第八十六話 卵の殻が刺さっている
ロフトの上には、召喚獣とはあまり関係のなさそうなものしか置かれていなかった。
質素なベッド。大きな犬の縫いぐるみ。ギター……というより形状は琵琶に近い弦楽器が、スタンドに立て掛けられている。
後はベンチプレス台とバーベル、その下に並べられている鉄アレイぐらいだ。
どうやら研究の気晴らし、気分転換のための空間のようだ。
小さな窓があるだけで薄暗くはあるが、むしろその控えめな光はこの空間にある種の落ち着きを演出していた。
この場所は自分の将来について想いを馳せたり、あるいは逆に何も考えずにぼんやりするのには適しているように思われた。
屋根裏の秘密基地。窓の外には森と草原、青い空に白い雲がゆっくりと流れているのが見えるだけ。静かで、単純な絵面だった。
自分が子供だった頃の自室を思い出してみた。
ロックスターのポスターを貼ってみたいといつも思っていたが、あの頃の俺は音楽なんてほとんど聞いたことがなかった。学校でクラスメイトが前日の音楽番組の出演者について話し合っていたが俺は名前を誰1人知らなかった。
誰のポスターを貼ればいいのかはわからないし、当時は知っているバンドもなかった。ただ、ポスターが貼ってあるのが人間の飼育場の正しい姿ではないのかと考えてみただけだった。
部屋の窓からは町内の公園が見え、放課後や休日には誰かがそこで遊んでいるのを知っていたが、カーテンは1日中閉め切っていた。
夢を追って生きていた勝ち組と、己を殺して機械のように死んだ負け犬。勝敗を逆転させて足を踏み入れた家は、前世の首輪の幻影を俺にちらつかせていた。
「ロス殿、こちらへきてくだされ」
階下からキリーの声。
階段を降りると、キリーが階段の裏側のスペースを覗き込んでいる。
俺もそこへ目をやる。扉があった。
分厚い木の板に鉄枠がはめ込まれた、かなり頑丈そうな扉だ。それが半開きになっていた。
キリーがその扉にぶら下がっている、ゴツくて大きい錠前を触りながら、
「どうやらアリス殿は大急ぎでここへ戻ってきて、中に入ったようでござるな。それで扉も閉めずに出ていったのでござろう」
そう言った。
扉と錠前の物々しさを看れば、たしかにアリスはこの部屋へ人を入れたがっていないのがわかる。それを閉めずにいるということは、よほど急いでいたのだろう。
タイミングは、ブリジットの屋敷牢を襲撃する前か。グローバルイーグルを取りにきた時だろう。
部屋の中へ入ってみる。
部屋の奥、高い位置に小窓が1つあるだけで他に明かりがないため、部屋は薄暗かった。
奇妙な文字の刻印が無数に刻まれた円形の台座が、右側の床に2つ。
台座には円筒形のガラスがあったと思われる。
思われるというのは、台座に割れたガラスが残っていて、周囲にも破片が散乱していたからだ。
想像するに、円筒の大きさは小柄なキリー1人ならすっぽりと入られる程度の大きさだろう。
「や、これは……合成魔法の呪文でござる」
キリーが台座の前にしゃがみ込みながら言った。
「魔獣を合成する際に用いられる、専用の魔法文字だと聞いたことがござる。右の台の上に置かれた魔獣が、左の台の魔獣に合成されるのではなかろうかと」
キリーの視線を俺も追う。
台座には何か太いケーブルが無数に伸びている。壁の側にあるボンベ状の物につながっているものもあるが、1番太いケーブルは2つの台座をつないでいた。
「ガラスケースの大きさからするに、これがヌルチートを造った試験管らしいな」
「なにゆえ割れているのでござろうか」
「わからないが……アリスが叩き割っていったか」
「もっと何かないか探してみるでござる」
部屋はさほど広くもなく、特にこれといって探すことに手間がかかることはない。
しかし、部屋の中はとにかく散らかっていた。
