テイク2
元々地頭が良い分、一度コツさえ掴んでしまえば、後は早かった。どうせ自分には演技なんて出来るわけないのだし、台本を読んでキャラクターの感情なんて考えるだけ無駄である。そんなことをするよりも、台本のセリフの場面一つ一つを、過去に彼女が演じたキャラと置き換えるのだ。そういう作業は受験の時に散々やってきたから、寧ろ得意ですらあった。数学の応用問題を解くようなものだ。
そう割り切ってしまえば、今まで見えてこなかったことも見えてきた。高尾メリッサは演技派として売り出してはいるが、なんやかんやまだ新人で、まだこれといった色はついていない。すると制作陣が配役を決める際、何を基準に選出したかを考えれば、彼女が最近演じた役が頭にあったに違いなかった。そう考えれば、一里塚が言うように、今回の役はかつて彼女が演じた青のエクソダスの新城エリカに似ていた。つまり、今求められている演技はそれなのだ。
そうしてキャラクターが見えてくると、一つ一つの場面に何を当てはめればいいかが見えてきた。有理は藤沢から台本をひったくると、この感覚を忘れる前にメモを取っておかねばと、余白に対応表を書き入れ始めた。
そんなこんなで、有理が猛烈な勢いで台本に書き込みを始めたのを見ていた、一里塚と藤沢の二人は、邪魔をしちゃいけないといった感じに遠巻きにしながら、有理に聞こえないようにコソコソと、
「……高尾さん、どうしちゃったの? 彼女、あんなキャラじゃなかったよね?」
「それがよく分からないんですよ。今朝、遅刻した彼女に電話をした時、体調が優れないって言ってたから、もしかして風邪かも知れないとも思ったんですが……熱はないようだし、見たところ元気そうですよね」
「そうだねえ……逆に変な方向に振り切れてるような気がするねえ。どっちかっていうと、体じゃなくて心のバランスを崩したような……」
「まずいですね……働かせ過ぎちゃいましたか?」
「あの年で、もう事務所の看板背負わされてるもんなあ……ちょっと、休ませてあげたほうが良いかも。この後、予定ある?」
「雑誌インタビューが入ってますが、キャンセルして別の日に回せます」
「じゃあ、食事でも誘ってあげようかな。たまには先輩らしいとこ見せなきゃ。藤沢さんも来れるよね?」
「ごちになります!」
「いや、君は奢りじゃなくって……」
「ごちになります!」
「わかったよ、もう……」
二人がそんなことを話し合っていると、アフレコが終わってスタジオから続々と出演者が出てきた。藤沢は机に齧りついていた有理を慌てて引っ張り出すと、一里塚と三人で待合室まで出ていって、出演者一人ひとりに謝罪して回った。
幸いなことに、出演者たちは特に有理に関して悪い印象は持っていなかったようだった。元々、大怪我をする前に高島田がキレて追い出されたこともあり、更には事務所の先輩で、業界で名の知れた一里塚にまで頭を下げられては、怒るような者など一人もいなかった。
その頃にはもう有理も気持ちを切り替えて、完全に高尾メリッサになりきっていたので、会話もスムーズに行われた。彼は過去作品で共演した人には相手が演じたキャラの話を交え、ラジオに出演してくれた者がいればその時のトークをネタにし、持てる限りの高尾メリッサ情報を駆使して話を盛り上げた。お陰で出演者たちも気を良くしてくれたようで、最終的にはみんなこれからも頑張ってねと言って去っていった。
マイクの前で頭が真っ白になった時は、どうなることかと思っていたが、なんとかフォローしきれたようである。有理は額の汗を拭ってため息を吐いた。しかし、そうして出演者たちを送り出したと思ったのもつかの間、
「あれ? 高島田さんがいらっしゃいませんね」
謝罪行脚をした相手に、肝心の高島田かほる子がいなかったことに気がついた。怒って先に帰ってしまったのだろうか。それとも、別の控室にいるのだろうか? スタッフに聞いたほうが良いという一里塚の提案の下に、三人がブースへ向かおうとすると、その扉が開いて、
「それじゃ高尾メリッサさん。別撮り始めますんで、スタジオに入ってください。中で高島田さんがお待ちです」
なんで御大までもが居残っているのだろうか……三人は顔を見合わせた。
***
事務所の後輩の尻拭いだからと言って強引にAD役を買って出た一里塚と共にスタジオに入ると、不機嫌そうなオーラを漂わせた高島田がぽつんと座っていた。
「別にあなたのために残ったわけじゃないのよ」
と言う彼女は、出番をいくつか残していたが、それは全部有理と絡むシーンばかりだった。意識しているのは明白なのに、それを認めようとしないのは、ただのツンデレなら良いのであるが、何を考えているか分からければパワハラである。
