第229話 事象の地平面
「ねえったら! 誰もあなたを傷つけたりなんかしないわ!」
アールフォーさんの呼びかけにも関わらず、黒い球は歪んだ風景をまとって鎮座していた。何の反応もない。
「どうして……? 私たちを怖がってるんでしょうか……?」
俺はナヤートが作り出したブラックホールを見やった。
声が聞こえないのだろうか? 真空……のはずはない。ブラックホールは周囲を吸い込むわけだから中に何もないということは有り得ない。
ではこちらの姿が見えない……おそらくそれもないはず。重力によって光が出られなくなっているのでこちらからナヤートの姿を見ることはできないが、こちらの姿は向こうへ届いているはず。
だが改めて周囲を見回してみた。
ブラックホール付近の建物は、天井部近くが崩れていた。フォークで削れたケーキ、かじられたチーズ、直喩など何でもいいが、とにかくブラックホールを中心に削れている。
「瓦礫を吸い込んだのかも知れない。砂埃もあそこへ飛んでいる。ひょっとしたら中央に瓦礫が溜まって壁になってこっちが見えないのかも……」
「ほ、本当ですか?」
「さあ……どうだろう」
誰もブラックホールに入った者などいない。
中からこちらをどう認識できるかなど想像もつかない。
だが《スキルアナライザー》によれば、ドラゴンとの衝突を避けるために吸い込む物を選別できるというように取れる説明があった。
それに……。
「……やはり怖がっているのかもな。男にも、エルフにも警戒心を剥き出しにしていた。コミュニケーションを取りたくないのかも知れない」
「でもよロッさん。じゃあどうするって言うんだい」
「ナヤートは奴隷商人には心を許しているようだった。商人は今パンジャンドラムが追っている。連れ戻してくれば、話を聞いてもらえるかも……」
左腕に捕まっているラリアがやや腕の力を強めた。
ラリアを俺に押しつけた奴隷商人。なぜ彼はこのオルタネティカ帝国で、なぜナヤートなる転生者と共にいたのか。
俺自身あの商人に、それを尋ねるため戻ってきてもらう必要があると考えていた。
だがひとまずはナヤートのブラックホール。これを解除してもらうために商人にきてもらわなければ。
「ロスさん。私、パンジャンドラムさんを手伝ってきます! 私嫌われてるみたいだし……」
「おれがいった方がいいような気がするぜ……絶対子供に好かれねえ見た目だろ、おれ……」
「ウォッチお兄さん、そんなことないですよ、大きくてかっこいいです!」
「あ、じゃあ何なら2人で……ラリアちゃんみたいなかわいい子が残るなら警戒も解けるかも……?」
地面に踏ん張りつつそんなようなことを話し合う3人。
俺はブラックホールに1番近い、気絶した衛兵を見ていた。
引力によって宙に浮き上がり、少しずつ少しずつ、ブラックホールに吸い込まれようとしている。
「まずは彼を助けてやろう。あのまま飲み込まれたら……」
「死ぬかな?」
「わからない」
「近寄って大丈夫かな……」
「ロープか何かを投げれば捕まえられる。そういうスキルがあるはずだ」
俺は周囲を見回した。ウォッチタワーとアールフォーさんもそうしている。ロープを探す。
ふと、5人の衛兵のうち真ん中の男が目に入った。
地面に倒れているのだが、ゆっくりと動いている。
はじめは引力のためかと思っていたが違った。
「う……ううん……」
頭を手で押さえ呻いている。上体を起き上がらせようとしていた。
意識が戻ったのだ。
「アールフォーさん。君のスキルで酸素を作ったと言っていたが……」
「あ……そうです!」
「向こうまで流れていっているらしい」
やがて男は完全に意識を取り戻したのか、倒れた仲間や、浮いている仲間を見た。その浮いている者を見て悲鳴をあげる。
まだこちらには気づいていなかった。俺は小声でささやいた。
「……ウォッチタワー。もし5人とも目を覚ましたとして、倒す自信はあるか?」
「ぐう……よくて3人じゃねえか……? ロッさんたちが1人ずつになるが……」
「俺はまだしもアールフォーさんは女性だしな……」
「あの、私のスキルを切りますか? また気絶させて……」
「それだと俺たちも危険だな……」
他の衛兵の様子を見てみる。倒れて引きずられたまま動かない。