ひょっとしたら、ここにヌルチートの製造マニュアルが書かれた本、あるいはメモがあったのかも知れない。
だがアリスはそれを回収するためにもここへ戻ってきたように思える。
とにかく、紙の類いがない。
彼女はよほど慌ててそれらを回収したのか、小机はひっくり返り、壁の小棚の上の物も床に落ちていた。
ビーカーやら試験管、アルコールランプ、ハサミ、ペン、ネズミの縫いぐるみ。
だが書類はない。
「……妙でござるな。アリス殿は何かを探していたようでござるが……」
ボンベの辺りにいたキリーが呟いた。
「どうも、初めから床に置かれていたものまでひっくり返した形跡がござる。部屋の中の一切合切を調べ尽くしたという感じでござる」
見れば、キリーの足元にあるボンベは2本。
どちらも倒れていた。本当は壁に寄せて立てられていたのだろう。
「探していたとは、何をだろう?」
「さあ……」
引き続き、ヌルチートの手がかりを探す。
ガラスの破片に注意しつつ台座の裏を調べていると、ガラスではなく石が落ちているのに気づいた。
拾い上げてみると、ただの石ではなかった。
手のひらぐらいの大きさの、楕円に平たい石。
表面に何かの文字が書かれている。
見知らぬ字だったため内容は読めないが、どうやら文章の書かれた石板のようだ。
裏返してみると、そこには1つだけ絵柄が描かれていた。
身をくねらせたヤモリの絵。
これだ。
おそらくこれが、ヌルチートに関わる何かだ。
石板に書かれた文は製造方法に関することかも知れない。
「なあ、キリー……」
「ロス殿。ロス殿はこれよりどうするのでござるか?」
石板について尋ねようとするより早く、背後のキリーが口を開いた。
俺は石板のヤモリの絵を眺めつつ、
「これより、とは何だろう?」
「ロス殿はゴースラントヘ行く旅費を得るために、我らが王子殿下のためにお働きくださいました。しかしそれが終わった今、ロス殿はいかがなさるおつもりでござろうか……」
俺は石板から少し目線を上げた。
いかがするとは……?
「もちろん当初の予定通り、ゴースラントヘ向かう。今はヌルチートについて調べたいからここにいるが、それが終われば……それよりキリー、見つけたぞ……」
振り返ると、キリーが俺のすぐ後ろに立っていた。
俺の背中のすぐそばで、俺を見下ろしていたのだ。
近い。
「……どうしたんだろう?」
「ロス殿……サッカレーに残ってくださらぬか」
キリーが無表情に言った。
小窓の光が暗いのと、彼女がうつむいているせいか、キリーの瞳は光を反射していない。
「ロス殿。拙者、もっとロス殿と一緒にいたいでござる。ロス殿。ゴースラントヘは行かないで欲しいでござる。ここにいましょう。ここで、拙者と一緒に……」
なぜかキリーが顔を寄せ、覆いかぶさってくる。俺は立ち上がった。
「キリー、どうしたんだ」
「拙者は……拙者は、ロス殿をお慕いしておりました。たった独り王子殿下を探しておる折り、ロス殿の優しさに触れ、拙者どれほど嬉しかったことか……お願いでござる。ゴースラントヘは行かないで。ここにいて」
15歳の美少女にそんなことを言われて喜ばないハゲオヤジが果たしているだろうか? いや、いない。
たとえそれがクールでタフなロス・アラモスと言えども例外ではない……と言いたいところだが、それはあまりに唐突すぎた。
たしかにキリーと過ごしたこの数日間、俺は人並み外れて親切だったかも知れないし、格好の良いことも口走ったかも知れない。
だが様子がおかしかった。
なぜ、今、このタイミングなのか。
キリーがこちらへ、ゆらりと動いた。
彼女の足元でガラスが軋む。
「ロス殿……」
「落ち着いて。急にどうしたんだ」
「拙者……ロス殿の大きな背中を見ていたら、もう……」
キリーは唐突に。
