第301話 プレイバック ※
「私が幼い頃、父がこの家を出ていった」
ホッグスはそう言ってコップに口をつけた。
そうして1度ごくりと喉を鳴らしてから。
「成長してから想像がついたことであるが、ヒステリックな母に耐えられず消えたのだ。ただ当時の私にはさっぱり意味がわからなかったが。無口だが、優しい父だった。アンダードッグの住民にしては働き者でもあった。母はそれでも稼ぎが足りないとよくなじっていたが。
「当時はな……今とは違って、橋の通行に料金を取られたのである。各階級の帝都民が自由に行き来できるフリー地区もなかった。正確に言えば、フリー地区を設けるプロジェクトが進行していた。そうだ、私が幼い頃にはフリー地区はまだなかったのだ。父はその工事に参加した労働者であった。毎朝橋を渡って働きに出かけていった。
「そしてある日戻ってこなくなった。私は母に尋ねた。お父さんはいつ帰ってくるのって。母は、あの男のことは忘れろと言った。あの野郎はアンダードッグを出ていった。どうせ他に女を作ったに決まってる。クズ野郎だ。もう帰ってこないと。
「……私は毎日このぐらいの時間になると橋へいって、料金所の前で父が帰ってくるのを待った。今日こそひょっこり姿を現わすに決まっとると思ってな。そしていつものように私がお仕事お疲れ様と言ったら、何も言わずに笑って私の頭を撫でる。きっとそうなると思っていたよ。毎日な。
「季節が変わっても帰ってこなかった。ついに私は痺れを切らしてな。橋の向こうへいこうと思った」
ホッグスはしばらくの間、無言で外を見つめていた。
俺は梨酒を口にして続きを待ったが、彼女は何も言わない。痺れを切らしたのはロス・アラモスも同じだったらしい、こっちから口を開いた。
「金を払って橋を渡ったわけだ」
「ふ……そんな金は持っとらんのである。泳いでいこうと思ったのだ」
ホッグスの横顔を眺めた。
口の端だけを歪めて、笑っているように見えた。
「ちょうど、この窓からまっすぐいった、あの川べりである。そこから水に入った。川幅が結構あったものだから途中で力尽きてな。溺れて流された。川に船を出していた大人がいなかったら死んでいたな」
俺も川を見やった。
たしかにアンダードッグ区と向こうのフリー地区をへだてる川は大きいものだった。
大人の俺でも水泳スキルがなければごめんこうむる。カロリアンだって泳いでは渡れないだろう。
俺は言った。
「川の流れは帝都の外へつながっているんだろう? カロリアンが船か何かを使ってそっちへ逃げたということは……」
ホッグスが振り向いた。眉根を寄せて睨んでいるようにも見えた。
「心配せずとも水門にも衛兵を配置しとる。まったく貴様という男はよくもこの会話の流れでそんなことが……いたいけな幼女が溺れ死ぬところであったのだぞ」
「だが実際死んでないからこうしてるんだろう」
ホッグスは一瞬鼻に小ジワを寄せた。
そして後ろ……ラリアの方を振り返った。
俺もつられてそちらに目をやると、ホッグスの静かな声音が子守唄にでもなったか、ラリアはテーブルに突っ伏して寝息を立てていた。
「死んでない? そう言えるか?」
声に視線を戻すと、ホッグスが俺を見上げている。
どういう意味が考えているうち、
「ちょっとこっちへきてくれ」
ホッグスはそう言って隣りの部屋に通じる扉へ歩いていく。
扉を開け向こうへいったので俺は何となくついていった。
小さな棚がひとつと、ベッドがふたつあるだけの部屋。
寝室らしい。ホッグスはそのベッドのうちの片方に立つと手招きをする。俺は何となくそこへいく……。
と同時にいきなりホッグスが襟首を掴んできて、
「ふんっ!」
「うおっ……」
ベッドに投げ倒された。
「何をする……」
起き上がろうとしたがホッグスが上にのしかかってきた。
「お、おい少佐、何を……」
《ザ・マッスルのスキルを発動しました》
反射的に跳ねのけようと考えたのか、スキル発動の知らせ。さらに反射的に俺はホッグスの左肩に視線を走らせた。
別にヤモリはいない。というかスキルは発動できている。その事実が俺にホッグスを乱暴に振り払う気にさせなかった。
それに何より……上から覆いかぶさり、俺を見下ろす彼女の顔に、苦渋の色が滲んでいたのだ。
ホッグスは言った。
「死んでないって言えるか……⁉︎」
「どうしたんだ、少佐……」
「私は……私たちは、貴様らが言うにはヴァルハライザーとかいう脳が作り出した幻影だそうではないか……!」
俺は起き上がるためにホッグスの肩を掴もうとした。だがそれより早く彼女は俺の手を掴み押えつける。
「これも幻影か⁉︎ 幻が温かさを感じられるのか? どうなんだロス・アラモス! 私は温かいか⁉︎」
「少佐、落ち着いてくれ」
「それとも感触すらないか⁉︎」
押さえつけるために俺の手を掴んでいるホッグスの手は間違いなく温かかった。馬乗りになっている彼女の体も。
彼女の方では俺の体温を感じているのだろうか? 触れているホッグスの体は震えていた。
「……作り物か、私は……? 魔女が作ったとかいうあの虫のように……? 合成魔獣のように? どんなものかは知らんが、貴様らのゲームのために用意された都合のいい駒か……?」
「……そんなことは」
「偽物なのか……偽物だったのか? 全部。父が帰ってこないのも。母が私にとって厄介者なのも。私も。思い出も」
「少佐……」
