行ってみたいと思いませんか
シャカシャカという耳障りな音で目が覚めた。頭が重いというか、何か圧迫感があると思ったら、どうやらイヤホンを付けたまま眠ってしまっていたらしい。慌てて外すと、久しぶりの外気に触れた耳がひんやりとして、それからじんじん痛んだ。
耳が馬鹿になっていないかな? と小指でほじくり、洗面台で顔を洗ってから、今日は研究棟の探索でもしようかと考え事をしながら用を足し、トイレを出たら、反対の女子トイレの方から出てきた生徒会長の椋露地マナと鉢合わせした。
場所が場所だけに声が掛けづらく、黙って道を譲ろうとしたら、相手の方はズカズカと有理の前へきて、挑むように睨みつけてきた。
「まったく、あんたのクラスの連中はどうなってるのよ!? 昨日は一晩中騒いでるから、何度も注意していたせいで殆ど眠れなかったわ。あんたはよく眠れたわね」
そう言うマナの目の下にはくっきりと隈がついている。有理は関のことかな? と申し訳なく思いつつ、
「ああ、まあ、男子寮なんていつもあんなもんだから。昨日はイヤホンつけたまま眠っちゃってたみたいでね。ずっと注意してたの? 力になれなくてゴメン」
「いつもああなの? 信じられないわ。動物園だってもうちょっと静かよ。同じ年ごろなのに、刑吏のみんなとはえらい違いよね」
マナはプリプリ怒っている。有理は彼女を宥めるように苦笑しながら相槌を打った。
「刑吏のみんなって……ああ、ゲームの世界か。懐かしいなあ、あれから随分経ったよね。ステファンやローザは今頃何してるんだろうか」
「何言ってるのよあんた、つい最近のことじゃない」
「え? そうだっけ?」
そう言われてみると、確かにあれからそんなに経っていなかった。考えてもみれば、この魔法学校に来てからもまだ3ヶ月程度のことなのだ。その間色々あり過ぎたから、少し感覚がおかしくなっているのかも知れない。例えば、死にかけたり、殺されかけたり、何度も殺されたり……ろくな目に遭ってないな、ちくしょう……
「……っけんじゃねえよ!」「……が悪いんでしょ!」
そんなことを考えていたら、吹き抜けの方から男女が争うような声が聞こえてきた。痴話喧嘩というわけではなく、どうも複数人が揉めているようである。様子を窺おうと耳をそばだてていると、委員長気質のマナが目を吊り上げて、
「大変! すぐ止めなきゃ!」
と言って走り出してしまったので、仕方なくその後に続く。
エスカレーターを駆け下りて、フードコートを横切ると、すぐ目の前にあった洋品店の近くで男女のグループが揉めていた。中心では丸めた服を小脇に抱えた男子と、彼のことを睨みつけている女子がいる。
「まあまあ、君たち、落ち着いて。何があったの?」
「あ、物部。ねえ、聞いてよ、こいつがお店の……」
「物部は関係ないだろ、すっこんでろ」
よく見ると、彼女は店内を指さして何かを訴えており、その先を辿って見れば、ハンガーラックが何台も倒されて商品が床に散らばっていた。多分、彼女はそれを注意していたのだろう。男が服を抱えているのを見るからに、彼が服を取ろうとしてうっかり引っ掛けたのではないか。
有理は二人の間に割って入ると、
「お店のラック倒しちゃったの?」
「見れば分かるでしょ! みんなが通る場所なんだから、早く片付けなさいよって言ってるのに、言うこと聞かないでどっか行こうとしたのよ!」
「だから後でやるって言ってんのに、こいつがしつけえんだよ!」
二人は顔を真っ赤にして怒鳴り合っている。その背後には友だちらしき者たちがいて、どっちにも味方出来ない感じで、難しそうな顔をしていた。それを見たマナが呆れた素振りで溜息を吐いている。このまま放っておいても大丈夫そうだったが、有理は二人を押し留めるように前に出ると、
「なるほど、確かに彼女の言う通り、ここは目立つから放置するわけにはいかないな。でも、彼も戻ってきて片付けるって言ってるんだから、ちょっと待ってあげてもいいんじゃないか」
「そんなの口で言ってるだけよ。どうせ戻ってこないわ」
「そこは信じてあげようよ。もし、そのつもりなら、もうとっくに逃げてるはずでしょう?」
そう言われた女は、うっと言葉を詰まらせる。
「彼もわざとやったわけじゃないんだ。きっとうっかり引っ掛けたかどうかしたんだろう。後で片付けると言ってるんだから、それでいいんじゃないか」
そう言うと、男は勝ち誇ったような顔をしたが、有理はすかさず、
「でも俺は彼女の言ってることもよく分かるよ。もうみんな気づいてると思うけど、このモールの店員さんたちは昨日の朝までは、ちゃんとここに居たんだ。どうしてこうなったか分からないけど、俺たちが元の世界に帰ったら、きっと彼らもここに戻ってくるだろう。その時、店がグシャグシャになっていたら、どう思うだろうか。俺達はここに間借りしてるだけなんだ。緊急時だから多少物を拝借するのは仕方ないけど、それ以外は出来るだけ元のまま残しておきたいじゃないか」
その言葉に、その場にいた全員が押し黙った。有理は彼らが聞き入れてくれたと見て取るとそれ以上は何も言わずに、
「それじゃあ、俺も手伝うから片付けようか。みんなでやったらすぐだよ」
