厄介なオタク
有理と藤沢が、演技とはなんぞやと頭を悩ませていると、控室のドアがノックされて誰かが中に入ってきた。
「あ、藤沢さん。いたいた。なんか大変なことになってるんだって?」
そう言いながら部屋に入ってきたのは、同じ事務所の声優である一里塚一郎だった。まだ若いが結構な芸歴を持ち、長い間子供番組のMCを務めていた経験から、最近は実写の方でも活躍している、事務所の看板声優である。
「あ、イッチだ……いや、一里塚さん!」
有理は彼の姿を見るなりホッとして、思わず愛称で呼んでしまったが、慌てて訂正した。実はこの先輩、高尾メリッサが刺殺された後のラジオ放送で代役を務め、その際に生前の彼女の思い出を切々と語ってくれていたのだ。有理は放送を聞いてその真摯な態度に心を打たれ、こんな素敵な先輩に可愛がられていたんだなと思うと自然と涙が溢れてきて、以来、一里塚は彼の抱かれてもいい男ランキング上位を占めていた。
しかし知ってる声優を見て思わず気が緩んでしまったが、さっきはそのせいで高島田かほる子を怒らせるなんてドジを踏んでしまったのだ、また同じことにならないように気を引き締めなければ……有理はそう心に誓ったが、寧ろ一里塚の方は嬉しそうに、
「やあ、高尾さん。イッチでいいよ~、若い女の子にそう呼ばれると、おじさん嬉しくなっちゃう。どんどん呼んで」
「いや、でも、それで高島田さんを怒らせてしまって……」
「かほる子さん? 大丈夫だよ、あの姐さんツンデレだから、期待してる相手じゃなきゃ絶対怒ったりしないんだ」
「……そうなんですか?」
「そうだよ。ここだけの話……高尾さんのこと、影でこっそり褒めてたんだよ。なかなか見どころのある新人がいる。私の若い頃そっくりだって。あはは。というか、姐さんと仕事するの初めてじゃないでしょ? 覚えてない?」
言われてみれば……有理の心の高尾メリッサフォルダには、彼女が高島田と共演している作品が何本か見つかった。ものすごく縁があるわけではないが、まったく面識がないわけでもない。とすると、高島田は知っていて敢えて厳しく接してきたのだ。それはきっと、有理がだらしない真似をしたものだから、そうじゃないでしょうという期待の表れでもあったわけである。
そう思うと、彼女に申し訳なく思えてきた。それだけじゃない。今日の高尾メリッサの態度は、彼女の普段を知っている人から見ても、明らかにふざけているようにしか見えないだろう。
仕事を無断で休むほうが悪かろうと思って、何も考えずにここまで来たが、このままでは彼女の芸歴に傷を付けてしまいかねない。ちゃんと彼女にこの体を返すためにも、もう失敗は出来ないぞ……
「ところで、なんかトラブってるんだって? たまたま事務所にいたら、様子見てこいって社長に言われてきたんだけど」
有理が気持ちを新たにしていると、一里塚が訊いてきた。藤沢が地獄に仏とばかりに飛びついていく、
「そうなんですよ! それが里咲ちゃん……いきなり演技が出来なくなったとか言い出して……」
「演技が出来ない? そりゃまたなんで」
「その……一里塚さん。感情を込めた演技って、どうやってるんですか?」
有理が恥を忍んで尋ねると、一里塚は最初は冗談でも言ってるのかと目をパチクリさせていたが、暫くたって冗談ではないと察したのか、難しい表情をしながら、もう少し詳しく話してくれと言ってきた。
有理はマイクの前に立った時の経験を踏まえ、拙い表現で、ああだこうだと思ってることを伝えると、一里塚はふんふんと頷いてから、腕組みをして、天井を見上げ、続いて地面を見つめてから、また天井を見上げてから徐ろに、
「そうだなあ……僕は演じてる時は……特に何も考えてないね」
「……え?」
「寧ろ感情なんて考えないほうがいい時もあるね。自分の演じてる役柄のことを忘れて、別人を演じてる時だってある」
まさかベテランとも呼べる彼がそんなことを言い出すとは思わず、有理は面食らった。もちろん、一里塚はふざけているわけではなく、
