予言者
ドスン! ……という大きな音で目が覚めた。目を開ければ埃っぽいフローリングとソファの足が視界に飛び込んできて、状況を理解するのに暫くかかった。そう言えば昨日は南国リゾートのコテージに泊まったんだった。色々あってリビングで寝たのだが、どうやら寝返りを打った拍子にソファから転げ落ちてしまったらしい。
それじゃ、あの大きな音は自分が床に叩きつけられた音だったのか。怪我してないかと体を起こすと、腰の辺りがじんわり痛んだ。といっても落ちた拍子に叩きつけられたわけじゃなく、無理な姿勢で寝ていたせいだろう。体は泥のように疲れ切っていた。体力的というよりは精神的に疲弊していた。
昨夜は里咲が怒って寝室へ閉じこもってしまった後、有理はどうすることも出来ずにリビングで息を潜めているしかなかった。追いかけなきゃと思いはしたが、彼女がなんで怒っているのかが分からないので、下手なことを言うとまた怒らせてしまいそうで気が引けたのだ。
こういう時は下手に刺激しないほうが良いだろう。そう自分に言い聞かせて、相手の怒りが収まるのを待つことにしたのだが、しょうがないから自分も部屋に引っ込んでしまおうと考えた時、彼はふと気づいた。
よく考えれば今、自分たちはひとつ屋根の下で二人っきりなのではないか? そう考えると、なんだか急に罪悪感が沸いてきてリビングから出ることが出来なくなってしまった。
もちろん、二人きりなのを好都合に里咲を襲ったりなんかしない。逆に彼女が、襲われるんじゃないかと思ったりしないか、それが怖くて足音すら立てられないのだ。
こうなってはもう寝てしまうのが一番なのだが、しかし、ベッドは彼女が籠もる部屋にある。他にもあるかも知れないが、自分が立てる家探しの音が気になってしまって、もう諦めてリビングで寝ることにした。
昼間ずっと海風に吹かれていたせいで体がベタベタしていたが、風呂に入りたくてもこの二人っきりの家の中で、全裸になる度胸はなかった。排水口が詰まるようなことをしてしまわないか、自分が全然信用ならない。緊張のせいかもうずっと喉が渇いていたのだが、トイレに行きたくならないように、水もろくに飲めなかった。
リビングのソファは彼女が寝そべってた時はちょうどいいサイズに見えたが、流石に男の自分は丸まらなければ収まりきらなかった。そうして窮屈な思いをしながら横になったは良いものの、時折、里咲の部屋からあーとかうーとか変な声が聞こえてきて、それが気になって全然寝付けなかった。こっちは呼吸の音すら気をつけてるのに、あっちはお構いなしである。なんだか気にしてるのが馬鹿らしくなったが、それでも意識してしまうのは、惚れた弱みなのだろうか。人間、好きになった方が負けなのだ。彼女はいくらでも恋人のフリが出来るだろうが、こっちは手すら握ることが出来ない。
そんな昨夜の悪夢を思い出しながら……硬いフローリングから起き上がって、ぐっと両手を突き出し伸びをする。備え付けの時計を見れば針は8時を指しており、外ではすでに眩しいくらい太陽が輝いていた。今日も暑くなるに違いない。
明るくなったお陰か罪悪感も薄れ、もう音を立ててもそんな気にならなくなっていたが、逆に風呂キャンセルした自分の臭いが気になった。着替える前に体くらい拭きたかったが、タオルはどこかな? と視線を巡らせれば、窓の外に青々と水を湛えるプールが見えた。昨晩は気づかなかったが、このコテージはプールまで付いていたようだ。
丁度、昨日貸りた水着があるから、水浴びしたらさぞかし気持ちいいだろう。よく見ればデッキには畳んだパラソルとチェアが並んでいる。何か朝食代わりに持ってこうと思い、キッチンを確認してたら、自分のではないノートパソコンを見つけた。多分、コテージの備品だろうが、なんでこんなところにあるんだろうか?
