた。まるで目の敵にするみたいにさ。
僕はそれを正したかった。だからマグナム・スミスに協力したんだがね……ところがいざ蓋を開ければ結局あの男も他の連中と変わらなかった。あの男はこの世界を正しい方へ導くどころか、政敵を貶め権力を誇示することにしか関心が無かったんだよ。そんな復讐心の鬼みたいな老人につきあわされて、実に無駄な時間を過ごしたもんだ」
吐き捨てるようにそう呟いた彼の表情は、よくメディアで見かけたヒステリックで粗暴な男のそれだった。有理は間近で見るその迫力にゾクリとした恐怖を覚えると同時に、少なくとも、彼と大統領が袂を分かったのは本当のことだったんだなと確信を得るのだった。




