浮かれるものの悲しい末路
「海だああーーーっっ!!」
打ち寄せる波の音がそんな声をかき消した。砂浜を駆け下りていった関が波打ち際でジャンプしようとしてすっ転んで、ゴロゴロバシャンと水しぶきを上げて沈んでいった。上空では鳶が弧を描き、遠くの方からカモメの鳴き声が聞こえてくる。ついでにモンスターの「ウギィ! ウギィ!」という不気味な声も聞こえてきたが、マナが無言で射殺していた。
「うげえ……気持ち悪い……」
有理は砂浜に四つん這いになって、込み上げてくる吐き気に耐えていた。海までおよそ15キロ、空路だから大した時間では無かったが、空を飛ぶと言っても自力では飛べないので、道中はずっと里咲とアストリアの二人に吊り下げられていたのだが、二人は別に仲が良いわけでも息ぴったりというわけでもないから、たまに空中で左右に捻れたり、度々落とされそうな恐怖を味わう羽目になった。
そんないつ死ぬか分からない緊張感が何分も続いているうちに、だんだん吐き気を催してきたのだが、空の上で、ましてや女の子に抱えられながら吐くわけにもいかず、ようやく現地に到着した時には既にグロッキー状態だった。
「俺が何をしたんだ……」
ぶつくさ言いながら、よろよろと立ち上がる。
空の上では景色を楽しむ余裕が無かったが、こうして間近で見た海は、まるで絵画みたいに美しかった。いつもならガンジス川みたいな色をしている相模湾は、今は信じられないくらいの透明度を誇り、空の色も、流れる雲までくっきりと映し出して、どこまでも続く透明のキャンバスのようだった。
この世界は何もかも現実とそっくりに出来ているが、汚染まで真似る必要はないからこうなったのだろうか。波打ち際まで歩いていって、足首まで海水に浸かり目を凝らして見れば、水の中を魚が泳いでいるのが見えた。まるで空を飛んでいるかのようだ。こんなに透き通って見えるのは、過去に旅行で沖縄に行った時以来ではないか?
「ヴボワァァア~……アア゛ァァー……」
そんな景色に見とれていたら、いつの間にか敵の接近を許してしまっていたらしい。慌ててナイフを手に取って、迫りくるモンスターの軍団と戦い始める。
と言っても、このメンツではもう苦労することは何もなく、海岸を跋扈していたモンスターたちはあっという間に片付けられていった。
そうして敵の第一ウェーブを退けたら、またすぐ近くに煙のようにモンスターが湧き出してきて、その新たな集団を倒すとまた湧き出し……そうやって次々と押し寄せてくるモンスターの群れと戦い続け、一時間ほどが経過すると、徐々にモンスターの湧きは鈍くなってきた。
こうなってくると待っていても仕方ないので、狩り場を移動するしかないのだが、
「なあ、パイセン。今日はもういいんじゃねえの? そろそろ切り上げて遊ぼうぜ!」
「何言ってんだよ、まだ来たばっかだろ? 全然経験値稼げてないし」
「こんな綺麗な海を前に、経験値稼ぎの方が大事かって話だよ」
関のそんな言葉に、みんな同意するように頷いている。
「でも、俺だけまだ空飛べないし、明日までに間に合わせたいんだけど」
「今まで散々やって来て飛べなかったのに、明日なんてどうせ間に合わねえよ。パイセン、レベル高えから、稼ぐ経験値も馬鹿にならないし」
「そんなのやってみなきゃ分からないじゃないか」
「じゃあ、レベルが上ってSP獲得したら、今度は何をするつもりだよ? もう空飛ぶのに必要な魔法は覚えたんだろ」
「……そうだけど」
魔法で空を飛べるようになった連中のステータスを確認すると、みんな『flugo』と『mi』の2語を獲得していた。だから当然、有理もその2つを習得してみたのだが、結果はご覧の有様である。何をやってもうんともすんとも言わないのだ。
それでも諦めきれないから、その後、色んな人の意見を聞いて、新たな語も習得してみたのだが、やはり結果は芳しくなかった。
「多分レベルアップでどうこうなるもんじゃないぜ。イメージしても飛べないんなら、パイセンに何か問題があるんじゃねえの」
「うぐぐぐぐ……」
関にしては的確な指摘である。それでも有理は言い返そうと、あれこれと考えていたが、やがて諦めるようにため息をつくと、
「……分かったよ。だからそんな目で見るなよ、みんな」
「そうこなくっちゃ!」
有理が同意すると、仲間はみんな両手を上げて喜んだ。最初から目をつけていたのだろうか、すぐ近くの海の家まで走っていって、浮き輪などの遊具を持って帰ってきたが、どうやら水着は見つからなかったようで、また探してくるといってどこかへ行ってしまった。
残った有理はマナと二人でモンスターの残党を狩って安全を確保しつつ、パラソルを立てたり、飲み物の用意などをして過ごした。海の家やコンビニの食料は全滅していたが、自販機はまだ動いていた。サーフボード屋でボードを拝借し、やったことないけど簡単かな? と浜辺に持って帰ると、
「cdloierl ユーリ!」
いつの間にか、波打ち際に水着に着替えたアストリアが居て、相変わらずよく分からない言葉で喜びを爆発させていた。白のビキニにパレオを巻いて、水を弾いた肌は健康的でナイスバディだ。ここが本物の海水浴場なら、きっと誰もが振り返っただろう。有理も一瞬、見惚れそうになったが、冷静に考えれば桜子さんのそんな姿は普段から見慣れていたので、平常心を保つことに成功すると、彼女の方へと近寄っていった。
アストリアは海に夢中で、いつもみたいに一次接触を狙ってきたりはしなかった。波打ち際で、行きつ戻りつする白波を追いかけながら、キャーキャーと子供みたいにはしゃいでいる。まるで海を見るのが初めてみたいな浮かれっぷりだったが、もしかして本当に初めてだったのだろうか。あの森の国は四方を山に囲まれて海なんて無かった。いや、それどころか、あそこが月だったとしたら……?
