確率の収縮のような
ガタンゴトン……ガタンゴトン……もう三度目ともなれば流石に状況は理解していた。半覚醒状態の頭がなかなか働いてくれずもどかしい。ようやく血流が巡って手足に痺れるような感覚が戻ってくると、彼は発作的にその場で跳ね上がるように立ち上がった。
と同時に、電車がブレーキを掛けて重力が横から襲ってくる。慌てて手すりに掴まると、その手すりにゴンと振動が伝わってきて、見れば胡麻塩頭のおっさんが頭をぶつけて涙目になっていた。
『中野坂上、中野坂上……』
目の前のドアが開いて、人々が吐き出されるように電車から降りていく。有理はまだ降りる必要はなかったのだが、おっさんを踏んづけてまた座るわけにもいかず、仕方ないので人の流れに混じって電車を降りた。
間もなく対面のホームに待ち合わせの電車がやってきて、まるでスクランブル交差点みたいに客が交差するのを見送ったら、ホームは閑散となった。列車が押し出す生暖かい空気がトンネルから吹き付けてくる。有理は一人その場に残って、空いていたベンチに腰掛けた。
さて……どういうことだ?
高尾メリッサの死を回避すべく、今回は計画通りに進んでいたと思う。アフレコに遅刻して行くこともなく、出演者たちとトラブることもなく、雑誌インタビューまで受けて、仕事は滞りなく全て終えることが出来た。
そして問題の殺害現場では、上手いこと犯人をはめて速攻で警察に突き出すことに成功し、これで彼女を殺そうという人間はいなくなった。なのに、もう大丈夫だろうと安心していたところで、あれだ。いきなり暴走車両が飛び出してきて轢き殺されるなんて、そんなことがあり得るのだろうか?
いやまあ、可能性だけなら無くもないだろう。交通事故死は大体年間3000人くらい出ているのだから、そういう不運に見舞われる人もいるだろう。しかし、こちとら高尾メリッサなのである。実はレイシストの暴漢に殺される未来を回避したら、交通事故死が待っていたとなると、これを偶然と片付けてもいいのだろうか?
だが現状、そう考える他にない。レイシストに殺されるのも、交通事故も、どちらも突発的、独立的な事件で、双方に因果関係があるとは思えない。だから、レイシストに殺されなかったから、交通事故で死にましたと2つの事件を結びつけて考えるのは、常識的に考えればあり得ないことだろう。
だが……自分のオタクとしての勘が告げている。
過去を変えようなんて、神をも恐れぬ傲慢なことを考えているから、そのあり得ないことが起きているのではないのかと。例えば、カオスの矯正だとか、シュタインズゲートの選択だとか、量子論的な確率の収縮のような、何かそういう不可思議な力が働いているのではないかと。
正直、そんなのはただの考えすぎだと思うのであるが、頭の中は嫌な予感でいっぱいだった。ともあれ、今の自分に出来ることはただ1つ。高尾メリッサを死なせない。それだけである。
***
新高円寺の家に戻って玄関を開ける。前回同様、整然と片付いた部屋に入って、今度は洗ったばかりのシーツに包まってさっさと寝てしまった。時間は有り余っていたが、やれることが思いつかず、それより早く結論に飛びつきたい心境が勝った。今回は怪文書も用意せず、犯人には速やかにご退場願うつもりだった。
朝になり、また丸ノ内線でぐるりと回って本郷三丁目駅で降りる。赤門の前を通り過ぎてアフレコスタジオに入り、いつもの面子に挨拶して回る。ここで倦怠感など出そうものなら高島田が機嫌を損ねかねないので、出来るだけにこやかに振る舞っていたら、今回はアフレコ後、監督から直々に次話の台本の読み合わせをお願いされた。
ちょっと気が張っていて、演技が固くなっていたのだが、それがかえって彼に好印象を与えたらしい。用はあったが、どうせ待ち合わせてるのは殺人犯なのだから、二つ返事でオーケーする。
そうして、インタビューと台本読みの2つの仕事を終えると、外は日が傾いていた。連日の猛暑日で、こんな中で出待ちするバカがいるだろうかと思いながら、非常口から外の様子を確かめてみたら、ファンも殺人犯もばっちり残っていた。うーむ……どっちも見上げた根性である。
しかし称賛はすれども殺されてやるつもりはなく、有理は携帯を取り出すと、今回は有無を言わさず不審者として通報した。すると、暫くして制服の警官がやって来て、電話で伝えた通りに民家の敷地内を覗き込んで犯人を見つけ、職質を始めた。犯人は色々言い訳をしてるようだったが、やがて警官に所持していたナイフが見つかり、押し問答の末に連行されていった。
これで、ビルの前の脅威は存在しなくなった。有理はそれを見届けてから玄関を出ると、メリメリーと声を掛けてくるファンににこやかに手を振ってから、駅に向かって歩き出した。
弁えているのか、出待ちなんかする割に、ファンは追いかけてくることはなかった。まあ、そんなことしたら本当に出禁になってしまうだろうから、その辺はファンの間でもルールか何かがあるのだろう。因みに自分も厄介なファンを自認しているが、3次元には興味がないのでよく知らない。
それはともかく……こうして死を回避したまでは良いとして、これからどうなるのだろうか? 前回も前々回も現行犯に拘ったのは、犯人からもう一度高尾メリッサを襲わせる気力を奪うためだった。あんなことをしたら暫くは刑務所暮らしだろうし、出てきたところでもう彼女に近づくことは許されないだろう。
しかし今回は通報しただけだから、下手したら犯人は今日にも釈放され、また彼女を襲うかも知れない。そんな可能性を残したまま、元の体に戻ってもいいのだろうか……? いや、そもそも、元の体に戻れるのだろうか?
前回もそうだったが、あの犯人を警察に突き出した後、これでお役御免だと思っていたのにいつまで経っても元の体には戻れなかった。寝ないと駄目なのかな? とかあれこれ考えては居たが、そんな時にあの暴走車に遭遇したのだ。今回は秋葉原に行くこともないから、もうあれに轢き殺されることはないだろうが、
「死ねえーーっっ!! 異世界のゴミが、死ねぇぇーーーっ!!」
ドンッと横っ面から衝撃が襲ってきた。腰の辺りに焼印を押されたかのような熱が走り、呼吸をする代わりに、肺からはまるで気の抜けた風船みたいに力が抜けていく。
何が起きたんだ? と驚いて自分の腰の辺りを見てみたら、そこに大きなナイフが突き刺さっていた。それを見た途端、踏ん張っていることが出来なくなって、有理はその場に崩れ落ちた。
「きゃああーーっっ!!」
丁度、赤門に差し掛かった辺りで、周囲には東大生と観光客がごった返していて、突然の凶行に遭遇した人々がパニックになっていた。
そんな中、男は周りの目を気にせず有理に馬乗りになると、腰に刺さっていたナイフを引き抜き、それをまた狂ったように振り下ろしてきた。
「死ねっ! 死ねっ! 死ねっ!」
ズンッ! ズンッ! ズンッ! っと、痛みというか、もはやただの衝撃しか感じなかった。男がナイフを突き刺す度に、意識が遠のいていく。有理は必死に抵抗しようとしたが、そう思ったときにはもう腕すら動かず、ただ、今、自分を殺そうとして目を血走らせている犯人の顔を見ていることしか出来なかった。
おまえは……誰だ……?