まったく唐突に、着物の襟元をくつろげ始めた。
「ロス殿、ここにいて。その代わり、拙者をあげるでござる……どうか……どうか……」
「……待て。君は何をするのかわかっていて言っているのか」
「もちろん、まぐわいを」
「………………よし、聞いてくれ。ガラスの破片が散乱するこの場所では、それはいいアイディアとは言えない」
「では立ったまま……拙者を女にしてください……!」
「あひえ」
「何か……?」
「な、何でもない」
迫るキリーの両肩を掴み押しとどめる。
「キリー、どうしたんだ。おかしいぞ」
「何もおかしくなどありませぬ。拙者をロス殿の物にしてください」
ここで最も重要な点がある。
ロス・アラモスはとてもクールでタフなSランク冒険者であり、サッカレー王国を救った英雄であり、そしてキリーの頼みを断るどんな理由も持たないことだ。
ゴースラントヘ行くなら行くでそれはいいのだ。
行って、帰ってくればいい。
たとえばこのガラスの散乱する研究室で、15歳の美少女と組んず解れつ愛し合い、しかるのちにゴースラントヘ行き、ラリアの新しい生活が軌道に乗ったあと、またサッカレーへ戻ってきて、また組んず解れつ……。
ただもう一度言うが、ロス・アラモスはとてもクールでタフなSランク冒険者。数々の死線をくぐり抜けてきたウォービーストだ。経験と、危険を嗅ぎ取る類いまれなる嗅覚は群を抜いている。
その経験と嗅覚が叫んだ。
《ザ・マッスルのスキ》
《不正な妨害が行なわれています。スキルを発動できません》
ゆっくりと。
ゆっくりと、キリーの背中から這い上がってきた。
小さなヌルチート。
赤い瞳で俺を見ていた。
キリーが懐からブアクア刀を抜いた。
「ロス殿……この想い叶わねば、いっそ力づくで……!」
その時だった。
キリーの背中の小さなヌルチートが後方へ引き剥がされた。
キリーの背後にはいつの間にかラリアが立っていて、右手にヌルチートを掴んで天に掲げている。
《ラリアはコアラ・クローを発動しています》
「ふーん!」
叫ぶが早いか、ラリアはその死の爪によりヌルチートを握り潰した。
「おねーさん! おねーさんもマスターをいじめるですか!」
ラリアがそう言ったからか。それともヌルチートが死んだからか。
キリーはびくりと肩を震わせると、辺りを見回した。
そして肩を掴んでいる俺と目が合い、そして手元のブアクア刀を見て……。
「な、何と! ごご、ご無礼をば!」
叫んで飛びしさり、床に手をつき伏せた。
「も、申し訳……申し訳……!」
「キリー、立ってくれ」
「拙者、拙者は……何ということを……!」
「キリー、立つんだ。ガラスが刺さっている」
俺はキリーを立ち上がらせようと手を取った。それを見たラリアも、不思議そうな顔をしていたがそれに倣う。
キリーは立ち上がりこそしたが、顔は伏せたまま俺を見ようとしない。
その顔は真っ赤に染まり、瞳には涙が滲んでいた。
俺はラリアの手元を見やった。
右手に握り締められていたヌルチートは小さく、どうやら幼体のようだった。
そのヌルチートベイビーは、やがてラリアの手の中で掠れ、消えていった。
キリーの手のひら、それに膝にはガラスの小さな破片が刺さったため、流血していた。
俺は番兵に治療を求めるべくキリーをいざない、ヌルチートの部屋を出る。
扉を出た際一度振り返った。
小窓の幽かな明かりに佇むヤモリの子宮。
アリスが探していたのはさっきのヌルチートだったらしい。
造りかけの、最後のヌルチート。
何かの拍子に逃げてしまったベイビーを見つけることができず、諦めて去ったのだ。
「ロス殿……ロス殿……拙者は……あの……」
キリーは涙声で、何かを言おうとしていた。
俺は言った。
「いいんだ」
そして階段裏の扉を閉めた。