未だに、彼女がどこの何者なのか分からなかったが、ただの異世界人ということはないだろう。このNPCはどうやって生まれたのだろうか……
「あー! アストリア、ずるい!」
そんな事を考えていると、丘の方から声が聞こえてきた。振り返れば他のみんなも水着に着替えて海岸に戻ってきたようだ。
シンプルなワンピースの水着に身を包んだ里咲に、フリンジのついたセパレートの南条、そして何故か川路はスクール水着を着ていた。彼女はなんだ、何かそういう呪いでもかけられているのだろうか?
「どこにも居ないと思ったら、先に来てるんだもん! みんなで一緒に行くって約束だったじゃん!」
里咲はそう言って駆け出すと、波打ち際にいたアストリアを突き飛ばすようにして、二人一緒に海の中にダイブしていった。
「二人とも準備運動しないと、危険ですわよ」
南条が呆れたように続く。びしょ濡れになった里咲は髪に水を滴らせながら振り返ると、そこに有理を見つけて、
「物部さん! 見てみて、水着!」
と言って屈託なく笑った。その笑顔が眩しくて、正直直視が出来なかった。
去年の今頃は、こんな青春ぽいシチュエーションに自分がいるなんて想像も出来なくて、確か単語帳ばかり眺めていたはずだ。それどころか短い人生を振り返っても、今ほど充実した陽キャライフを過ごしている時間はどこにも見当たらない。女性と言葉をかわすことさえ、今までの人生では数えるほどしかなかったんじゃないか。
どうしよう。こういう時は、褒めたりした方がいいんだろうか? 童貞にはきつい……とドギマギしていると、
「うひょー! 里咲ちゃん、可愛いね! 海より眩しいかも! 南条もやるじゃん、凄く似合ってるよ! 見とれたら……怒る? うわ! 川路のその水着、センスいいね! 君の雰囲気にぴったりだ!」
「スク水だろが、おまえ、適当に思いついたこと口にしてるだけだろ」
川路は関のジロジロとした視線から逃れるように体をひねりつつ、呆れたような口ぶりでそう言ったが、みんな案外まんざらでも無さそうだった。憎い……こういう場面でいくらでも軽薄に振る舞えるあの男が憎い……
「物部さんも水着に着替えてきたらどうだ」
チャラ男に憎悪の炎を燃やしていると、遅れてやって来た張偉がバミューダパンツを差し出してきた。こっちはこっちで腹筋が6つに割れていて、マッチョではないが全身が引き締まったアスリート体型である。
「あの……俺なんかが水着、着てもいいんですかね?」
「何言ってるんだ」
この男と並んだら、自分の青白いボディが尚更強調されるだろう。とはいえ、みんなが水着なのに一人だけ着替えないわけにもいかず、死刑台に昇るような心境で海の家の更衣室に歩いていった。
Tシャツを着てたらやっぱり誂われるかなと、諦めて貧弱な体を晒しながら戻ってくると、みんなはそんな有理の杞憂などお構いなしにエンジョイしていた。
浜辺では、いつの間に仲良くなったのか、アストリアと南条が一緒に城を建てようとして砂まみれになっていた。沖では水上バイクに乗った張偉が、関をロープに繋いで引きずり回していた。どうやら、ジェットスキーをやろうとして失敗したらしい。その近くでは、男の有理よりも先に着替え終えたマナが、ぷかぷかと浮き輪でアイスを食べていた。そして里咲は浜辺に何本も釣り竿を立てていた。何をやってるんだ、この女は……
「おー、物部も来たかー」
砂浜に立てたパラソルの下では、川路がビーチチェアで寛ぎながら漫画を読んでいた。なにも海に来てまでやることじゃないだろうにと思いつつも、どこに行っても自分を見失わない彼女にある意味尊敬の念を抱く。自分も陰キャらしく日陰に座ってようかとも思ったが、迷惑そうなので荷物を置いたら浜辺へと向かった。
砂の城の二人は真剣なので近寄りづらく、必然的に釣り人の方へと歩いてくると、彼女は何投かした後にイライラした口調で沖に向かって、
「ちょっと! 魚が逃げるからあっち行ってよ!!」
