第322話 千代田区在住30歳男性
「く、くるなッ!」
「グスタフさん……」アレクシスが言った。「バカな真似はやめてください、ナイフを捨てて……!」
アレクシスはグスタフに声をかけつつも、吊り橋にいる魔女をチラチラと横目に見るような仕草をしていた。
魔女は、右手の小さな杖を吊り橋の手すりに乗せて、こするようにして歩いていた。ゆっくりとだがこちらへ歩いてくる。
グスタフが叫んだ。
「転生者どもめ! アールフォーはどこにも連れていかせやしない! 彼女は僕のものだ!」
「グスタフさん、落ち着いてください……あなたは私たちが前世の世界へ帰ることを知ってるんですか?」
「ああそうさ!」
ここでグスタフは1度吊り橋を振り返り、
「魔女様がそう言ってた! 転生者が前世の世界に帰ろうとしてる、アールフォーも一緒にって!」
そう言った。
魔女は立ち止まった。まだテラスからは距離がある。豊満な肢体の魔女は、魔法の杖らしき短い棒の両端を指でつまんで横にして、それをうつむきがちに見つめた。
俺の頭の後ろのホッグスが小さく囁く。
「……いつであろうな? あのふたりが接触したのは?」
「……エンシェントドラゴンの卵を掘り出す前しか考えられないな」
「グスタフ殿はアリー家の敷地から出ていないはずであるが……魔女、というよりシスター・イノシャがアリー家を訪ねていたなどと報告は受けとらんし……?」
「……魔女の魔法かも知れないな」
俺はアンダードッグ区でシスター・イノシャが魔女としての正体を現した時のことを思い浮かべていた。
奴はジェミナイトを操るか何かする魔法によってヌルチートたちの意思を統一していた。そしてあの日現れた大量のヌルチートは帝都中にバラまかれていて、アリー家敷地にいたグスタフも取り憑かれた。
規模は大きいがそのぶん周到でもあった。魔女は転生者がアリー家に集まっていたのも知っていたし、だからヌルチートを、虫人間を使うなりして敷地に放り込んだのかも知れない。転生者の里帰り計画などグスタフをブラックエッグに呼んでからでも説明はできるだろう。
「アールフォーは渡さない! 彼女はこの世界でずっと僕と暮らすんだ!」
グスタフがまだガチャガチャ喚いていた。
それとは対照的に、いくぶん落ち着いた声でアレクシスが返す。
「グスタフさん……アールフォーさんは帰りません」
そして彼女は、鳥かごのような檻に入れられたアールフォーさんを振り返る。
「アールフォーさんはこの異世界に残って生きると決めたんです。ハルさんと、ナヤートさんと共に。そんな手荒な真似をする必要はないんですよ。さあ、アールフォーさんとトンプソンさんを解放してあげて」
アレクシスはグスタフへ向き直る。
俺はアールフォーさんが入れられた檻を見上げた。
ブアクア製の檻だ。俺やアレクシスが触れば痺れて動けなくなるだろう。檻を解放するのはグスタフか魔女にやらせなければならない。
その時、檻の中のアールフォーさんが目に入った。彼女はうつむいて檻の床を見て震えていた。
グスタフが言った。
「嘘だッ‼︎」
「嘘ではありません、アールフォーさんは……」
「アールフォーは僕に冷たくなった! 僕の目を見なくなった! あの黒帽子が……」魔女ではなく俺の方を指差しながら、「魔族との戦争から帰ってきてから!」
俺と檻を振り返ったアレクシス。
グスタフが言っているのは、俺が魔王と和解し、ゴースラント大陸へいって帰ってきてからのことだろう。
日本へ帰るためにはヴァルハライザーという人工の脳みそが必要で、ゴースラントにあると思われたがそれは見つからなかった。
仕方がないので帝都へ帰ってきて、前世でヴァルハライザー製造の責任者だった魔王から、ヴァルハライザーと異世界とは何であるか、転生者全員に説明があった。
この異世界はヴァルハライザーという生体コンピューターが作り出した仮想空間だと。
従って異世界に暮らす人々は人間ではなく、ゲームのキャラクターのようなものだと。
俺は再び檻を見上げた。
うつむくアールフォーさん。
たしかにそれからだった。
彼女のグスタフに対する態度がそっけなくなったのは。
「魔女様から教えてもらったんだ! 僕は……僕はアールフォーとは違うって! 転生者とは別の世界の生き物なんだって! だからアールフォーは僕を嫌いになって、前世の世界に逃げ帰ろうとしてるんだって! そうだろ⁉︎ アールフォー!」
