どうかされましたか、お嬢さん?
ゴオオーー……とトンネルを抜ける風切り音に混じって、ガタンゴトンとレールの継ぎ目の音がする。隣の車両から女子高生たちの嬌声が聞こえてきて、スマホに熱中してるサラリーマンの手提げカバンが膝にぶつかって痛い。天井から吹き出す冷風がちょうど座っていた座席に当たっていて、気がつけば指先が真冬のように冷たかった。そしてメトロノームのように規則正しい列車のモーター音が、子守唄のように響いている。
その時、キキーッとブレーキ音が鳴って、横っ面を重力に襲われた。寝起きの脳みそは上手く回転せず、パリパリと静電気を立てていて、微睡みから回復したばかりの体は未だ弛緩して動けず、手すりに体を預けていたら、反対側のおっさんがぐいーっと体重を載せてきて潰されそうになった。ポマード臭い胡麻塩頭がなんとも不快だ。
何だこの野郎、わざとだろうか。押し返してやろうかどうしようかと迷っていると、間もなくキンコンキンコンという合図とともに、電車のドアが開いて、
『中野坂上、中野坂上、お降りの方はホームの隙間にご注意ください』
と聞こえてきた。どこか懐かしいアナウンスを夢見心地に聞いていた有理は、その瞬間、はっと我に返ると、
「あ、やべえっ!」
と言って立ち上がり、慌てて列車を降りる列に加わった。支えを失ったおっさんはそのまま座席に倒れて、手すりに頭をぶつけていた。恨みがましい舌打ちが聞こえる。ざまあみろである。
駅に降りて、反対側のホームに並んで待っていると、すぐに待ち合わせの電車が滑り込んできた。ドアが開くと同時に吐き出される人の波を見送り、今度は逆に自分が車内へと押し流される。ラッシュアワーの人混みに逆らうなかれと、揉みくちゃにされながら中程まで進んでいき、つり革に手を伸ばそうとしたが届かず、あれ? 何かおかしいぞ……と違和感を感じ、首をひねっていたら、やがて動き出した車内で、自分の後ろに立っていた男が、何故かしつこくケツを押してきたので、
「おい、触んじゃねえよ!」
と怒鳴ってやったら、ものすごい勢いで周りいた男たちが全員、次の駅で逃げるように下りていった。
そんなにビビんなくてもいいのに、怖かったのかな? あの世紀末みたいな学校で、ヤンキー共と過ごしてきた日々が、なんやかんや自分に凄みとか迫力みたいなものを与えてくれたのかも知れない……
そんなことを考えていたら、品の良さそうなおばさんが、
「大丈夫ですか?」
と声をかけてきたから、怖がらせてはいけないと思い、出来るだけにこやかに、
「はい! 大丈夫です!」
と元気に返事しておいた。
『方南町、方南町』
終点駅で下りて家路を急ぐ人に混じり、地下鉄の階段を上がると、昔ながらの商店街のアーケードが広がっていた。東京のど真ん中で個人商店が建ち並ぶ商店街は珍しいが、本当に商売が成り立っているのか不思議である。
家路を急ぐ人の流れに乗って商店街を進んでいくと、数ヶ月前にはあった店の看板が、別のものに変わっていた。ああ、あそこ潰れちゃったんだ……と思いながら、路地へ入り、横丁の赤暖簾をいくつか通り過ぎると、都会の喧騒が嘘みたいな閑静な住宅街が広がっている。ちょうど、中央線と京王線の隙間にあって、すぐそばを環七通りが走っているのに、いつまでも成長に取り残されたような風景である。
そんな都市計画の敗北みたいな曲がりくねった小道を歩いていると、まるで迷路に迷い込んだような気分になった。こんな道を毎日迷わず通っていたんだと思うと、本気で不思議に思うのだが、習慣だから体が覚えているが、本当にこの道であってんるんだよな? と思ったところで、有理はふいに気がついた。
「……っていうか、あれ? どうして俺、家に帰ろうとしてんだ?」
立ち止まって背後を振り返り、ぐるりと一回転してまた前を向く。
間違いない、ここは有理の実家の近所である。あと3つほど曲がり角を曲がれば、白いファミリー向けマンションが見えてきて、その隣にこぢんまりした二世帯住宅があるはずだ。そこが紛れもなく、自分の生家である。