彼が率先して散らばった服を集め始めると、他の連中もぞろぞろと後に続いた。気がつけばさっきまで怒鳴り合ってた二人も、「……俺が悪かったよ」「私も言い過ぎたわ」とお互いに反省し合っているようだった。
実際、みんなでやったらあっという間で、ものの五分もしないうちに元通りに片付いてしまった。店が片づきゃ彼らの関係もすっきりしたもので、まるで何事も無かったかのように、さばさばとした感じで同じ方向に去っていった。多分、元々あのグループは仲が良かったのだろう。喧嘩するほど仲が良いというが、はた迷惑なことである。
そんな彼らの背中を見送っていると、隣に並んでいたマナが、
「あんた、中々やるわね。なんなら私から言おうと思ってたけど、素直に感心したわ。案外、教師とか向いてるんじゃない?」
「冗談じゃない、揉め事はゴメンだよ。こんなことでもなきゃ、見て見ぬふりで通り過ぎてたところだ」
「私たちは間借りしてるってのは正しい考えね。実際、元の世界に戻るとしたら、ここでの出来事がどう影響するかわからないもの。不都合が起きないように、出来るだけそのままにしておいた方がいいわ」
「あ、いた、パイセン、いやっほーい! 略奪いこうぜー! 略奪略奪ー!」
二人が教育テレビみたいな会話をしていると、エントランスホールの方からアホを絵に書いたらこうなったみたいな男がやって来た。たったいま言ったことを、全て台無しにされたマナが睨みつけている。関はそんな生徒会長の視線には気づかず、意気揚々と近づいてくると、
「今日は起きんの遅かったな。何度も呼びに行ったんだけど返事がないから、もうパイセン置いてっちゃおうかと思ってたぜ」
「いや略奪って……張くんまで?」
有理は関のグループの中に張偉が混じっているのに気づいて絶句する。彼はこいつと一緒にされるなんて溜まったものじゃないとでも言いたげに、ぶんぶん首を振りながら、
「略奪ってのはこいつが言ってるだけだ。俺はそんなことをするつもりはない。俺達はただ、また探索に行かないかって相談してただけだ」
「探索って言っても、物資ならもう十分じゃない。残念だが生存者は居なかったけど……多分、これ以上探しても見つからないと思うよ?」
「いや、生存者を探そうってわけでも物資を集めようってのでもなく……」
張偉はどう説明すればいいだろうかと言った感じで歯切れが悪い。有理がどうしたんだろう? と首を傾げていると、関が張偉を押しのけるように前に出てきて、
「いやもう探索じゃなくて、単に探検しに行こうぜって言ってたの。パイセンの言う通りさ、もう飯や寝床の心配もねえけど……でもまだ調べ足りないじゃんか」
「何がだよ?」
「東京だよ、東京! 確かにこの辺は調べ尽くしたよ。けど、まだ多摩川の向こうには行ってないだろう? あっちがどうなってるか、すげえ気になるじゃねえか」
「ああ……」
関は興奮気味に言う。有理もその気持ちは分かる気がした。
「多分、あんたが言う通り、東京に行ったところで人は見つからないだろう。でも逆に無人になった渋谷や新宿がどうなってるか、見たくないか? 普段なら絶対入れないお掘りの中とか、帝国ホテルに泊まってみたいと思わないか?」
「確かに」
「だから探索ついでに見てこよって。昨日で運転にもだいぶ慣れたし、ガスはその辺のスタンドにあるし、スーパーやモールを渡り歩けば飯に困ることも無いだろうから、二三日掛けて東京をぐるって一周回ってみないか?」
関を始め、仲間たちはみんな、未知なる冒険に目をランランと輝かせている。普段は仲が悪い中国人グループも一緒に行くみたいだった。なんなら隣に並ぶマナまで身を乗り出して行きたそうにしていたが、
「そうか。そういうことなら、みんなで行ってきたらいいよ。その間、俺はここに残って調べ物をしておくから」
「え? 物部さん、行かないつもりか?」
当然来るだろうと思っていた張偉が意外そうに目を見開く。有理は頷いて、
「ああ。こっちも生きていかなきゃならないから最初は探索メインだったけど、そろそろ異変について調べ始めた方がいいと思ってね。どうしてこうなったのかは分からないが……基地周辺を見回った限りでは、外に異変に関するものは見つからなかった。状況からして、やはり米軍が研究所にやって来たのが一番怪しいはずだ。だから俺はもう一度研究所に戻って、何か異変の兆候がないか調べてくる。あと、研究室のメリッサも気になるしね。ネットが繋がるなら、もしかしたら彼女を動かすことも出来るかも知れない」
「そうか。なら、俺も残って手伝おうか?」
張偉が気を使って名乗り出る。もちろん有理は首を振って、
「いや、暫くは頭脳労働だろうから、気にしないでくれ。それより、俺も東京のことは気になるから、そっちの方をよろしく頼むよ。特に関があまり羽目を外さないよう、注意してくれると有り難い」
「なんでみんなそういうこと言うの? 俺に対する信頼はないの?」
「ねえよ馬鹿野郎」
その後、その場にいる全員にけちょんけちょんに言われて落ち込んでる関を囲みながら、さっき喧嘩してた連中にも言ったことを話して聞かせた。とにかく、元に戻った時に不都合があったら困るから、必要以上に物を壊さないこと。危険があったら無理せず引き返すこと。何かあったらスマホで連絡してくれと約束し、未知なる冒険に浮かれてる彼らを、ほんのちょっぴり心配しながら送り出した。




