第九十四話 大森林
人間はすべて暗い森である。
ーサマセット・モームー
サッカレー東の山脈。
山道の頂点を越え下りの道に入った時だった。
左手の木々が途切れ、麓の風景が、俺たちの目に入ってきた。
「ロス君、ラリアちゃん、あれがガスンバの大森林だよ」
転生ゴブリンパンジャンドラムがそちらを指差した。
聞きしにまさる大自然だった。
巨大なブロッコリーのごとき巨木が密集し、あたかも緑色の絨毯のようだった。ブロッコリーの集団は遥か遠く地平線まで続き、山脈の高みにいる我々からすら、その終わりを見ることはできない。
ブロッコリーカーペットのど真ん中には大きな山が突き出ている。
その頂からは真っ白い煙がもうもうと伸び、ゆっくりと北へ流れていた。
火山だった。
「君はここを歩いてきたのか?」
「うん……今こうしてあらためて振り返って見ると、正気の沙汰じゃないね。我ながらよく野垂れ死にしなかったもんだよ」
我々はこれから、あのブロッコリーに突っ込むことになるのだろうか。
「山を越えたから、オレたちから見るとあの大森林は西にあるよね。俺たちは南へ行くから……」
「山の麓と森の間に沿って行く感じだろうか」
「そうした方がいいだろうね。あの森ヤベー魔獣とかウザい妖精とか色々いてめんどくさいし」
立ち止まって森を見下ろしながら話すパンジャンドラム。
俺の左腕にしがみついていたラリアが尋ねた。
「妖精がいるですか」
「うん、そうだよ。イタズラ好きでさ、道に迷わせようとしてくるんだよ。オレも本当は南へ行こうと思ってたんだけど、たぶんそれで道が逸れたんだろうね。そのせいでタイバーンに行くことになったんだけど」
「怖いですね!」
俺たちは道を下り始めた。
下っているうちにも、大森林の雄大で、気が遠くなるような光景が目に入り続ける。
これから我々は、あの中へ入って行くのだ。
「奇妙なものだな」
「何が?」
何が。
パンジャンドラムにそう訊き返しそうになった。
自分が独り言を言ったことに気がつくまでしばらくかかった。
そう言えば今3人で歩いているのだった。
ラリアは寝ていることが多いし、これまでの人生でも他人と共に歩くということはなかったせいか、他人とお喋りをしている自覚がなかったことに気づく。
いや。少なくとも異世界に来てからは、常に誰かがそばにいたような……。
「ロス君返事してよ」
「……どうして俺たちはこんなところを歩いているんだろうと思ってな」
「どうしてって言うと?」
「ついこの間まで、こんな山やジャングルを歩くのなんて趣味の範囲でしか起こり得ないことだった。だが俺たちは今、真剣に移動するために歩いている」
「ああ……車欲しいよね……」
「なぜこうなったんだろうな」
「……ロス君も、日本に帰りたいって思う?」
そう訊いてきたパンジャンドラムは、大森林の方を見ていた。
俺はそれには答えなかった。彼は振り向いて、
「キリーちゃん、だっけ? あんたも異世界現地の女の子に惹かれちゃった?」
「何の話だ」
「あの子さ。ロス君のこと好きだったんじゃないの?」
「どうしてそんなことがわかる」
「あの子あんたの方ばっかり見てたよ」
そうだっただろうか。
シャイニング・マツタケを食べていた時のことを言っているのだろうか。
あの時はたしか彼女は、パンジャンドラムやラリアと談笑していた。
俺の方など一度も見なかった。
「気のせいじゃないのか」
「……まあいいけどね。あんたがそう思いたいんだったら」
パンジャンドラムはこれ以上この話を掘り下げる気はないようだった。
キリーがどうなりたいと思っていたのかを俺が知っていて、それについて知らないふりをしていることを知っているようだった。
大学生と若いながらもゴブリンとしても人生経験を積んできた彼は、山道を下りながらただぽつりとこう言っただけだった。
「女は魔物だからね。特にオレたちにとっては」
ガスンバの大森林へと足を踏み入れた。
まず最初に受けたインパクトは、その巨大さだ。
屋久島の杉ほども太く大きな巨木が、ありふれたことであるかのように密集している。
背の高さもかなりあった。枝が作る天井は遠く、巨木の幹による圧迫感も相まって、近代的ビルの吹き抜けに立っているような気持ちだ。
地表を見れば将棋盤じみた大きさの葉をつけた草木が散見された。
俺の背丈と同程度の大きさの、ゼンマイのようなシダ科のものと思われる、茎の先端が渦を巻いた植物も見える。