そりゃあ、自分ん家の近所に自分が居てもおかしくはないが、問題は、自分は昨日まで神奈川県内にある魔法学校の学生寮で暮らしていたはずなのだ。それがどうして東京のど真ん中にワープしているのか、その中間の記憶がない。外泊許可を取った覚えもなければ、そもそも、実家に帰る予定もなかったはずだ。今では有理の私物は全部あっちにあるから、なんなら実家などもう用済みである。
覚えている限り、一番最後の記憶は、またあのゲームにログインしていたことだった。確か秘密基地で考え事してたら眠くなって、気がつけば丸の内線に揺られていたのだ。
「また、あのゲームが悪さしたのか?」
それは分からないが、とりあえず、今はそんなことを考えてもしょうがないだろう。せっかく家の近所まで帰ってきたのだから、一旦、家に戻って、それから宿院青葉あたりにでも連絡をすれば何とかなるだろう。
有理はそれ以上、深く考えずに家路を急いだ。
とは言え、もうあと数十メートルのことなので、すぐに家は見えてきた。完成後、隣にマンション建設の計画が立って、両親を絶望のどん底に叩き落した35年ローンである。二世帯住宅で玄関が2つあるが、お祖母ちゃんが死んでからは、ほとんど片方の出入り口しか使っていない。インターホンを押して返事を待たずに玄関を開け、懐かしの我が家へと帰宅する。
「ただいま~」
アポ無しで帰ってきたのだから、応答がくるまで待っていた方がいいだろうが、自分の家でそんなことをするのは気恥ずかしく思い、ズカズカ上がり込んで靴を脱ぐため三和土に座った。
と、その時、有理は自分が見たことがないスニーカーを履いていることに気づいて、あれ? と首を傾げた。こんな靴買ったっけ? 誰かのと間違えて履いてきてしまったんだろうか……?
そうこうしていると背後からパタパタとスリッパの音が聞こえてきて、
「は~い、どちらさま~……? あんた誰?」
振り返ればセツ子が廊下の奥の方で、ぎょっとした表情で固まっていた。
「誰って、あんたの息子じゃねえか。たった3ヶ月で忘れたのか」
「な、なに言ってるんですか、あなた……っていうか、どうして他人の家に勝手に上がり込んでるんですか? 警察呼びますよ」
「はあ?」
セツ子の様子がおかしいので困惑していると、続いてリビングの方から兄がひょっこりと顔を出し、
「母さん、どうしたの? ……なに、その女」
「いや、それが分からなくって……いきなり入ってきて、おかしなこと言うのよ」
二人はまるで不審者を見るような目つきでこっちの様子を窺っている。そういう冗談をやるような家ではないはずだが、ふざけているのかと思った有理はムッとしながら、
「おい、二人とも、せっかく帰ってきた家族に、冗談でもそういう心無いことするなよな。いくら俺でも傷つくぞ。ていうか、無理、おまえはそういうことするキャラじゃなかったろうが」
いきなり名前を呼び捨てられた兄は、目を白黒させている、母はそれを見てぽんと手を叩くと、
「あら、もしかして、無理のお知り合い? 家族って、あんた……女っ気のない子だと思っていたけど、まさか……」
「馬鹿! そんなわけないだろ! 俺はこんな女、知らないよ。ホント、なんなんだこいつ? どうして俺の名前を知ってるんだ? 表札には書いてないしなあ……」
「はあ? あんたら一体何をふざけて……?」
「ええい! 気味の悪い女め! さっさと出ていけ! 出ていかないなら、こっちから叩き出すぞ!」
「ちょ、ちょっと待て! 話を聞け!」
「不退去罪の現行犯だ!」
何が起きているのかわけが分からず、有理がおろおろしていると、いよいよ顔が真っ赤になった兄はズカズカと音を立てて廊下を走ってきて、三和土に座っていた有理の腕をねじ上げ、悲鳴を上げる彼の声を無視して乱暴にドアから外へと蹴り出した。