問われた女は目に涙を浮かべてうつむいているだけだった。
違う、とは言わなかった。
あれほど仲むつまじく見えたエルフの男女。女は帰郷を否定しなかった。
「気が……変わったんですか? アールフォーさん……」
アレクシスが檻を見ながら呟く。
アールフォーさんははっとしたように顔を上げ、
「待って……聞いてグスタフさん……!」
「アールフォー、そうなのか⁉︎ 僕をもう愛してないっていうのか!」
「ねえグスタフさん……私とあなたは違う……私はここにいるべきじゃないのよ……だってあなたは……」
「どう違うって言うんだ! 僕はここに生きてる! 心臓が動いて、熱い血が流れてるんだ!」
「違うの、違うのよ……! だ、だって私は、頼太さんの……トンプソンの妻だから……!」
「僕のことを愛してるって言ったじゃないか! あんな男は君とは何でもないって! そう言ったじゃないか!」
「でも……でもあなたは本当の人間じゃ……!」
「どうしてだ! 僕には本当の心がある! 君への気持ちだって!」
「それは、つ、作り物の……」
男と女の言い争いを見るのは何十年ぶりだろうか。父と母が俺の学業の成績の低さに関して、その責任のなすりつけ合いをしているのを盗み見て以来だ。
今日のヒューマンドラマはもっとウェットでロマンティックな内容だったが。ホッグスが俺の後頭部をつついていた。いいから早く自分を投げろと言いたいのだろう。たしかに痴話喧嘩を犬の代わりに食ってやる必要もない。
俺は両腕の力を抜き、ホッグスを素早く投擲する準備に入った。
ヌルチートはグスタフの1匹だけ。魔女を見やったが奴の背中にはヤモリはいない。俺とアレクシスのどちらかが囮になればグスタフを仕留められるだろうがリスクを冒す必要はない。トンプソンにはナイフが突きつけられている。ホッグスのスキルならグスタフの思考を短時間停止させることもできる。
スピーディーな投擲を頭の中でシミュレートする。
今だ。さあ投げるぞ。
そう決意した時だった。
唐突に魔女が口を開いた。
「作り物だとして……」
杖を見ていた顔を上げ、
「何か……問題が?」
無視して投げるべきだった。あんな女の話など拝聴する価値もない。
だがまたちょうど投げようとした瞬間奴は喋った。
「同じことでは……? 愛などしょせんは……脳の機能……体を操るために頭が分泌した単純な命令でしょう……ただ従えばいいのに……」
もういい。さあ投げ……、
「それがヌルチートだとおっしゃりたいんですか?」アレクシスが喋りくさった。「召喚獣で操られた人が私たちを襲うのも、単純な命令だと?」
魔女はまた杖を見ながら、
「実際……愛とは物質だから……出るように仕向ければ出るわ……」
「私たちへの愛が、ですか? 出る出ないの問題なんですか?」
「ええ……まあ……」
「バカな!」
アレクシスは吐き捨てた。
「それで私たちがどれほど迷惑をこうむったと思ってるんですか⁉︎ 私なんて男に強姦されそうになったんですよ⁉︎ 犯罪ですよ⁉︎ そんなこと! それを愛だなんて……!」
杖から目線だけ上を向き、魔女は答えた。
「……最初は痛いらしいけれど……慣れればだんだんよくなるのでは……? 私もあまりよくは知らない……けれど」
また視線を戻す。
「冗談じゃありませんよ! 私は、私はこう見えて男なんですからね⁉︎ 前世ではそうだったんです! それを、男に襲われるなんて……」
「ええ、知っているわ……荒井……枢さん」
アレクシスは押し黙った。
そして一瞬俺を振り返った。
すぐに視線は戻したが、一瞬だけ見えた彼女の顔には驚愕の色が浮かんでいた。
魔女は言った。
「日本国出身……千代田区在住……30歳……男性。経済産業省に務め……血液型はA型で、右利き……。左のお尻のやや上、腰近くにホクロがひとつあり……コーヒーは砂糖をひとつだけれど、コーヒーが好きなわけじゃない……」
アレクシスが呻いた。
「な、な、なぜそれを……⁉︎」
魔女はつまんでいた杖の先端の方をはじいて立てると、その先端で肩越しに後ろを指しながら言った。
「……ヴァルハライザーにそう記録されてるわ」
杖の先が指しているのは黒い塔だった。