高島田は残り3カットらしいので、まずは彼女の出番から録ってしまいましょうと音響監督からの提案があったが、
「これは高尾さんのための収録なんだから、私は後でいいです」
という彼女の言葉で、頭から順番に録ることになった。なんとも言えない緊張感が走る。
そんなこんなでマイクの前に立つと、またプレッシャーで頭が真っ白になりそうになった。同じ轍は踏むまいと、有理は必死に気を張ると、(俺は高尾メリッサ……俺は高尾メリッサ……俺は高尾メリッサ……)と自分に言い聞かせた。
『それでは高尾さんよろしくお願いします。カット1から……3……2……』
一里塚のカウントダウンが終わると、目の前のスクリーンに絵コンテが表示され、と同時に、先程アフレコを終えたばかりのナレーションがスピーカーから聞こえてきた。そして主人公のかったりーというセリフの後に、いよいよ有理の出番である。
彼は自分の頭の中に、降霊術のように高尾メリッサを下ろした。
「おはよう。今日も朝から眠そうだね」
たったそれだけのセリフであったが、声を出した瞬間に手応えを感じた。スタジオの空気が変わって、ブースの中でスタッフたちが頷き合っている。するとマイク越しに音響監督から、
『かなり良くなったと思いますが、もう何パターンかお願い出来ますか』
有理はそう言われてももう慌てることなく、頭の中にある高尾メリッサデータベースを検索して、似たようなシーンをいくつかピックアップしてきた。その際、場面やキャラクターは全く考慮せず、かつて彼女が演じたキャラをそのまんま、なんなら暗くジメジメしたキャラや、逆に明るくカラッとしたキャラ演じてみせた。
するとそのうち音響監督の中にしっくり来るものがあったのか、
『ありがとうございます、それいただきます』
と返ってきた。それは有理が最初に思っていたのとは全然違ったが、特に戸惑うこともなく、(なるほど、こういうものか……)と、一里塚が言っていた意味を理解することが出来た。
その後は全くリテイクを出されることもなく、収録は順調に進んだ。有理が事前に、どの役のどの場面を演じるかをメモしていた対応表はドンピシャで、制作陣の解釈にぴったり合っているようだった。
そして収録は和やかに進んでいき……ついに高島田と絡むシーンまで辿り着いた。流石に今までの経緯を考えると緊張が走り、彼女が席から立ち上がってマイクの前に立つと、スタジオはまたピリピリし始めた。心做しか、一里塚の顔も強張っている。
有理は場に飲まれないように、頭の中で自分は高尾メリッサだと繰り返しながら、高島田のセリフを待った。彼女はベテランらしく悠然と構え、ミミズがのたくったような絵コンテを見ながらタイミングを見計らうと、
「ご飯できたわよ~! ほら、いつまでもテレビ見てないで早く机を片付けてちょうだい。宿題はもう済ました? ゆうちゃん! お姉ちゃんなんだから早くしなさい!」
彼女の役柄はヒロインの母親で、このカットはヒロイン宅の夕食のシーンだった。なんてことない会話であるが、流石にベテランだけあって、まるでそのシーンが目に浮かぶようだった。
これに対し有理は、「わかってるよ、うるさいな~」と返すだけなのだが……高島田のセリフを受けて口を開いた有理は、しかし、その一言が出てこなかった。
『……はい、リテイクお願いします。高尾さん、リラックス、リラックス』
有理が固まっていると、空気を読んだ一里塚がすかさず声を掛けてきた。ハッとしてブースを振り返れば、苦笑いしている彼の隣で制作スタッフたちが不安そうな顔を見せていた。
多分彼らは、有理が高島田の圧に負けて、またセリフが飛んでしまったんだと思っているのだろう。しかし、違うのだ。いや、半分はそうなのだが……
有理は彼女のオーラにあてられたわけじゃない。実を言うと、彼女のセリフを聞いた瞬間、何故か強烈な既視感を覚えたのだ。
(このセリフ……どっかで聞いたことがある……)
慌てて台本を確認すると、高島田のセリフは多少アドリブが加わっていたが、それほど逸脱したものではなかった。そして有理のデータベースの中で、高尾メリッサと高島田かほる子は何度か共演はしていたが、こうやって直接親子を演じたことはなかったはずだ。
なのに、何故こんなに既視感を感じるのだろうか……? そうして過去作を必死に振り返っている時、有理はハッと気がついた。
そうだ、これは、高尾メリッサのデビュー作、劇場版・探偵ウォーズの一シーンじゃないか?