有理は抵抗しようとしたがまるで歯が立たず、突き飛ばされた拍子に外門の鉄柵にガシャンとぶつかって、息が詰まった。呼吸困難で苦しんでいると、玄関のドアがバタンと閉じて、カチリと錠が下りる音が聞こえた。
ゲホゲホと噎せながら立ち上がろうとしたら、手荷物の口が開いていたのか、中身を全部ぶちまけてしまった。慌てて拾おうとしゃがんだ彼は膝に鋭い痛みを感じ、見れば膝小僧から真っ赤な血が流れていた。
「ここまでするか?」
いくらなんでも、家族の様子がおかしすぎる。冗談にしては笑えない、というか、もはや冗談では済まなかった。なんで彼らはあそこまで頑なな態度を取ったのだろうか。
わけが分からなかったが、取り敢えず、膝の傷口をどうにかしたほうがいいだろう。何か拭くものか、絆創膏みたいに押さえるものはないかな? そう思いながら、散らばってしまったカバンの中身をかき集めている時……そして有理はようやく気づいた。
見れば、そこに散らばっていた物は全て、自分の物ではなく、あまつさえ男物でもなくて、みんな女物だったのだ。
化粧ポーチに手鏡に、女物のハンカチに、女物としか思えない財布。レースのフリルが散りばめられた日傘に、何故か読み込まれたドラマの台本っぽいものがあって、有名な女児向けアニメのしおりが挟んであった。スマホカバーもピンク色だ。
擦りむけている膝小僧を見たとき、なんとなく違和感を感じていたのだが、改めてよくよく自分の着ている服を見てみれば、なんと、スカートを履いているではないか!
驚いた有理は、こわごわとカバンから飛び出していた手鏡を取り上げた。するとそこには、見知らぬ女の顔が映し出されていたのである。
それはまったく見覚えのない女の顔だった。角度の問題で別人が映ってるんじゃないかと疑って何度も確認したが、間違いなくそれは自分の顔だった。なにがなんだか分からないが、有理は見知らぬ女性に成り代わってしまっていたのだ。
「そんな馬鹿な!」
慌てて彼はカバンの中身を引っ掻き回して、さっき見つけた財布を取り出した。何か身分証明書を持ってないかと探ってみると、高校の学生証のようなカードがあった。聞き覚えのない学校名は、どうやら普通の高校ではなく、フリースクールかそういう類のようである。
それはともかく、一体全体、この体の持ち主は何者なのだろうか、名前欄を確認すれば、そこには『鴻ノ目里咲』なる文字が表記されている。
珍しい苗字だ。なんて読むのだろうか? 鵜の目鷹の目の『うのめ』? いや、ルビが振ってある。これは、うのめじゃなく、こうのめと読むらしい……
ふーん、そうか。鴻ノ目里咲って読むのか……こうのめ、りさ……こうのめりさ……? こうの……
「高尾メリッサ……?」
その名前に、どことなく聞き覚えがあるような気がして、試しに声に出してみたら自然とその名が口をついて出てきた。その瞬間、有理は脳天をガツンとかち割られたような衝撃を覚えた。
まさか……そんな……どういうことだ? ありえない……
「どうかされましたか、お嬢さん?」
放心して地面にぺたんと座り込んでいると、横合いから声を掛けられた。見上げれば有理の父が立っていて、彼のことを心配そうに見下ろしていた。そりゃ、自分の家の前で女がへたり込んでいたら心配もするだろう。父はその女の膝から血が滲んでいることに気がつくと、
「おや……怪我をしているみたいですね。痛そうだ。母さんに頼んで手当してもらった方がいい。すぐ呼びますから、ちょっと待っててください」
父はそう言って柔和な笑みを浮かべると、母を呼び出すつもりでインターホンを鳴らした。良かれと思っての行動だろうが、しかし、さっき追い出した女がまだ家の前でうろついてたら、騒ぎになるだけだろう。
「い、いえ! おかまいなくっ!!」
有理は慌てて立ち上がると、手荷物を引っ掴んで駆け出した。家族に頼りたい気持ちはあったが、まずは状況把握が先である。下手したら本当に警察の世話になりかねないのだ。彼はズキズキとする膝小僧に耐えながら、夜の街を必死に走り続けた。