俺は目覚めた衛兵に声をかけた。
「おい。その黒い球が見えるか?」
「あっ、転生者! あの褐色美少女はどこいった⁉︎ 俺の熱い思いを是非とも……」
アールフォー派ではないらしい。俺はブラックホールを指差し、
「あの中心だ。あれが彼女のスキルさ」
「お、おいロッさん!」
ウォッチタワーは咎めたいようだが、状況を打開するにはこれしかないように思えた。
ヌルチートを始末するにはラリアを投げ込めばいいわけだが、問題はブラックホールだ。俺たちは地面に立って踏ん張っているが、ブラックホールに1番近い兵は宙に浮いている。
目が覚めた兵は3番目に近いが、本人もうつ伏せで耐えようとしているが引きずられている。
どうもブラックホールに近いほど引力の影響が強いようだ。
もしもあの辺りに投げ込んだ場合、ひょっとしたらラリア引力に捕まり戻ってこられないかも知れない。俺の頭にはそういう懸念があった。
だが目覚めた衛兵。背負っているヌルチートの目も開いていた。
奴がブラックホールを見ればナヤートのスキルが無効化され、《ギャラクシーグレイヴ》とやらを解除できるかも知れない。
皮肉なものだった。転生者のために、転生者のスキルを封じるヌルチートを利用するなど。
「あのスキルを封じた方がいいんじゃないか? さもないと君のお友だちはあの暗闇に飲み込まれて2度と帰ってこられないかも知れないぞ」
「うう、やめろ! おまえの仲間じゃないのか⁉︎ やめさせろ!」
「やめさせたいなら自分でやるといい。君にはその力があるはずだ」
衛兵はしばし俺たちと、空中の仲間を忙しなく見比べていた。
ウォッチタワーの、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。
やがて衛兵はブラックホールへ向き直る。
ヌルチートの瞳が赤く光り……。
何も起こらなかった。
ブラックホールは相変わらず。
「お、おいっ! スキルを封じられないぞっ! な、何をしたんだっ!」
衛兵はそう喚いた。
何をしたと問われても何もしていない。だがブラックホールは事実なくならない。ヌルチートが赤い目を向けているのにだ。
ウォッチタワーが俺の耳の辺りに顔を寄せた。
「な、なあ。ひょっとしてあのダークエルフ、転生者じゃないんじゃ……?」
「そんなはずはない。みんなヌルチートを使って追いかけていたんだ。間違いない」
「じゃあ何でスキルが……」
俺はブラックホールに目を向けた。ブラックホール。
「……見えないんだ」
「な、なに?」
「物が見えるということは、物に反射した光を目が捉えるからだ。だがブラックホールは光を逃がさない。ナヤートに反射する光はあの黒い球の外には出られない」
「つまり……」
「……おそらくヌルチートはナヤートがあの中にいるのを確認できないんだ」
いるのは知っているが、目では見えない。
視認することでスキルを封じるヌルチートにはどうしようもないのだ。
「た、たまげたな……! ヌルチートを無効化できる固有スキルがあったなんて……!」
俺もウォッチタワーと同じ気持ちだった。今まで散々煮え湯を飲まされてきたスキル封じ。だがそれを実行させないスキルがある……。
おそらくナヤートは追われているさなか、ヌルチートの視界から隠れるチャンスがあったのだろう。その時にあの《ギャラクシーグレイヴ》を発動させた。ヌルチートの能力とブラックホールの仕組みを知っていてそうしたのかはまではわからない。
だが何にせよ、無敵の能力だった。
となると、どうする?
パンジャンドラムと商人待ちか。このままだと他の衛兵とヤモリも目を覚ましてしまう。
パンジャンドラムを入れても俺たちは4人。ナヤートを入れても全員ヌルチートのターゲットになってしまう。ナヤートには効果がないので無視されるからなおさらだ。
手詰まりだった。ナヤートの気が変わるのを待つしかない……。
《重力が上昇》
アールフォーさんの足が滑った。転倒して引きずられるところを、ウォッチタワーが腕を掴み引き止める。
「ああっ!」
衛兵が叫んだ。
そちらを見ると、空中の衛兵が引き込まれていくスピードが速まっていた。
俺の足も滑り始めていた。




