第86話 痛み(1)
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美夜がホットケーキを裏返そうとしていると、玄関のチャイムが鳴った。
「ごめん、美月。出てくれる?ハルさんだと思う」
「わかった。里々衣、お父さんが来たかもよ」
美月がそう言うと、里々衣の顔が一瞬強張る。
「大丈夫。ほら、にっこり笑って?お父さんが安心できるように。ね?」
美月がそっと囁くと、里々衣は一つ頷く。
「いい子」
里々衣の手を取って一緒に玄関へ向かった。
美夜がホットケーキを上手くひっくり返したのと同時に、里々衣の大きな泣き声が玄関に響いた。美夜は危うくフライ返しを落としそうになる。何が起きたのかと、火を弱め、急いで玄関へ向かう。
玄関では美月が里々衣を抱え、栄に向かって怒鳴っている。美夜は驚いてその場に立ち尽くした。
「理由も訊かずに殴ること無いだろう!大体、あんたのせいで、里々衣は家を飛び出したんだぞ!」
栄は里々衣を殴ってしまった手を震わせながら、自分の行動と、美月の言葉に顔を歪めていた。
何も言わない栄を睨みつけ、美月は里々衣を連れて自室へ入って行った。
美夜は今にも泣き崩れそうな栄の側に、急いで近寄る。
「こんな所では何ですから、どうぞ、上がってください」と言うと、栄の腕を取ってリビングへ通した。
「どうぞ、散らかってますが……」
美夜は先程まで里々衣が絵を描いて遊んでいたテーブルの上を急いで片付け、座布団を敷く。
「どうぞ、おかけになってください」
栄は「すみません」と、今にも消え入りそうな囁き声でこたえた。
美夜はキッチンへ行くと、お茶を淹れる用意をし、ケトルのスイッチを押す。そして、ホットケーキの火を少し強める。
「今、みんなでホットケーキを作っていた所なんです」
キッチンから栄に話しかけた。重苦しい空気をどうにか吹き飛ばしたくて声を掛けたが、栄からは何の返事もない。当然のことではあるが、美夜は少し落ち込んだ。
ケトルのスイッチが上がり、アールグレーのティーパックをカップに入れ、湯を注ぐ。
アールグレーの良い香りがして、湯に色が付くと、ティーパックを取り出す。カップを持ってリビングへ向かい、栄の斜め隣りに座った。
「どうぞ。温かいお茶を飲めば、少しは落ち着くかと思いますよ」そう言うと、キッチンに戻り、ミルクと蜂蜜を持って戻った。
「よかったら、好きに入れてください」
栄は小さく頷いたが、何も入れず黙って紅茶を口にした。
「……うまい」
ぽそりと声が聞こえた。美夜は笑いながら「いやあ、ティーパックですけどね」と言ったが、栄は暗いままだ。
美夜は俯き、自分の手元を見つめ、下唇を小さく噛む。
手を取りたい、抱きしめたい、そう思った。
全身が熱くなった。自分の手を強く握り締め、目を瞑った。
キッチンから、甘く美味しい香りがしてくると、美夜の意識はキッチンに向く。急いでキッチンへ行き火を止める。
ふっくらと綺麗なきつね色に焼けているホットケーキを皿に移すと、再び火を付け、フライパンに油を薄くのばし、生地を流し込んだ。弱火にして蓋をすると、再びリビングに戻る。
「……て、叩いた……」
「え?」美夜は聞き返した。
「初めて、里々衣を叩いたんだ……。この手が、こんなに痛くなるんだと、初めて知ったよ。……俺が痛いってことは、里々衣はもっと痛いはずなんだ……」
栄は微かに震える手をじっと見つめていた。
「なぜ、叩いてしまったんですか?」
美夜は極力ゆっくりと静かに訊ねる。
栄は微かに顔を上げ、「そんなつもりはなかったんだ……」と囁いた。
「居なくなったと分かったとき、心配で心配で仕方なかった。何か事故に巻き込まれたらどうしようかとか、あの女に連れてかれてたらどうしようとか……。悪い方向に考えてしまった。……ここへ来て、里々衣が笑っている顔を見て、思わず手が出ていた……。最悪だよな……」
栄は両手で自分の顔を覆った。
美夜は「仕方がないですよ」と、ありきたりの言葉しか言えない自分が、情けなく思えた。それでも、栄は優しく微笑んで「ありがとう」と呟く。美夜はその言葉に、救われたかのように微笑み返した。
「今日、突然、柳原さんが家に来たんだ……。俺も、あまり彼女をよく思っていなかったせいか、里々衣にもそれが伝わっていて……。彼女が来た途端、ものすごい顔をしたんだよ、あいつ……」
栄はその顔を思い出したのか、小さく笑った。
「なんか、やばいなって感じて、コウに頼んで二階に連れて行ってもらって……。それで、彼女とはちゃんと話しをして、もう来ないでくれと、言ったんだけどね。……彼女が帰った後、里々衣が居なくなってることに気が付いたんだ。俺、失礼なことに、彼女が連れ去ってたらとか、色々考えててさ……。ここに居ると分かって安心したのと同時に、なんで黙って出て行ったんだと、心配しただろうと、大人げもなく腹が立ってね……」
栄は再び自分の手を見つめる。
美夜はそっと栄の手を取った。大きく少し冷えた手を、両手で優しく包んだ。
「ハルさんは、悪くないですよ。もちろん、里々衣ちゃんも。たまたま、タイミングが悪かったんですよ。ハルさんは、柳原さんのことで一杯だったし、里々衣ちゃんは、ハルさんの事が心配で不安で……」
「心配……?」
栄は首をかしげて美夜の顔を見る。美夜は自分が言って良いものか考えてから、栄に目を向け、そっと手を離した。
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