強制ログアウト
じわじわする腰の痛みで目が覚めた。意識が覚醒したら、デスクの上にはよだれの池が出来ていた。慌てて口元を拭って上体を起こし、リクライニングチェアを倒して思いっきり背筋を伸ばすと、強張っていた体のあちこちがバキバキ鳴って、全身に血が巡っていく感覚がした。
昨日は自衛隊と協力してハッキング騒動の事後処理をしていたら、アメリカからとんでもないニュースが飛び込んできて、基地は騒然となった。不正アクセスの犯人がそのアメリカとはいえ、日本は同盟国だから、あっちで事件が起きれば気にしないわけにはいかないのだ。
対応に慌ただしくなった自衛官たちと別れて、研究所に帰ってきたら、サーバー拡張のために働いていた研究員たちも仕事が手につかない様子で、ラウンジでお茶を飲みながら意見を交換した後は、研究室で朝までニュースを追っていた。なんかもう、サーバーどころではなかった。理由は言わずもがな、騒動を起こした正体不明の怪物のことが気になって仕方なかったからだ。
何故ならそれはつい先日、例のVRゲームに新実装されたレイドボスに酷似していた。最初は見間違いかとも思ったが、その後すぐに血相を変えてやって来た張偉と確認したから、間違いないだろう。
そんなものが現実に現れたのも驚きであるが、問題はそこじゃなくて、あれがどうやって出現したのか、そっちのほうが問題だった。
というのも、何故かは分からないが、あのVRゲームで習得した魔法は、現実世界に持ち出せるからだ。今現在、研究所が総力を上げて有理のシステムを拡張しようとしていたのは、この新魔法とも呼べる力を自在に操れれば、自衛隊の戦力アップに繋がる。だから防衛省協力の下に研究が加速していたのだ。
ところで、ゲーム世界の魔法を現実に持ち出せると言うなら、ゲームのモンスターを現実世界に連れてくることも可能だと考えるのは、発想が飛躍しすぎているだろうか?
だからもちろん、天穹の開発チームと連絡を取ろうとしたのだが、事件発生後、何故か彼らとは連絡が取れなくなっていた。彼らのオフィスはニューヨークではなく、西海岸にあるので、事件に巻き込まれた可能性はないはずだ。それなのに連絡がつかないのは、意図的なのだろうか、それとも偶然なのだろうか……
現地未明に突然起きた惨劇は、日が昇ってからその被害の凄まじさを全世界に見せつけた。
当初、空を飛び、炎のブレスを吐き散らすドラゴンに、人々は成すすべがなかった。逃げ惑う観光客たちは炎に焼かれ、無数の車が爆発炎上し、ドラゴンに体当りされたビルからは窓ガラスやら破片が飛び散り、ガス爆発を誘引し、いくつかのビルは倒れてしまった。
間もなく事件対応のための戦車が到着したが、空を自在に飛ぶ相手に有効とはいえず、寧ろその砲撃が二次被害を増やす結果となってしまった。最終的には空軍が出動し、まるで映画さながらのドッグファイトの末にドラゴンを撃墜したのだが、これだけの被害をもたらしたあの火トカゲは、地面に落ちる途中で光の礫を撒き散らしながら、跡形もなく消えてしまった。
あとに残されたのは破壊された街と瓦礫の山だけで、あの謎の生物がどこからやって来たのかも、何が目的だったのかも、何もかもが分からずじまいだった。
ところが、この事件を受けてホワイトハウスは異例の声明を出した。
大統領は、これは全て中国が起こしたテロであり、あれはアメリカを攻撃するために生み出した生物兵器なのだと、強い口調で彼の国を糾弾し始めたのである。
もちろん、根も葉もない憶測だと中国政府は即座に反発したが、大統領は根拠があるのだと言って聞かず、制裁のために中国製品に100%の関税を掛けると喚き散らし、中国政府は同率の関税を掛ける報復措置を取った。一連の事件から株式市場は異常な暴落を記録し、兜町では月曜日が怖いと憂鬱そうに語る投資家の姿が全国に映し出された。
それはともかく、瓦礫と化したニューヨークの被害は甚大で、その犠牲者は千とも2千とも言われていた。これだけの被害が出れば、怒りの矛先を探して止まないのが人情で、SNSは犯人探しの名の下に、根拠のない情報が溢れていた。気がかりなのは、米国内では大統領声明を信じている者が結構いるらしく、現在アジア人たちが外出を怖がっているようだった。このまま、何事も起こらなければ良いのだが……
と、そんな感じで事件情報を追っている時だった。コンコンと研究室のドアがノックされ、宿院青葉がふらりとやって来た。
「物部さん、少々お時間よろしいですか?」