「苦学してアンダードッグから脱せたのも。母を捨ててまで仕事に打ち込んだのも。そのおかげで獣人の身の上で帝国軍の少佐にまでなれたのも。そうやってシビリアン区に移っても、父のゆくえは結局わからなかったのも……」
瞳から涙が、俺の頬に落ちた。
熱い涙。
「……全部夢だったのか……? 私はおまえたちを楽しませる駒として、そんな苦しい一生を背負わされていたのか……? おまえたち転生者を遊ばせるデタラメのために……!」
寝室の窓は小さく、差し込む夕日は部屋を照らすには十分ではなかった。
そんな薄暗がりの中でホッグスの長い髪が俺の頬に触れる。うつむいた顔はくしゃくしゃで、彼女は泣いていた。
とても賢く洞察力に優れたロス・アラモスという男は、魔王たちからヴァルハライザーの説明を聞いたあとでも態度の変わらなかったホッグスについて、話が大味、もしくは身近なものに感じられなかったから、信じていないのだろうと考えていた。
だから今日こうして行動を共にしている間、その話にまったく触れてこなかったのだろうと。だがロス・アラモスという男がとても賢く洞察力に優れていると評したのは、この広い世界でロス・アラモスという男だけだったらしい。
ホッグスは押さえている俺の手を離した。
だが起き上がるでもなく、まだ馬乗りになったまま。そうして彼女の手が俺の胸板をなぞる。
「私にはわかるのに。ここに貴様がいるのがわかるのに。私は私であるとわかるのに。人間みたいに」
「……少佐。聞いてくれ」
「……だからなのか……?」
「何が……」
「だから貴様は私を無視してばかりいたのか……?」
「君を無視したことなんかない」
「嘘である。私のことなど見向きもしないで、前世の……世界の向こうのことばかり考えている。そうやって貴様も向こう側へいってしまうんだ。川を渡って、もう戻ってこないんだ」
ぽろぽろと。涙がこぼれていた。
俺は胸にある彼女の手を掴み、
「少佐……考えすぎだ。君は人間だ。間違いなくここにいる。だいたいが、俺たち転生者だって何も変わらない。ただの記録だ。俺と君は結局は同じ……」
「では私を抱けるか?」
「なに、えっ?」
ホッグスは胸から手を離し、俺の両肩の上……頭を挟むように両手をついた。
「なに、なん、えっ」
「貴君は私が嫌いか? 私は女として魅力がないか?」
「いえ、そんなことは、完璧じゃないかなとは思うことも」
「では私を抱け。帰る前にもうひとつ、私に幻の思い出をくれたっていいであろう……?」
ホッグスの端正な顔が近づいてくる。唇とかすごくぷるぷるとみずみずしいように見える。
「しょうさ、しょーさ、聞け」
「クーコと呼んで欲しいのであるが……」
「いやあの、あのね、隣りに子供がいるんだ。わかるだろう? そういう行為はつまり教育上、あの、わかるだろう?」
クーコ、いやホッグス少佐は俺にかぶさった姿勢で後ろ……部屋の扉を振り返る。
俺も同じく扉を見やった。俺はホッグスのあとに部屋に入って、扉は閉めていない。
そこからちょうどよく、ひょっこりラリアが顔を出した。
「あっラリア! これはだな、あのだな」
俺はラリアがこの場に乱入し助けてくれるのを期待していた。
ラリアはこういう場面はある意味で見慣れている。マスターである俺の意図を察してすぐにきてくれるはず。
ラリアは言った。
「あっ……ボ、ボクはちょっと水道管の様子を見てくるです!」
そう言って扉を閉めようとした。
「ラリア。この建物に水道はない」
「あっ、じゃあ雨漏りを調べてくるです。どど、奴隷たるもの何か働いてないと落ち着かないです。修理には1時間ほどかかる予定です。もっとかかるかも知れないです。そのあいだ作業に集中するため話しかけないでもらえると助かるですね」
「ま、待て……」
「ごゆっくりです」
そしてついに扉は閉められた。
ホッグスが向き直った。
「さあどうするロス・アラモス。1時間しかないぞ」
「ままままま待て、日暮れのアンダードッグ区に子供ひとりを追い放つだなんて……」
「ラリア殿なら普通にテーブルに座っとる。私はヒューマンより耳がいい。音でわかる」
「じゃあ代わりに俺が雨漏りを」
「ロス」
「何だろう」
「私に恥をかかせるのか……?」
ホッグスの顔がゆっくりと近づいてきた。
髪がさらに俺の顔にかかる。
進退窮まっていた。
「ロス……」
「……何だ」
「私が嫌いか……」
「…………いや」
吐息が鼻をくすぐっていた。
異世界にきてよりずっと逃げ回ってきたことが、今日ついに俺に追いついた。
俺は覚悟を決める時がきたらしい。
「……俺はこの手のことについて何の作法も知らないぞ……」
「私もである……」
「では手探りか」
「そうなるな……」
ホッグスの唇がついに俺のそれに触れようとし…………、
「ちょっと待っつぁぁあぁぁぁぁあッッッ!!!!!」
……………………たその時だった。
突如として謎の大声が響いた。
声のした方を見れば、寝室の窓。
そこには、下側の窓枠から、何か半月に似た、金色の丸いものがのぞいていた。
やがてそれは徐々にせり上がってきて、人間の頭であると俺にわからせた。
窓枠に懸垂のように何奴かがぶら下がっている。その腕力によって持ち上げられた曲者の顔が、ついにその全容を明らかにした。
それを見たホッグスが言った。
「あっっっっ!!! あの時のエルフ殿!?!?」
「やれやれ……」
窓の曲者。
何かムスッとした顔でこちらを睨んでいるそのブロンドの少女は、ガスンバ以来姿を見せなかったあのエルフだった。