電源を入れるとウィンドウが開いて、リゾートの運営会社からの案内が表示された。きっと、これを使ってオプションツアーに申し込んでくれということだろう。多分、昨日説明されたんだろうが、テンパっていたせいか何も覚えていなかった。
とりあえず、ブラウザを立ち上げてポータルサイトに繋ごうとしたら重すぎて話にならなかった。どんな貧弱な回線使ってるんだと、ルーターを確認してみれば、電話台の横に見覚えのあるアンテナが置いてあった。
これってエッジワースのじゃないか? きっとリゾート島までは光ファイバーが通せなかったから、衛星回線を使っているのだ。しかし、アンテナを室内に置いてしまったら意味ないではないか。
そう思ってノーパソと一緒に外のデッキに持ち出してみたら、問題なくネットに繋がった。試しに動画サイトを開いて適当なBGMを選んだら、ノーパソのスピーカーからちゃちな音が流れてきた。直射日光を避けようとしてパラソルを開いて遮ると、ちょうどそこに心地よい海風が吹いてきて、何だかここに来て、初めて海外にやって来たんだなという実感が湧いてきた。
軽くプールを一往復して汗を流し、デッキチェアに寝そべるように腰をおろして空を見上げる。するとそこには空を分断するような線が見えた。それは軌道エレベーターの比喩ではなく、本当にただのワイヤーだった。
軌道エレベーターは土台から空へ向けて積み上げていったわけではなく、宇宙から吊り下げられような格好で建造された。赤道上にあるからコリオリの力は無視できるが、ああ見えて地面とは繋がっていないから風の影響を受けてしまう。なのでワイヤーをピンと張って、アンカーで固定しているのだ。
このリゾート島は、そのアンカーが沈む海域の真上にあった。台風や自然災害など何かあった時のために、そこに施設が必要だったのと、アンカーを沈めるのに比較的水深が浅い海域が選ばれていたから、人工環礁を作りやすくそこに企業が目を付けたのだ。
運営会社はまず環礁を作って、それを囲むように防波堤を築き、内側に浮島の別荘地を作って売り出した。するとその新奇性が金持ちや投機家の目に止まって、あれよあれよという間に値段が吊り上げられて、世界有数の高級リゾートが誕生した。これを強欲な連中が見逃すはずがなく、ワイヤーは他にも何本もあるのだから、その後奪い合うようにリゾート島の開発ラッシュが始まった。この島はそのうちの一つというわけである。
リゾート島にはかの有名なドバイのパーム・ジュメイラを模した島なんかもあって、そっちはプールなんかではなく、一軒ごとにプライベートビーチが付いてるそうだ。中には島自体が売り物になってるものもあるらしい。ちなみに有理が借りているコテージはおいくら万円するんだろう? と調べてみたら、目ん玉が飛び出るような額が出てきて腰を抜かしそうになった。こんなの、ただの観光客に貸し出しちゃっていいのだろうか?
「アレク!」
一桁間違ってるんじゃないかと数えていたら、隣のコテージの方から誰か女性の声が聞こえてきた。声に釣られて見てみれば、垣根の隙間から隣のプールが薄っすらと見え、そのデッキチェアで有理と同じようにノートパソコンとにらめっこしている男の姿が見えた。男は振り返ると、家の方からやって来た女性のほっぺたにキスして、二人は親しげに会話を始めた。遠くて何を喋ってるのかは分からない。
その男の顔になんとなく見覚えがあるような気がして、有理はその様子を暫くの間ぼんやり眺めていたのだが、その途中で、そう言えばつい最近にもこんなことがあったなと思い出し、確かメガフロートに到着してすぐ歓楽街でステファンっぽい人物を見かけたのだと回想したところで、不意にその男と目があってしまった。
「……um?」
怪訝そうな表情をする男から慌てて目を逸らしたが、時すでに遅し。ジロジロ見ていたことに気を悪くしていなければいいのだが……
お陰で隣人の顔をしっかり確認できたが、思い返してみても、彼は歓楽街で見かけた男とは似ても似つかず、全くの別人であることが分かっただけだった。歓楽街の男は金髪のもっと若い男性で、隣の男は赤みがかった茶髪のちょっと小太りのおっさんである。流石に、これを見間違えたりはしない。
結局、見覚えがあると思ったのは、ただの気のせいだったようだ。日本を発ってから気が休まる暇がなく、相当疲れが溜まっているのだろう。考えてもみれば長距離移動した挙げ句に、ほとんど寝る間もなく駆け回り続けて、時差ボケもあって、そのうえ昨日なんかは慣れない演技の真似事までさせられたのだ。
いや、何事もなければ、今日もまた新婚カップルを演じなければならないのだ。そう考えると今から気が重かった。里咲がなんであんなに怒ったのかは分からなかったが、また昨日みたいな失態を演じたら、今度こそ愛想を尽かされてしまうかも知れない。
なので今日こそは失敗しないように気を張っていなければならないのだが……しかし、彼女相手に意識するなというのは流石に難易度が高すぎる。これが桜子さんだったら、きっとここまで苦労はしなかっただろうに。なんなら関西から来たカップルを演じてドツキ漫才までやりきる自信があった。やはり無理を承知で今からでも兄妹って設定に変えてもらえないだろうか……
「まあ、無理だろうな……」
有理は独りごちてはため息を吐いた。
ところで、その桜子さんから連絡がない。昨日、別れるときに、定期的に連絡をすると言っていたはずだが、てっきり夜にでも電話を掛けてくると思っていたがそれもなかった。今朝、寝起きにこっちからも掛けてみたのだが返事はなく……なんだか嫌な感じである。
もしかして里咲のスマホの方に掛けていないだろうか? そう思って時計を見れば、そろそろ彼女を起こしてもいい頃合いだった。しかし、昨日の剣幕を思い出すとまだちょっと勇気が湧いてこなかった。まあ、いつ電話するとも言っていなかったから、まだそこまで気にする必要もないだろう。
それにしても、メリッサが稼働中なら、こんなヤキモキすること無かっただろうに。アプリで命じれば、自分の代わりに相手の所在地を確認して連絡まで取ってくれる。昨日みたいに慣れない通訳をする必要もない。なんなら、有理の声を使って、代わりに演技までしてくれただろう。そう考えると、彼女の不在が惜しかった。
本当なら今ごろ、亡命ついでに桜子さんの実家で調整している予定だったのだが、昨日のバタバタでその目処も立たなくなっていた。いつ、宇宙港まで行けるのだろうか?