と怒鳴り散らした。水上バイクが遠ざかっていくと、そのまま浜辺へ乗り上げて、バイクを降りた張偉と関は、今度は空を飛んで沖まで戻って、空中からダイビングして遊び始めた。それが楽しそうだったからか、アイスキャンディーを食べていたマナもふわりと空を飛ぶと、一緒になって遊び始めた。
「もう……魚が逃げるって言ってるのになあ」
里咲は不満げにそう呟くと、その場にしゃがんで釣り針に餌を付け始めた。にょろにょろとしたミミズみたいなのは、イソメとかゴカイとかなんかそんな名前の生き物である。おそらく、世の女性が見たら10人中9人は悲鳴をあげそうなそのグロテスクな見た目に、有理も腰が引けたが、彼女の方は慣れた手つきでつまみ上げては、ぐるぐると釣り針のカーブに沿って口の方から串刺しにしていった。
「高尾さん、それどうしたの?」
彼女の背中越しにそれを見ていた有理が問いかけると、今まで彼が来ていたことに気づかなかった里咲がはっと振り返り、
「あ、物部さん。そこの釣具屋で見つけたんですよ」
「それ……売り物なの?」
「はい。もう1週間くらい放置されてたみたいだけど、意外と元気そうだったんで。でも半分くらいは死んでて凄い臭いしてました」
それは想像したくないなあ、と思っていると、
「これももって数日の命でしょうから、仲間の死体を食べて生き延びるくらいなら、使命を全うさせてやろうと思って。たくさんあるから、つけ放題ですよ。どうです、一緒に?」
「どうですって言われても……」
里咲はニカッと白い歯を見せながら、一本の釣り針に何匹ものイソメを串刺しにしている。縫い付けられた生き餌がニュルニュルと絡まりあって、もはやそんな感じのモンスターである。正直、一匹でも触りたくないので断ると、彼女は残念そうにそのモンスターボールを沖に向かって放り投げた。
ボチャンと音を立てて餌が沈む。透明度の高い海の中はここからでもよく見え、釣り糸の辺りにも魚が泳いでいるのが見えた。しかし、あんなのを一飲みできるような大物は見当たらないから、ちょっと付け過ぎなんじゃないのと言おうとした時、その糸の周辺にバシャーンとでっかい水しぶきを上げて、関が落っこちてきた。驚いた魚があちこちに四散していく。
「もうー!! あっちに行ってってば!!」
里咲が怒鳴ると、関はヘラヘラと笑いながらまた空へと舞い上がり、バシャンバシャンとダイブを繰り返した。もはや完全にわざとである。好きな子にはわざと意地悪をする子供がいるが、どうやら奴はその口のようだ。
里咲はムキーっと地団駄を踏むと、関に向かって分銅のついた釣り糸をぶん投げていた。関はそんな彼女を挑発するように、沖合をくるくる飛びながら彼女の投擲を華麗に避け続けた。こうなってはもう、直接飛んでいって叩き落とすくらいしか方法はない。しかし、自分は空を飛べないし……と有理がムカムカしながら、
「くそう……あいつ死なねえかな」
と呟いた時だった。
沖の方で何度もダイビングをしていた関が、今までで一番高く上空へ舞い上がったと思ったら、そのまま重力を受けて頭から海に飛び込んだ。
すると、本当だったらバシャーンと水しぶきを立てて海の中に消えていくはずが、そのときは何故か水しぶきも殆ど上がらず、ゴーンと音を立てるかのように、関の体は沖合の海の上に突き刺さった。
まるで犬神家の一族みたいに、下半身だけが海の上に突き出している。
それで思い出した……相模湾はけっこう遠浅なのだ。
そうと知らずに何度もダイビングを繰り返していた関は、たまたま地面がせり出していたところに落っこちたらしい。頭から地面に突き刺さった彼は、その後暫くすると、光の礫になって空へと上がっていった。
あとに残されたのはさざなみの音だけで……暫くの間、その衝撃の場面を見て硬直していた二人は、やがて時が立つにつれて笑いが込み上げてきた。
浮かれるものの悲しい末路を腹を抱えて笑いながら、そうして楽しい午後は過ぎていった。




