ステータス!
痛い……痛い……なんで私が……どうして私だけが、こんな酷い目に遭わなければならないの……?
アフレコスタジオからの帰りだった。玄関を開けて最近よく見かけるファンに会釈をしていると、突然、横からドンッと突き飛ばされて、地面に押し倒された。受け身を取った拍子に手のひらが擦りむけて、膝小僧に強い衝撃が走った。血がじわじわと膝を赤く染めていき……それなのに、何故かほとんど痛みを感じなくて、変だな? と思った瞬間、全身から力が抜けて、脇腹に強烈な痛みが走った。
何が起きたのかと思って顔を上げれば、気が触れたような目つきをした男が自分の上に馬乗りになっていて、血まみれのナイフを何度も何度も振り下ろしてきた。あまりの恐怖で声もあげられず、抵抗しようとしたけれど体が動かなかった。仮に動いたとしても、男を跳ね除けるほどの力は無かったかも知れない。
見れば男が振り下ろすナイフの先端が、何度も何度も自分の体に突き刺さっている。まるで豆腐でも切るかのように、スーッスーッと、自分の身体にめり込んでいるその異物を、鴻ノ目里咲は呆然と見ていることしか出来なかった。
なんとかしてこの凶行から逃れようとしたが、体が動かなくてはどうすることも出来ず、ただひたすら痛みと苦しみに耐えることしか出来なかった。周囲を取り囲む人々の騒然とする声が聞こえてきたが、誰一人として彼女を助けようとする者は現れなかった。気が狂ったようにナイフを振り下ろす男は、異世界からの侵略者だとか、先祖代々の土地を守るのだとか、わけの分からないことを口走っているが、そんなこと彼女にはどうでもいいことだった。
いやだ、死にたくない! 助けて……助けて……誰か助けてよ!
頭の中は死の恐怖でいっぱいで、生き残ること以外何も考えられなくなっていた。彼女は最後に残った力を振り絞り、男を押し退けようと力を込めたが、まるでその意志を踏みにじるかのように、お腹から噴水のように血が吹き出るだけで、それを見た瞬間、彼女は生きる希望を根こそぎ奪われた気がして、抵抗する気力を完全に失った。
血で真っ赤に染まった視界が徐々に暗くなっていく。さっきまで耳障りに聞こえてきた周囲のざわめきが今はもう聞こえない。代わりにドクンドクンと脈を打つ音が、頭の中にメトロノームのように響いてきて、それがまるで子守唄のように彼女の眠りへと誘っていく。
そして彼女は、永遠の眠りに落ちた……
***
ビクッと体が震えて、里咲は跳ね起きた。いつの間にか額にはびっしょりと汗をかいており、立ち上がった拍子に目に染みて、彼女は慌ててそれを拭った。
「え……? あれ……?」
彼女はハアハアと荒い呼吸を立てながら、警戒するように、たった今まで自分に馬乗りになっていた男を探したが、何故か男の姿はどこにもなかった。
ハッと我に返って自分の体を確かめたが、あれだけ滅多刺しにされたはずなのに、傷跡はどこにも見当たらなかった。
なんだこれ……? いくらなんでもおかしすぎる……
あまりの急展開に考えが及ばず、暫し呆けたように立ち尽くしていた彼女は、そう言えば刺される直前、彼女を撮影していたファンが居たことを思い出し、辺りを見回し、そして周囲の景色がガラリと変わっていることにようやく気づいた。
気がつけば、里咲はいつの間にか薄暗い森の中に佇んでいた。
記憶が確かなら、彼女は今日、アニメのアフレコのために御茶ノ水を訪れ、今はその帰りのはずだった。スタジオのあるビルから出たら出待ちのファンが居て、そっちに気を取られていたら、いきなり横から出てきた男に刺されたのだ。
それがどうして、こんな誰も居ない森の中にいるんだろうか? もしかして、夢でも見ていたのだろうか? 刺されたと思ったのは、実はただの悪夢で、今日はまだ始まっておらず、アフレコもこれからなのでは……
とも思ったが、しかしそれならそれで、こんな森の中に一人でいる理由が分からなかった。ぐるりと辺りを見回しても、こんな場所の記憶はまったくなく、初めて訪れたことに間違いはなかった。そもそも、里咲には山登りの趣味などなく、こんな野山の中で一人でいる理由などないのだ。
一体何が起きているんだろうか?
