コンガリィ
アイスホッケーマスクがスレッジハンマーをブンブン振り回しながら追いかけてくる。有理は必死になって逃げ回ったが、どうなっているのか男はいつも先回りしていて、曲がり角の向こう側からいきなり現れては、有理の頭にハンマーを一直線に振り下ろしてきた。
それはゴーンゴーンと除夜の鐘みたいに鈍い音を響かせて彼を苦しめた。普通ならそれで一巻の終わりのはずだから、これは夢だと気づきそうなものだが、必死になっているせいかいつまで経っても彼は気づかず、何度目かのハンマーが脳天に振り下ろされた時、もう駄目だと覚悟を決めた彼は、血液が逆流するような不快感とともにようやく目覚めた。
ゼエゼエという自分の呼吸音が耳に飛び込んでくる。まだ夢現の上体を起こすと、そこは寮のベッドの上で、遮光カーテンの隙間から線状の光が漏れていた。額の汗を拭いながらそれを確かめていると、徐々に記憶が蘇ってきた。
昨日は確かサーバー拡張で研究員に配る資料作りのために研究所に泊まり込んで、朝方までサーバーラックを建築現場の足場のごとく組み立てていたら、やはり官製事業だからか、午前中にもう次々と注文の品が届いて、引越し業者さながら、それを空き部屋に運び続けて、ようやく目処が立った頃には汗だくになっていたから、一度シャワーを浴びようとして寮に戻ってきて、一息つこうとしてベッドに横たわったらウトウトしてきたので、一分だけのつもりで目をつぶったところまでは覚えている。どうやらそのまま眠ってしまったらしい。
どれくらい寝ていたんだろうか? スマホを見ようとして枕元を手探りしていると、コンコン……コンコン……とドアをノックする音が聞こえてきた。どうも誰かが尋ねてきていたらしい。もしかして、これがスレッジハンマーの正体だろうか? などと考えつつ、ベッドから降りてドアに向かってる途中、時間を知りたいなら別にスマホなんて必要ないと気づき、
「メリッサ、今何時?」
と、部屋に向かって呼びかけながらドアを開けたら……そこにそのメリッサが立っていた。
「え? あの……えと……はい?」
メリッサと言ってもAIの方ではなく、オリジナルの方である。学校指定のセーラー服を身につけアワアワしている彼女を見て、どうしてコスプレなんかしてんだろうと思いつつ、そういえば、いつまでも無人のビルに隠れているのもなんだからと転校を勧めたことを思い出し、いや、今はそんなことはどうでもよくて、なんで男子寮に彼女がいて、しかも自分の部屋を尋ねてきたんだ? と軽くパニクってると、彼女も半分テンパった感じに、
「えーと、その、授業が終わってまだそんな経ってないから、大体3時くらい?」
「3時って……え!? 3時!?」
驚いて部屋を逆走し、遮光カーテンを開けると、燦々と照りつける太陽がジリジリと肌を焼いてきた。どうやら1分どころか3時間くらい熟睡してしまったらしい。慌てて脱ぎ捨ててあった制服を拾い上げ、ズボンを履いて開襟シャツに腕を通しながら、あれ? 今、自分、どんな姿で応対に出てたんだろう……? とあらぬ姿に気づいて血の気がサーッと引いていく感触を覚えていると、いきなりガラガラと窓が開いて桜子さんが入ってきた。
「ぎゃああ! アチー、アチー! 蒸し暑すぎて死んじゃうよ! 日本の夏はまるでサウナね。あ、ユーリ起きた?」
彼女はまるでクロールするみたいに頭から部屋に飛び込んでくると、有理とは真逆に着ていた作業着を脱ぎ捨て、冷蔵庫からスポーツ飲料を取り出し、ポテチを抱えて、タンクトップと短パンというラフな姿で、さっきまで彼が寝ていたベッドの上へとダイブした。その瞬間、部屋のパソコンモニターが勝手に起動してテレビのワイドショーを映し出した。彼女はそのテレビに向かって、
