俺はもう心が折れそうだ
環七通りから青梅街道へ入ると、道幅が狭くなって少し落ち着いた雰囲気になった。それでも深夜にも関わらず車が途切れることがない街道を歩いていくと、新高円寺駅を少し過ぎた辺りで十数階建ての巨大なマンションが見えてきた。
総部屋数200戸オーバー、全室が1DK以下のワンルーム専門マンションである。こんなピーキーな作りは都内でしか成立しないが、単身者が増えるという理由で規制されてるはずの由緒正しき違法建築である。
常駐しているやくざっぽい管理人の目を気にしながら、慣れない手つきでオートロックを解除して、いそいそとエレベーターへ向かう。学生証に書いてある部屋番号を見ながらボタンを押し、点滅するランプをじっと見上げる。そしてたどり着いた殺風景な廊下を歩いていくと、ついに目的地の部屋へ到着した。
「ここがあの女のハウスね」
じゃなくて、高尾メリッサの自宅である。そう思うと、なんの変哲もない鉄の扉がやけに重々しく見えた。緊張のせいかドアノブを握る手が汗ばんできた。玄関脇の窓のさんには、何本ものビニール傘が掛かっていて、妙に生活臭を感じさせる。ふと見上げれば、ドアの上の電気メーターが勢いよく回転していた。なんでだろう? 表札には何も書かれていないが、同居人とか居たらどうしよう。この扉を開けた途端、ちんこをぶらぶらさせた男が出てきたら、猛ダッシュで壁を乗り越え自殺する自信があるぞ……
そんなネガティブな考えを振り払うように首を振ると、鍵を差してドアノブを回し、ドキドキしながらドアを引いた。本当に男が出てきたらどうしようと思ったが、現実はそっちの方がマシだったかも知れない。というのも、ドアを開いた瞬間に空気が変わったような気がしたが、それは気のせいじゃなかった。何か独特な汚臭というか腐臭というか刺激臭がすると思った有理は、そして見てはいけないものを見てしまった。
玄関を開けたら、そこには見渡す限りの腐海が広がっていたのである。
入ってすぐの靴置き場には、分別されているとは思えないゴミ袋の山が積み重なっており、下の方に液体が溜まって膨らんでいた。一体、中でどんな化学反応を起こしてるのだろうか。廊下にはまるで足で脇に寄せただけのようなゴミと埃が地層を作っており、途中にあるユニットバスの入口からは洗濯物が溢れ出し、その前の申し訳程度のキッチンシンクでは、漬け置きされた食器の中でボウフラが湧いていた。
一瞬、部屋を間違えたか? とも思ったが、鍵を使って入れている時点で間違いようがなかった。さっと目の前を黒い何かが通り過ぎたと思ったら、それは巨大なゴキブリだった。男が居たらどうしようとは思ったが……まさかゴキブリと同居してるとは思わないだろう?
平時だったら、この中に入っていく勇気は出なかったろうが、今はここ以外に行く宛がない。せめて汚いのは廊下だけで、部屋はまともであって欲しいと願ったが、そんなわけがなかった。
玄関から一直線に進んだ先に引戸があるのだが、そのすりガラス越しにモザイクみたいにカラフルな色が見えた。嫌な予感に抗いながらも戸を引けば、そこにはスモーキーマウンテンみたいなゴミに埋もれた部屋があった。
食べかけのコンビニ弁当の容器と、まだ中身が入っているペットボトルの山。あそこに入ってる液体は、本当にジュースなのだろうか? 他にも、だったらもう郵便受けから持ってこなきゃいいのに、無造作に放り出されたチラシがあちこち散らばっている。
床は当然の如く目視することが出来ず、藪漕ぎをしながらじゃないと歩くこともかなわず、ゴミはついにベッドの上にまで進出し、更にその上にスウェットの寝間着やらタオルやらが敷いてあるから、多分、その上で寝てるのではなかろうか。普通、女の子の部屋で下着を見たら気まずくなりそうだが、何の感情も湧いてこなかった。
妙に肌寒いと思えば、クーラーがガンガンかけられている。どうやら、この部屋を夏場放置していたらとんでもないことになると、最後に残った理性がスイッチを押したのだろう。この部屋で、評価できるものはそれくらいだった。
「落ち着け。胸を揉みしだいて落ち着くんだ……げほげほげほ……」
有理は深呼吸しようとして、その拍子に腐臭を吸い込み、えづくようにむせ返った。よろけて踏み出した足が何かムニュッとして柔らかいものを踏んだが、元が何であったか判別がつかない。気持ち悪いと言って転げ回ろうものなら、どんな二次災害が起こるか分かったものじゃなかった。
「あかん……こんなところにいたら頭がおかしくなる」
さっきまで、別人と入れ替わったり、過去に戻ってしまっていたり、このままでは暴漢に殺される未来が待っていたりと、信じられない出来事の数々に打ちのめされそうになっていたわけだが……今と比べればまだマシだったかも知れない。
考えなきゃいけないことは山程あったが、今はそれよりもっとやらなきゃいけないことがあるようだ。有理は玄関まで取って返すと、うず高く積まれたゴミを分別することから着手した。