この映画で彼女は、主人公の冴えない探偵と離婚した女性との間に生まれた娘役を演じていて、その娘とのやり取りは映画の一服の清涼剤になっていた。いわゆるはまり役というやつで、この時の彼女の演技はとても褒められたものではなかったが、年相応の可愛らしい演技が話題となり、かえってその拙さが評価されていた。その後、声優として本格的にデビューしたときにはもう、レッスンを受けて演技が完成しており、当時の少女の影は薄れたが、今でも語りぐさになっている。高島田は、その時の演技をやれと言っているのだ。
しかし……高島田の意図は分かったが、彼女はあの映画には出演していなかったはずだ。高尾メリッサの母親役は別の人が演じていたはずなのに、どうしてその場面がありありと思い浮かぶのだろうか……?
これが大御所というものか。有理は舌を巻いた。
「…………ほら、ゆうちゃん! お姉ちゃんでしょ、早くしなさいったら!」
リテイクがなされ、高島田がまたさっきとは別のアレンジしてきた。しかし、今度はもう迷わなかった。
「んもう、ママ! 今やろうとしてたの!」
有理は舌っ足らずで滑舌が悪くて子供っぽい、ちょっと鼻に掛かった声を出した。それは自分でもはっきり分かるくらい拙い演技だったが、でも、あの時の映画の高尾メリッサを、完璧にトレースしたつもりではあった。
セリフもそれっぽくするため変えてしまったのだが……どうなんだ? これでいいのだろうか……?
有理は沙汰を待つ被告人のごとく緊張して待っていたが、しかし、いつまで経ってもストップがかかることはなく……アフレコは次のカットへそのまま進んでしまった。そこでもまた高島田は、台本とは少し違う母親を演じ、有理もその流れでちょっと子供っぽい演技で応じた。そうして高島田の出演するカットを全て取り終えた時、初めてストップが掛かり、
『はい、高島田さん、ありがとうございました。高尾さんは引き続きよろしくお願いします』
これでいいんだ……有理は台本とはまるで違う演技が通ってしまったことに驚いた。というのも、アニメは実写とは違ってキャラクターの動きは最初から決まっている。今はまだ絵コンテしか映っていないが、このシーンだって既にアニメーターに発注されて、今ごろ大勢の人たちが必死に作業しているはずなのだ。なのに台本と違うことをやってしまうと、修正が必要となり、あちこちに迷惑がかかってしまう。
つまり、今のはそれでも修正する価値があるという現場の判断だったというわけである。これがこの現場で、高尾メリッサが求められていたものなのだ。
「あなたはやれば出来るんだから、これからも気を抜かずにしっかりやりなさい」
有理が呆然と今の場面を振り返っていると、肩がぽんと叩かれて、帰り支度を終えた高島田が話しかけてきた。出口に向かってそそくさと去ろうとする背中に向かって、有理は慌てて頭を下げた。
「高島田さん。今日は私のために怒ってくれてありがとうございました! すごく勉強になりました!」
その声が思ったより大きかったせいか、立ち去ろうとしていた高島田はほんの少しよろけるように肩を揺らした。バツが悪かったのか、彼女は顔だけ半分振り返り、別にあんたのためにやったんじゃないんだからねとか、何かそんな感じのツンデレセリフを残して逃げるように出ていった。
***
高島田が去った後も収録は順調に進み、有理はほとんどリテイクを食らうことなく、ついに全てのシーンを演じきった。最初は怒っていたスタッフたちも徐々に態度を軟化し、特に高島田とのシーンがあった後は見直してくれたのか、最終的には上機嫌で今日の仕事は良かったと満足してくれたようだった。
その後、最後にもう一度スタッフに挨拶してくるという藤沢を控室で待っていると、助っ人に来てくれた一里塚がやって来て、
「高尾さん、お疲れさん。今日は大変だったねえ。僕で力になれたならいいんだけど」
「いえ、そんな、イッチさんには本当にご迷惑をおかけしました。今日はありがとうございました」
「全然迷惑じゃないよ。いつでも頼ってよ……ところで、このあと仕事ないんでしょ。よかったら食事でもどう? 奢るからさ」
「え? いいんですか? スキャンダルとか大丈夫なんですか?」
有理が警戒してみせると、彼は苦笑いしながら、
「もちろん、藤沢さんも一緒だよ。お店も、すぐ近くにある焼肉屋さんだから。焼き肉って……って思ったんだけど、藤沢さんがそうじゃなきゃやだって言うからさ」
「ごちになります!」
二人が会話していると、謝罪行脚を終えた藤沢が鼻息荒く帰ってきた。体育会系っぽい彼女の、たかれる時にたかろうという気合を感じる。一里塚の顔が引き攣っているのを見るからに、彼女は一体どれくらい食べるのだろうか……?