「メリッサ、音量もうちょい大きくしてよ」
『はい、桜子』
「今日のトピックは、また不倫とパワハラ? 不倫とパワハラしかしないの、この国のセレブたち」
桜子さんはやれやれと肩を竦めると、ポテチの袋をパンっと開いてバリバリと頬張った。それを見ていた有理は目を吊り上げて、
「おいこら、寝床でスナックを貪り食うなといつも言ってるだろが!」
「いいじゃん、減るもんじゃないし」
「減りはしないが汚れるんだよ! 床に降りて見ろよ。床なら掃除機で吸えるんだから!」
「いやあよ、床だと微妙に画面が見えにくいのよ。寝っ転がって見るなら、ここがベストポジションなんだよね」
「座って見りゃいいだろ? ほら、もう! ポテチのカスこぼしてるじゃんか!」
「小姑か。こっちは炎天下で作業してきて疲れてるのよ。昼休憩はユーリが寝てたから譲ってあげたんだから、おやつ休憩くらいゆっくりさせて。あんたが眩しくないよう気を使って、カーテン閉めて静かにお弁当食べたのよ。味気なかったわ」
「ぐわあ! あんたがカーテン閉めたの!? お陰で熟睡しちゃったじゃないか!」
「良かったじゃない……なに怒ってるの?」
有理と桜子さんがそんなやり取りを続けていると、スピーカーから警告するような少し強めの声が聞こえてきた。
『有理。先程から来客がお待ちのようですが、応対を続けた方がよろしいのではないでしょうか?』
その言葉に、ハッと我に返る。慌てて振り返れば、部屋のドアのところで里咲がぽかんと口を半開きにして立っていた。桜子さんはポテチをバリバリしながら、
「ありゃ? もう一人の方のメリッサじゃないの。どうしたの? ユーリに会いに来たの? あー……あたしお邪魔だったかな? 出てこうか?」
「馬鹿、そんなんじゃないよ。ああ、もういいからテレビでも見ててくれ。高尾さん」
「あ、はい」
「急いで研究所に戻らないといけないから、用件は歩きながらでいいかな」
有理はそう言うと、スマホだけをポケットに入れて部屋を出た。
***
火事のあと、最上階に引っ越したせいでエレベーターが中々こない。箱はまだかと無言で文字盤を見上げるも、隣に並ぶ彼女のことが気になって仕方がない。ようやくやって来たエレベーターに乗り込み、各駅停車みたいに次々と乗ってくる寮生の無遠慮な視線に晒されながら、見世物じゃないんだぞとエントランスホールを抜けて外に出ると、殺人的な太陽光線が襲ってきた。
脳天をジリジリと焼き焦がす太陽を避けるように、出来るだけ木陰を進みながら有理は後をついてくる里咲に声を掛けた。
「それで高尾さん、なんの用? ドアを開けたらいきなり居たからビックリしたよ」
「あ、その、用事ってほどじゃないんですが」
ミンミンとうるさい蝉の声で彼女の声は聞こえづらかった。ほんの少し歩く速度を緩めて隣に並ぶ。彼女はそんな有理の顔を上目遣いに見上げながら、
「あ、そう言えば、男子寮って女子も入れるんですね」
「ああ、逆をやったら殺されるけどね。その辺の高校とは違うから、寮監も柔軟に対処してるみたいだね」
「入れ替わってた時、部屋に行ったらあの女の人が居てビックリしたんですよ。本当に一緒に住んでるんですね。あれも、いいんですか?」
有理は、うげえとゲロを吐きそうな顔をしながら、
「いや、あれはあの人が勝手に住んでるだけだから。俺がこの学校に強制的に連れてこられた時にはもう住み着いてたんだよ。以来、先住権を主張してずっとあそこに居座ってるの」
「……どうして追い出さなかったんです?」
「いや、追い出そうとしたはずだけど……そうだ。最初の頃、俺はこの学校に居たくなくって、さっさと出てこうとしてて、どうせ俺の方が先に出ていくならって、あんま気にしてなかったんだよ。その内、こうしてるのが当たり前になってきちゃって、そのままなし崩しって感じかな」