「宿院さん? どうかしましたか……あれ、桜子さんも一緒なの?」
来客に振り返ると、物憂げな表情の青葉が立っていて、その背後に桜子さんの姿が見えた。彼女はまだ仕事中のはずだがと首を捻っていると、
「今日はお別れを言いに参りました」
「お別れ? どうしたの、急に」
思った以上に深刻な話に戸惑いを隠せずにいると、彼女は奥歯を噛み締めながら実に悔しそうに言った。
「今朝、桜子さん付きの任を解くとの正式な辞令が出ました。だいぶ上の方からの命令だったみたいで、即日発令で異議も出来ませんでした。自衛官待遇も外されて、これからはこの基地にも自由に出入りできません。今日は最後の挨拶という形で、特別に許可されてここに来ているので、お会いできるのはこれが最後になると思います」
「……冗談でしょ?」
「だったら良かったんですけどね」
青葉は半分ヤケクソというか、どこかシニカルな笑みを浮かべて、
「以前にもお伝えしましたが、あの晩、ここに襲撃を掛けてきた犯人たちは横須賀基地に保護されていきました。彼らの目的がなんだったかは分かりませんが、こんなやり方、絶対許せませんからね。あれからずっと米軍の動きを追っていたんですが、どうやらそれで先方の怒りを買ってしまったみたいです。刺激しないよう、十分注意していたつもりなんですが」
普段だったら、多少羽虫が飛んでいても問題にされなかったろうが、昨日の事件を受けて、今は米軍もピリピリしているらしい。それで一番目立つ青葉がスケープゴートとして選ばれたようだ。桜子さんはため息混じりに、
「それじゃ可哀想だから、アオバには内調やめてうちに来たら? って提案したんだけどね。お給料だっていっぱい出すつもりでいるんだけど」
「そんなことしたら先方を余計に刺激するだけですからね。私は調査から外されましたが、上司も同僚もまだ諦めていないんです。そっちに目が向かないように、私は大人しく従ったフリをしていたほうが良いでしょう」
「でも、それじゃ宿院さんはどうなるの?」
「配属先はまだこれからですが、こことは無縁の部署に回されると思いますよ。丁度、そのアメリカで事件が起きたところで、人手が足りませんから、そっちに配属されるんじゃないかと思ってます」
「そっか、寂しくなるな……」
青葉は有理のそんな言葉に、いつものように悪戯な笑みを見せたが、すぐに思い直したように軽口を引っ込めて、
「まだはっきりしたことは分かりませんが、先方はもう一度ここにちょっかいをかけようとしているみたいです。米軍内でも賛否両論あるのか、行動に迷いが見られるのですが、近い内に何か仕掛けてくるかも知れません。私がお伝えできる情報はここまでです。お役に立てなくて申し訳ありません」
「とんでもない。ああ、情報交換ってことなら、こっちからもあったんだ。こんなの、誰に相談したらいいのか分からなくて、まだ誰にも話してなかったんだけど。宿院さん、昨日の事件を調べることになるんでしょう?」
「まだ分かりませんけどね。それが?」
「実はあのドラゴンの正体に心当たりがあるんですよ」
「えっ!?」
青葉は有理の言葉に目を丸くした。と、その時、研究室のドアがノックされて、張偉が部屋に入ってきた。彼は後ろ手にドアを閉めると、先客がいることに気づいて、
「おっと、桜子さんたちが来ていたのか。俺は後回しにしたほうがいいか?」
「いや、丁度君にも用があったから……何かあったの?」
張偉は軽く頷いて見せてから、
「実はさっき中国の親戚から連絡があったんだ。父の従兄弟で、今は父に代わって天穹本社のオーナー社長みたいなことをやってる人なんだが……彼が言うには、どうやら天穹のアメリカ法人が、いま政府からの強制査察を受けてるらしいんだ」
「強制査察だって?」
「ああ。理由がはっきりしないから、何が起きたのか情報収集しているところらしい。大統領のあの発言の直後だから、単に中国企業に嫌がらせをしているだけだと思ってるようだが、一応、俺にも何か知らないかって聞いてきたようだ。どこまで話していいか分からなかったから、知らないって答えておいたが」
「今はそうしておくのが無難だろうね。何から説明すればいいかもわかんないだろう」
「まだはっきりしたことも分かってないしな。下手を打てば国際問題だ」
「ちょっと待ってください、さっきから聞いてると、二人ともその理由を知ってそうな感じですが」
青葉は不思議そうにこちらの様子をうかがっている。有理は頷いて、