「いやね、もちろん僕だって台本読んで役のこと考えて、こいつはどういう奴だとか、この時彼は何を思っているかとか、考えてはいるよ。でもそれって結局、僕の考えであって、正解ではないんだよね。例えば、僕が完全に役に入り切って、感情を込めて会心の演技をしたとするじゃない? でも、もしそれが監督のイメージしているものと違ったら、当たり前のようにリテイク食らうんだよ。もっと別の演技してくださいって言われて、そんな時、キャラの感情なんて気にしてられると思う?」
「……無理ですね」
「そうだね、もう感情はぐっちゃぐちゃ。どうすればいいか分からなくなる。で、こうなったらもう、経験に頼るしかない。今の自分の演技は完全に忘れて、例えば過去に演じたキャラに似たようなのがいないか。もしくは、過去の先輩たちの演技に参考になるものはないか。そうやって自分の引き出しをひっくり返して、こうですかそれともこうですかとやっているうちに、そのうち監督の中でしっくりくるものが見つかって、じゃあそれでってことになる。
すると不思議なもんで、最初に自分が考えていたキャラとは全然違うんだけど、ああ、このキャラってこういうやつだったんだなって、自然とそう思えてくる。自分で考えたんじゃなくて、誰かの模倣をしているうちに、キャラクターが固まってくるんだ。実はこういうのエリクチュールって言うんだけど……
生きるってのは常に模倣の連続で、僕たちはずっと誰かを真似して生きてきた。そうやって言葉を覚えたんだし、なら感情だって最初はそうしてる内に芽生えたはずだよね。実はね、人間ってのは悲しくて泣くんじゃない、泣くから悲しくなるんだよ。感情に突き動かされているように見えて、実は行動が先に立っている。そういう風に出来ているんだ」
一里塚の言うことは何となく理解できるし、共感もできた。キャラクターの感情を考えるのは、役作りにある程度必要ではあるが、考えすぎても無駄である。役者は役を演じるものであって、自分を押し付けるものではない。求められれば臨機応変に気持ちを切り替えて演じ分けなければならない時が来る。すると感情は寧ろ邪魔で、そんな時は何かを模倣するしかない。自分の引き出しの中にある経験を活かすのだ。
しかし、そうは言っても、有理はプロの役者でも声優でもないから、どうしていいか分からなかった。そもそも、女を模倣するってどうすればいいのだ? 女になった経験なんて、あるはずがないのに……
すると、一里塚がぽつりと言った。
「高尾さんは、今回と似たようなキャラを過去にも演じたことあるじゃない。例えば青のエクソダスのヒロインとか、パチモントレーナーも女子高生だったよね。あの辺の感じを出せばいいんじゃないかな? ……っていうか、多分、求められてるのそれだと思うし……あと助言するなら……」
一里塚はぶつぶつ言っている。彼は上手く言語化出来ないようだが、しかし有理はそれを聞いてすぐピンと来た。
青のエクソダスのヒロイン、新城カエデ……そうか、あの雰囲気を出せばいいのか。そう考えた瞬間、まるでパズルのピースがはまるように、カチリと彼の頭の中で何かがはまった。
自分には女の子の演技なんて出来ないし、ましてや架空のキャラクターの感情なんて分からない。だが、自分の頭の中には、高尾メリッサが演じた新城カエデがあった。自分はこれまで高尾メリッサの出演する、全ての作品を見てきたし、なんなら全てのセリフまで覚えていた。1年間、ラジオを追っ掛けてきたお陰で、彼女の喋る癖やイントネーションを覚えていたし、趣味や特技などのパーソナルデータも完璧に頭の中に入っていた。
有理は声優ではないし、演技なんて出来るわけがない。だが、紛うかたなき厄介なオタクである。高尾メリッサになりきることなら、彼には造作もないことだった。
「……おはよう。今日も朝から眠そうだね」
口を開いた瞬間……とても自分が出したものとは思えないような声が出てきた。
「お? いいじゃん、それ。どうやら何か掴めたようだね」
一里塚の目がキラリと輝く。そうか、これでいいのか……その瞬間、今まで悩んでいたのが嘘みたいに、有理の頭の中でキャラクターたちが動き始めた。