有理は我ながら馬鹿げた理由で同居してるなと思いつつ、
「けどまあ、今となってはいい飲み友達だしパトロンだし、メリッサの面倒も良く見てくれるから、居てくれないと困る存在なのかも知れないね」
「私? 私、なにかお世話されてるんですか?」
「あ、いや」
有理は失言したと目をぎゅっと瞑りながら、
「メリッサってのはAIの方ね……ごめんね。君の名前を勝手に付けて、声まで似せて。悪気はなかったんだけど」
「あ、それなら張くんから聞いてます。なんか成り行きでなっちゃったって」
「そうなの……?」
どうやら有理の知らないところでフォローしてくれていたらしい。さすが我が助手。後でお礼を言わねばと心に誓う。
「声もカーナビだと思えばそんな気にならないので。気にしないでください」
「あ、そう? だったらいいんだけど」
「それで、あの人とは普段、どんな風に過ごしてるんですか?」
「あの人って、桜子さん?」
なんでそんなことが気になるんだろうと首を傾げつつ、
「そうだね……普段って言っても、大概あの人飲んだくれて寝ちゃってるから、特になにするってこともないよ。起きてるときだって、メリッサと話してる方が多くて、俺は二人の会話を横で聞きながら、仕様書書いたり、プログラムを見直したり、授業のおさらいをしたりしてるって感じかな。あ、メリッサってAIの方のね?」
「あ、はい、わかってます」
「普通の人間ってか、俺もそうなんだけど、相手が機械だと思うと身構えちゃうのかあまり上手く喋れないものなんだけど、あの人そういうの全然気にしないみたいで、ずっと喋り続けてくれるんだよね。しかも異世界語も出来るから、今度、メリッサのシステムを公開して商売するんだけど、その仕様書書くのに二人の会話が参考になって凄い助かってるんだ。今じゃなくてはならないパートナーみたいなもんだよ。あ、仕事上のね?」
「ふーん……」
気のない返事をかえしながら彼女はどことなく不機嫌そうに見える。なんかまずいことでも言っただろうか? 自分の言葉を思い出しながら研究所の自動ドアをくぐると、研究員がすっ飛んできた。
「あ、物部君! 戻ってきてくれてよかったあ……B室のサーバーの件なんだけど」
「すみません、遅れました。ちょっと横になるつもりが、割とガチ寝してたみたいで」
「いいよいいよ、徹夜だもんね」
研究所のエントランスホールで二人が会話を始めると、それに気付いた他の研究員たちも後から後からやって来た。有理はそんな研究員たち一人ひとりの話を聞いて、何やら指示を出している。
どこからどう見ても年上の研究員の方が、学生服を着た有理の指示を真剣に聞いているのだ。普通、逆なんじゃないか? と里咲が不思議に思いながら見守っていると、やがて全ての研究員と話を終えた有理が、守衛から鍵を貰って帰ってきた。
「ごめんね、待たせちゃって」
「あ、いえ」
謝罪をしながら研究室のドアを開ける有理に続いて部屋に入ると、そこは数日前に里咲も来た覚えがあるサーバールームだった。あの時は彼と入れ替わってしまっていたわけだが、こうしてその本人と共に扉をくぐる日が来るとは……そう思うとなんとなく感慨深かった。
研究室に入ると数日前と同様、勝手に電気がついて中央のモニター画面が起動した。多分、有理が入ってきたのをセンサーが感知して、あの『メリッサ』が行っているのだろうが、モデルとなった本人がいるせいか、彼女も、そして有理も一言も会話を交わすことがなく、なんだかよそよそしい空気が流れていた。
里咲は少し空元気を装って声を掛けた。
「さっきのあれは、何をやってたんですか?」
「さっきって?」