「ええ、今それを説明しようとしてたところなんです。ニューヨークを襲ったあのドラゴンの正体ってのが、まさにこのことで……」
有理が事情を説明すると、青葉と桜子さんの顔色がみるみる変わっていって、
「あれがゲームの敵モンスターですって? 確かに、まるでCGみたいだなと思ってはいましたが……」
「それは本当に確かなの?」
有理は頷いて、
「あの日、いやってくらい挑戦したから確かだよ。ちょっと似てるってレベルじゃなくて、まさにそのものってくらい酷似している。だから俺たちも、ニュースを見てすぐ開発チームに確かめようとしたんだ。でも、繋がらなくてね。あっちは早朝だからと思って、出勤してくるのを待ってはみたけど、未だに向こうとは連絡が取れずじまいだ。それも査察を食らってたって言うなら頷けるけど」
「にわかには信じられませんね……実際、この目で確かめてみなければ」
「そう言えば、天穹が査察を受けてるなら、ゲームサーバーも止まってるのか。これから実験をしようって時に、困ったな……」
「いや、それなら平気」
サーバーが止まってるんじゃないかという張偉に、有理は即座に首を振った。
「以前、ここのスペックでサーバーを立てたらどのくらいスムーズに動くか確かめようって、アルファ版を預かったことがある。それがあるからゲームにログインすることは可能だよ」
「あ、そうか……しかし、少し前のバージョンでは、レイドボスはまだ実装されてないんじゃないか」
「それも平気。あのボスのデータならここにもあるから」
「え……? しかし、あのレイドボスが実装されたのは、3日前だぞ?」
「そうだね」
「なんでそんなものがあるんだ?」
「なんでだろうね」
有理は飄々と言ってのける。ここ最近、信じられない出来事が立て続けに起きているが、一番信じられないのはこの男かも知れないと張偉は思った。あらゆる意味で。
「なんか分からないけど、そのレイドボスのデータはあるのね? なら、ホントかどうか確かめてみたいんだけど」
「ああ、わかった。メリッサ! 要望通り、あのボス部屋を用意出来るか?」
『でしたらバージョンアップデートを行いますので、暫くお待ち下さい』
「わかった。その間に俺たちはログインの準備をしよう」
有理と張偉はヘルメット型コントローラーを持ってきて椅子に座った。二人がゲームにログインし、桜子さんたちが外でモニターするという役割分担を確認しているうちに準備が整い、二人はヘルメットを被ってゲームにログインした。
いつもみたいに気が遠くなるような浮遊感の後に二人が目を開けると、最近ではもう見慣れてしまった森の中に立っていることに気がついた。それは前回ログアウトした場所だったから、どうやら有理はセーブデータまで持っているらしかった。
本当に、どうやって手に入れたんだ? と疑いの目を向けつつ、クエストを受けにギルドに行って、問題のボス部屋へと飛ばしてもらった。部屋とは言っても、フィールドと同じような森の中を、二人はボスに見つからないよう、慎重に茂みに隠れながら進んでいった。
そうして暫く歩いていくと森が途切れて、広場の先の岩山の上に件のモンスターが見えてきた。大きなトカゲの体に翼が生えているような、いわゆる西洋風のドラゴンである。有理はメリッサを通じて、外でモニターしている二人に声を掛けた。
「見える? あれが問題のボスなんだけど……」
『ええ、見えますね。確かに、ニュースに映っていた怪物にそっくりです』
「実際に戦ってみたらよく分かるかも。今から近づいてみるからちょっと待って」
「二人だけであれとやるのか?」
「まあ、すぐやられるつもりで、挑むだけ挑もう」
二人がそうして武器を片手に広場に躍り出ようとした時だった。
『警告……警告……』
「どうした!?」
突然、耳元で大きく、そんなメリッサの声が響き渡った。驚いた有理が事情を尋ねると、
『現在、システムが攻撃を受けています。このままでは接続を維持出来ません。今すぐログアウトを推奨します』
「攻撃って、昨日のあれか? でも今このサーバーはスタンドアローンで動いてるはずだろ? いや、そもそも通信を遮断すればいいだけじゃないのか?」
『違います。攻撃を受けているのは、当システム……私です。申し訳ありません、有理、接続に支障が出かねないデータ欠損が生じました。もう持ちません。強制ログアウトします』
「強制って? ちょっと待て、おい!!」
次の瞬間、バチンとブレーカーが落ちるような音がして、二人の視界が暗転した。