ノーパソで確認してみると、メリッサの記憶データはちゃんと宇宙港に存在するようだが、それを動かすサーバーがなかった。桜子さんの話では、ちゃんと言われた通りパーツを発注してくれたようだが、物はあっても組み立てなければ意味をなさない。なにか他に方法はないだろうか……
最近はバージョン管理をウェブでやるのが主流だが、良し悪しあっても、こういう突発的な対応も出来るのが強みである。有理は適当に開発環境をダウンロードしてくると、借り物のノートパソコンに無理やりインストールして、アプリの古いバーションのソースを開いた。
今のメリッサは膨大なデータを処理するために、かなり強力なサーバーを必要としているが、元々は有理が個人的に開発したプログラムだから、バージョンを遡れば並のスペックのパソコン一台でも十分に稼働するような代物だった。もちろん、古いバージョンでは今みたいな強烈なサポートは出来ないが、それでもアプリを通してユーザー同士のコミュニケーションや、テキストベースの通訳くらいなら出来る。精度はまあ、お察しだが……それでも、何も無いよりはマシだろう。
それに、独自プロトコルを採用しているから傍受される心配もない。上手くやれば桜子さんだけでなく、張偉とも連絡が取れるはずだ。ただ、それには現バージョンとの整合性を取らなければならなかった。
そんなわけで、何を考えてこんなコードを組んだんだっけなあ……? などと、あーだこーだ思い出しながら、パズルを解くようにソースコードを読み進めている時だった。
突然、モニター画面が陰ってきて、有理は我に返った。雲でも出てきたのかな? と思って顔を上げると、空は相変わらずのピーカンで、代わりに自分の背後からモニターを興味深そうに覗き込んでいる男が居ることに気づいて、有理は驚いた。
その男は茶髪で小太りの外国人……つまり、さっきばっちり目が合ってしまった隣の男だったのだが、そいつが垣根を越えてきたらしい。もしかして、文句でも言いに来たのだろうか……まさかヤクザだったらどうしようかと焦っていると、有理はハッと気がついた。
さっき、なんとなく見覚えがあると思ったのは気のせいじゃなかった。有理はその男のことを知っていた。もちろん知り合いというわけじゃなく、こっちが一方的に知っているだけの関係であるが。
何故なら、その男は世界的にも有名な超セレブだったのだ。
名をアレックス・ローニンと言って、若い頃からいくつもの事業を立ち上げ巨万の富を得た、時代の寵児とも、IT界の申し子とも呼ばれる男だった。友達と始めた大学発ベンチャーで名を挙げ、その事業を売り払った後も、異世界転生でも繰り返してるんじゃないかと言われるくらい次々と新規ビジネスを成功させて、今では長者番付けの常連であり、予言者とまで呼ばれている男である。
そんな彼がどうしてこんな場所に居るのかと思いもしたが、さっき見たこの島の価値を考えれば居てもおかしくはないだろう。それより、そんな男が有理に興味を示し、こうして眼の前に立っていることの方が問題だった。
というのも、アメリカの選挙はとにかく金がかかり、いくら献金を集められるかが大統領候補の条件でもあった。だから金持ちほど政治に興味があって、彼らは必ずと言っていいほど、どこかの政党や候補に肩入れしている。
無論、眼の前の男も例外ではなく……そしてこの男が前回の大統領選で強烈に支援していたのが、現大統領マグナム・スミスだったのだ。
その大統領に追われて南の島にたどり着いた有理の前に、その大統領を支援した男が立っているのだ。こんな偶然があるのだろうか? 有理はあまりの衝撃に、暫くの間、息をすることも忘れて固まっていた。