***
レースのカーテンが揺れて、生暖かい風が通り抜けていった。窓の向こう側には、まるで窓枠に切り取られた絵画みたいに、青い月が浮かんでいた。バケツの中で雑巾を絞るパシャパシャとした水音が、空っぽになった部屋で反響する。有理はそれをバケツの縁にかけると、ようやくふーっとため息を吐いて、床に腰を下ろした。
足の踏み場もないゴミの山を片付けたら、その下にはフローリングの床が埋もれていた。なにしろあの有り様だったから、いくら磨いても新品とまではいかなかったが、今は寝っ転がれるくらいにはピカピカになっていた。
部屋を片付け始めた当初はどうなることかと思っていたが、始めたら意外と早かった。同じ自治体に暮らしていたから、分別の仕方が分かっているのが大きく、とにかく生ゴミにさえ気をつけていれば、難しいことは何もなかった。
高尾メリッサの部屋はとにかくゴミで溢れていたが、逆に言えばみんなゴミで、いざ片付け始めてみれば、かき集めて袋に入れればそれで済んでしまった。一応、ゴミじゃない物もあったが、そういうのは大体ゴミの上にあったから、最初にそれを退けてしまえば、あとは簡単だったのだ。
なんで上にあるのかと言えば、多分、使った後ポイと置くからではなかろうか? そう考えると、使わないもの=ゴミから埋もれていくわけだから、自然とこういう階層構造になっていくのだろう。
そして一度下に埋もれてしまうと、日に当たらずジメジメしているから腐敗が早く、発掘してももはや使い物にはならないから、問答無用でゴミ袋に突っ込める。だったら最初から必要なものだけ脇にどけて、部屋をトンボがけでもすればよかったろうに……片付けられない人というのは、どうしてゴミを溜め込むのか理解に苦しむ。
因みに、使えるものとは大体衣類のことなのだが、ちゃんと洗濯しているかどうかも怪しいから、結局これらもゴミ袋に入れて、今はベランダに放置してある。明日、時間があるならクリーニング屋に持っていきたいが、そこまでする義理もないだろう。
何はともあれ、ばっちぃ生ゴミを片付けて、殺虫剤を撒いて同居人を追い出したら、そこそこ人が住める環境にはなった。部屋が寒すぎるからクーラーを消し、玄関と窓を開け放して空気を入れ替えながら、今はインスタントコーヒーを飲んでいるところだ。
ゴミが無くなった途端、殺風景になってしまった部屋の隅には、一台の全身鏡がぽつんと置かれていて目を引いた。あんなゴミ屋敷に暮らしていたくせに、こういうところだけは女子の名残りを匂わせる。
ちらりとそちらに目をやれば、姿見の中に美少女が映っていた。駅前で確認したときも思ったが、本当に整った顔立ちをしている。おまけに、これで高尾ボイスなんだから、そりゃあ男は放っておかないだろう。部屋は片付けられないが。
「でも、本当に高尾さんなのかな?」
鏡に映る自分の顔をぺちぺち叩きながら有理は独りごちた。実はさっきから自分が発している声に、違和感バリバリなのだ。頭の中に響いてくる声と、録音された声はかなり違うというから、多分そのせいなんだろうが、一応、本当に別人である可能性もあるから、ちゃんと確かめておいた方がいいかも知れない。
彼はそう思ってスマホを取り出し、サウンドレコーダーを起動した。いざ喋るとなると、何を言っていいのか分からなくて、ちょっと戸惑ったが、そのうち思いついた言葉を口にする。
「……おちんちん。おちんちん」
録ったばかりの音声を再生する。
『……おちんちん。おちんちん』
「うふふふふ……」
彼は満面に笑みを浮かべ、再度録音ボタンを押した。
「んぉおちんぽぉぉぉ~!!」
『んぉおちんぽぉぉぉ~!!』
「うふふふふ……」
どうやら、本物の高尾メリッサで間違いないようだ。自分のダメ絶対音感がそう告げている。惜しむらくは、この音声を自分のパソコンに送信できないことであるが、いや待てよ? 実家からなら、研究室にあるサーバーにアクセスすることも可能じゃないか。昼間、セツ子が出かけている隙を狙えば、鍵の隠し場所も分かっているし……
「いかんいかん」
有理は首を振って、両頬をぴしゃんと叩いた。こんな状況で、そんなアホなことをしている余裕などないはずである。明日は、高尾メリッサの命を救うため、特に慎重に行動しなければならないのだ。
彼は心に誓うと、空っぽになったマグカップを持って立ち上がった。コーヒーを飲んだせいか、ちょっと尿意を催してきたので、トイレに行きたくなった。決して邪な気持ちではなく、生理現象だから仕方ないのだ。
そんな言い訳を自分にしながらトイレへ向かった有理は……
「う……うわああああーーーーっっ!!!」
しかし、トイレに入った瞬間、もの凄い勢いで転げ出てきた。
全部片付けたつもりで完全に油断していた。そういえばユニットバスはまだ手つかずだった。彼女も風呂だけは毎日使うからか、一見するだけではどこも汚れては見えなかったのだが、しかし、敵は便器の蓋の裏側に残されていたのだ!
それがなにか多くは語るまい。彼は財布を引っ掴むと、トイレ用漂白剤とブラシを求めて、夜の街へと飛び出していった。