遠近感が狂ったかのような感覚を覚える森だった。
前世の俺は日本人として平均的な身長だったが、オランダあたりに行けばやはり今のような気持ちになるのだろうか。もしくはアメリカのジャンクフード屋に行けば。
そんなようなことに思いを馳せつつ歩きながら、体感にして約2時間。
やがて俺とパンジャンドラムはどちらからともなく立ち止まった。
「…………」
「…………」
「…………」
「ロス君」
「何だろう」
「これを打ち明けるのは辛いんだけど、聞いてくれる?」
「覚悟はできている」
「じゃあ言うね……」
「ああ……」
パンジャンドラムは言った。
「ここどこ?」
彼はキョロキョロとあたりを見回し、
「ヤバイよ、迷った」
「君はこの森は初めてじゃなかったはずだが」
「あ、オレに丸投げしてた感じ? オレ、前回だって迷ってたんだよ……」
俺たちは大森林の中で完全に方向を見失ったらしい。
と言っても俺は鉈で草木を切り拓いていくパンジャンドラムの後ろを思考停止しながら(少なくとも停止しようと努めてはいた)歩いていただけだったが。
「マスター、あれ」
左腕のラリアがある方向を指差した。その先には巨大ゼンマイが2本立っている。
「あのぐるぐる、さっきも見たです」
あの手のぐるぐるはどこでも見たような気がしたが、野生の面影を残すラリアがそう言うならそうなのだろう。
つまり……。
「オレらってひょっとして……」
「ああ……同じところをぐるぐる回っているようだな」
「ぐるぐるですよ」
「パンジャンドラム。そもそも君は何をもって、自分の進んでる方向が正しいと思っていたんだろう?」
「ええー……オレのせいな感じ? オレらが越えてきた山が東にあるじゃん? でオレらが向かってるのは南だから、山を左に見てれば南へ行けるから……」
俺は左を見やった。
木々の隙間から、上りの斜面が見える。俺たちが今朝下ってきたはずの山の斜面だ。
「……待ってくれパンジャンドラム。君はあの斜面を見ながら歩いていたんだな?」
「そうだよ」
「方向は変わっていない」
「うん。ずっと左に見えてた」
「じゃあどうして俺たちはぐるぐる回っているんだ」
パンジャンドラムは俺を見上げたまま押し黙った。
考えてみれば変だった。
山の斜面に沿って歩いていれば、彼が言うには南側大渓谷にあるらしい、人里に出るはずだった。
であれば同じ場所をサークリングするはずがない。
森や砂漠で人が迷うのは、利き足とそうでない足の筋肉の発達具合の差により、弱い足の方へ体が傾いていくせいだと聞いたことがある。
目標やガイドラインに沿わず歩けばそうなってしまうと。
だが山をガイドラインにすればその問題は起こらないはずだ。
パンジャンドラムは方向を見失ってなどいないのだ。
これでは我々は、山にぐるりと囲まれているか、もしくは逆に小山の周りを周回していることになってしまう。
だがパンジャンドラムがガイドラインにした山は、山脈なのだ。
パンジャンドラムもその奇妙さに気づいたのだろう、山脈を振り向いた。俺もラリアもそれに倣う。
木々の向こうに、斜面があって……。
突然、その風景がズレた。
地面から天まで伸びる木々が、幹の中ほどでだるま落としのコマのように、一斉に、数センチほどズレた。
「……ロス君……今の見た……?」
「……なんか森が変ですよ……?」
「……目がイカれたのは俺だけじゃなかったようだな」
我々がしばらく注視すること数秒。
あることに気づいた。
木々のズレには範囲がある。
縦の幅は4メートルほどだが、横幅は10メートルほど。俺は来た道を振り返ったが、視界遠くの木々にはズレが見られない。
縦4、横10の長方形。
長方形の映像が、左にズレている。
そのことに気づいた時だった。
ズレた長方形の上辺の真ん中が、突然手前にめくれた。
「なな、何だあっ⁉︎」
パンジャンドラムが声をあげたのも無理はない。
空間が紙のようにめくれたのだ。
そしてそのめくれた空間の向こうに、山ではなくただの森が見えている。
そしてだ。
めくれの上辺から何者かが顔を出した。
「小人です!」
「よ、妖精だ!」
超小型の人間だった。
背中に虫のように透き通った羽根を持つそいつが、何やら慌てたような顔をしてめくれにしがみつき、持ち上げようとしている。
パンジャンドラムが叫んだ。
「くそ、騙された! オレら幻覚見せられてたんだよ!」
俺は言った。
「やれやれ」