「大人の人たちに囲まれて、何か指示を出してましたけど」
「ああ」
有理は部外者にどこまで話していいものかと少し考えたが、ここまで巻き込んでおいて、今更彼女に隠すこともないかと思い直し、
「あのVRゲームで覚えた魔法が現実でも使えるのは知ってるよね」
「それはもう、はい」
「この能力は軍事利用も出来るし、放置してるわけにもいかないから、今度、自衛隊と魔法学会が協力して、調査することになったんだよ。それで、このシステムを組み上げたのは俺だから、俺が中心になってサーバーを拡張してるとこなんだ。指示してたのは、そのサーバーのこと」
学会? 自衛隊? 里咲はその言葉の意味を理解すると目を丸くして、
「それじゃ、物部さんはその責任者ってことですか? 凄いじゃないですか!」
「ん……? そうかな?」
自分としては好き勝手やってたら、いつの間にかそんなことになっていたというだけなのだ。改めて他人から言われてみると、字面としてはとんでもなく強いが。有理が実感が沸かなくて口を半開きにしていると、対象的に里咲は少し興奮気味に早口で、
「凄いですって。その年齢で、官製事業の責任者を任されるなんて。そんな人、普通、居やしませんよ。物部さんは、このまま将来は魔法の研究者になるんですか?」
「……どうかな。ここにいる間はそのつもりでいるけどね」
高校生に混じって学生をやらされるよりは、研究者扱いしてくれたほうがマシだからそうしているが、将来のことと言われるとそれは分からない。
事実、人生とは分からないことだらけだ。
思い返せば、あの日、東大の合格発表でM検に引っ掛かった時は、人生という坂を転げ落ちていく自分の不幸を呪ったものだが、もしもあのまま東大に通っていたら、今頃どうしていただろうか。正直なところ、そっちの人生の方が今は想像がつかなかった。
とはいえ、こっちの人生のほうが良かったとも言い切れないのだが。何しろ、これまで幾度となく死にそうな目に遭ってきたわけだし、今度の相手はあのアメリカかも知れないのだ。眼の前の彼女を巻き込んでしまったという負い目もある。
そんなことを考えていると、当の本人は何故かそわそわしながら、
「ところで、研究所って言ったら、あれですよね、あれ。あれは無いんですか?」
「あれって?」
「あれですよ、あれ。研究所、科学者って言ったら、白衣しかないじゃないですか。あれ、着ないんですか?」
「ああ……」
あまりにもテンプレすぎるセリフに思わず苦笑が漏れた。しかし、同じ二次オタとして言わんとしていることはよく分かった。有理は備え付けのロッカーをゴソゴソ探りながら、
「いやね、研究室って言ってもオフィスみたいなものだから、普段は着ることはないんだけど。一応、入室が決まったときに支給されたのがあるよ」
「ほほう」
有理がそう言ってクリーニングされたばかりのそれを差し出すと、受け取った彼女は躊躇なくビニールを破り、パリッと糊の効いた白衣に袖を通した。
そして彼女は自分のくるぶし辺りまである裾をひらひらさせたかと思えば、突然、その場でくるりと回転し、翻る裾を棚引かせながら、指先をピンと伸ばした腕を胸の前で交差させつつ、ビシッとポーズを決めた。
「俺は狂気のマァァァッドサイエンティストォォゥ。高尾……メリッサ!」
その表情は限りなく真剣である。
有理もそんな彼女のボールを受けて、その場でくるりと一回転すると、片足を上げて両手を水平に伸ばしつつ、
「物部……有理!」「高尾……メリッサ!」「物部……有理っ!!」
「……二人とも、なにやってるんだ?」
そんな二人の姿を、いつの間にかやって来ていた張偉が、研究室のドアのところで無表情で眺めていた。
すげえことに気づいた。ポテチのカスって10回言ってみ