まあ、この雰囲気なら、おかしなことは起こりそうもない。それに今日一日つき合ってみて、一里塚という男にも好感が持てた。ここは可愛い後輩らしく、素直に奢られておこう。
「やっきにく! やっきにく!」
そんなこんなで浮かれる藤沢を先頭に、三人はエレベーターに乗って一階のロビーから玄関を出た。長い間、ビルの中に缶詰にされていたから時間間隔が狂っていたが、外はまだまだ明るくて、西の方から照りつける太陽が眩しかった。
仕事も終えて、ビールを一杯、気分良くやりたいところだったが、流石にこの体では怒られてしまうだろう。ほんの数秒でもう汗ばんできた肌を隠そうと、手持ちのバッグから日傘を出しながら、先を行く二人を追っ掛けていると、通りの向かい側からキャーという黄色い悲鳴が聞こえてきた。
「キャー! イッチ! こっち見て、こっち!」
見れば一里塚の追っかけらしき女子たちが、興奮しながらぶんぶん手を振り回していた。一里塚はこのアニメには出演しておらず、有理のヘルプのために来ただけなのだが、どこから行動が漏れたのだろうか? 恐ろしい話だが、一里塚の方は慣れている様子で気にも留めずに、にこやかに手を振り返していた。
流石、売れっ子は違うなあと思っていると、その黄色い集団の隣にいた控えめなオタクっぽい連中が、
「め……メリメリー! メリメリー!」
と、か細い声で叫んでいた。
もしかして、もしかしなくても、こっちは高尾メリッサの追っ掛けだろうか? アイドル声優って凄いなあ……と他人事のように思いながら、自分がそのアイドル声優なんだと思い出した有理は、せっかく来てくれたファンにサービスしようと、にこりと笑って手を振ってみせた。
すると、出待ちのファンが掲げていたスマホのカメラがキラリと光って……それを見た瞬間、有理は何か忘れてはいけないことを忘れているような気がして……あれ? なんだったっけなあ? ……と思ったところで、
ドンッ!!
っと、体の横から衝撃が走ったかと思えば、膝から下の力が急激に失われていって、そのまま地面に倒れ込んでしまった。
「侵略者が! 死ね! 死ね!!」
ドスッ! ドスッ! っと続けて二回、衝撃が走り、開いた口から、かはぁ~っと肺の中の空気が全部逃げていった。視界は黄色と赤に点滅して上手く見えなかったが、なにが起こってるのかは分かっていた。
また、キャーッという悲鳴が裏通りに響き渡ったが、今度のそれはアイドルに向けた黄色い声援ではなかった。
どこからともなく現れた暴漢に、今まさに殺されようとしているアイドルを見て、人々が恐怖の叫びをあげているのだ。
狂ったように振り下ろされるナイフが、まるで吸い込まれるように何度も何度も高尾メリッサの体に突き刺さっていた。一里塚はそれを止めようとしていたが、上手く動けないようだった。藤沢に至っては腰を抜かしてへたり込んでいる。この状況で、躊躇なく刃物を持った暴漢に立ち向かっていける人間は稀だろう。
有理はそんな二人の姿を、薄れゆく意識の中で見つめていた。
(あほかああーっ!! 俺はあぁぁーーっ!!)
高尾メリッサになりきることに夢中になって、これから何が起きるのかを完全に忘れていた。無茶な仕事を振られていっぱいいっぱいだったのは確かだが、本末転倒すぎる。彼女を助けるつもりが、彼女とまったく同じ末路を辿ってしまうとは……
この後どうなるのかは分からないが、もしもやり直せるなら、またあの時に戻ってやり直したい。一体何が起こっているのかとか、体の痛みとか、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないのかという理不尽さよりも、今はその気持ちのほうが強かった。
暴漢の振るうナイフが幾度も幾度も体を貫く……そして有理の意識は途切れた。