「わ、わわっ!?」
取り敢えず手がかりを求めて所持品を確かめようとした彼女は、自分がナイフを手にしていることに気づき、慌ててそれを取り落とした。
まさか、自分を刺したあのナイフでは? と思ったのだが……よく見れば血がついていたりもせず、形状にも見覚えがなかった。それじゃどうして自分はナイフなんて持っていたんだろう? と思いながら、それをまた拾い上げようとした時、彼女はまた違和感を覚えた。
今、ナイフを掴もうとしている自分の手に見覚えがないのだ。やけにゴツゴツしていて、まるで男の手のように見える。
まさかと思って手のひらで体を弄ってみれば、胸が無くなっていて、腕もお腹も筋肉質になっていた。そして、下腹部に妙な違和感があって……おそるおそるズボンをめくって中を覗いてみれば、ナニなアレがバッチリついていた。
里咲はまじまじとそれを見つめながら、
「ほほう……やりますなあ……」
などと、まるで他人事のように呟いた。いやまあ、他にリアクションのしようがなかったのであるが……
ぶっちゃけ、同人誌で見たことはあったが、屹立している場面しか見たことがなくって、普段の大人しい姿を見るのはこれが初めてだった。よく象さんとか言われているけれど、実物はそんな可愛くはなく、個人的にはどっちかと言えばキノコとか巨大ミミズみたいに見えた。
「ふーん……こんなんなんだ……黒いけど、頭の方は赤いんだ……」
などと凝視している場合ではない。里咲はめくっていたズボンを戻すと、自分の身に起きたことを考え始めた。
まず真っ先に思いついたのは、さっきも一度考えたことだが、まだ自分はベッドの中で夢を見てるんじゃないかということだった。
それが一番無難な考えではあったが、しかし明晰夢は自分がそれと気づいたら、夢の中にいるということをしっかり自覚するものらしい。少なくとも現実ではない感覚があるそうだが、ところが今の里咲は、ここが現実としか思えなかった。意識したら目を覚ますというような実感がまったくないのだ。
なら、他にどんな可能性があるだろうか? 次に思いついたのは、ラノベで定番の異世界転生だった。いや、この場合はTS転生だろうか? 死んだと思ったら、異世界の別人に生まれ変わっているというあれである。
テンプレならトラックに轢かれて、気がついたら神様が土下座していて、手違いで殺しちゃったから復活させてあげるね、チート能力もおまけに付けちゃう、てへぺろ。なんてのがお約束であるが、トラックも神様も出てこなかったが、自分も似たような不幸に見舞われ、気づいたらこんな見覚えのない場所にいるというのは、状況的には似ているような気がする。普通に考えれば馬鹿げているとしか思えないが、他に説明のしようがない。
いきなり暴漢に襲われて殺されたと思ったら、見覚えのない場所にテレポートして、さっきまで女だった自分が男になっているのは紛れもない事実なのだ。否定するのは簡単だが、その前に確かめられることは確かめておいてもいいだろう。
しかし、確かめると言ってもどうすればいいだろうか? 例えば、もしこれが本当にいわゆる異世界転生であるなら、わかりやすいチート能力があるとか、ステータス画面が見えたりするのが決まりではないか?
そう思って、何か能力がないかその場でジャンプしたり、ファイヤーボール! とか叫んでみたりしたが、特に変化はなかった。
やっぱりそんな夢みたいな話はありえないのだろうか。でもそれならこの状況は本当になんなんだ? そう思いながら、ほとんど破れかぶれでその言葉を口にした時だった。
「ステータス!」
彼女がその言葉を唱えた瞬間……いきなり視界がブレたような気がしたかと思ったら……すると目の前に、半透明のスクリーンみたいなものが現れた。
びっくりしてずっこけそうになり仰け反ったら、その視界を追いかけるように、その画面も移動してきた。
「え……うそ……ホントに?」
半透明の画面には、名前やら、レベルやら、魔法やらが表示されている。どれもこれも、ビデオゲームで見たことがあるような項目ばかりだ。里咲はゴクリと唾を飲み込むと、恐る恐る、表示されているスクリーンに触れてみた。




