第85話 誘拐です
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美夜はリビングで音楽を聴きながら、新作菓子の案を考えていた。
「ああ!だめだあ」
ペンをテーブルに投げ出し、そのまま後ろに倒れ寝ころんで、天井をぼんやりと眺める。
目の中に糸が見えて、うねうねしたそれを、眼球を動かし追いかける。オーディオから静かに流れるピアノの旋律に耳を傾けていると、その音の中にピアノとは別の音が響く。それも、玄関からだ。
美夜は、はっとして瞬きを繰り返し、耳を澄ます。玄関の鍵が開く音がした。
驚いて勢い良く起き上がり、リビングのドアに隠れるようにして薄暗い玄関のドアを凝視する。
がちゃりと玄関のドアが開くと、心臓が何者かに握り締められたように痛んだ。
「ただいまあ」と良く知る声が響く。それに続いて可愛らしい声が「ただいまあ」と続いた。
その声が美月だと分かると、何者かに握り締められていた心臓に向けて、一気に血が通う。「ん?ちょっと待って」と、もう一つの声に「まさか」と、驚きつつ急いでリビングから顔を出す。
「え!?何?なんで?」
「へへえ」
美月は驚いた顔の美夜にやりと笑い「誘拐です」と、言い切った。
「ええ!?」
*******
「と、言うわけで、連れて帰ってきた。今、向こうに連れて行っても、まだ例の人がいたら、その人の顔が見たくなくて逃げ出した里々衣が可哀想だなあと、思って」
美月は里々衣を見つけ、連れて帰ってきた経緯を話した。だが、里々衣が美月に言った「ママになって」発言は伏せ、自分の胸の内にしまった。美夜とはいえ、何故だか言ってはいけない気がしたのだ。
美月の話しを聞き終えた美夜は、里々衣に視線を向ける。里々衣は、美夜が貸した色鉛筆で、メモ用紙に沢山の絵を描いて、大人しく一人で遊んでいる。
「暫くしたら、あいつに電話してよ。迎えに来てもらおう」
美月は里々衣を慈しむ様に見ながら話す。優しい、母性を感じる美しい横顔。美月のこんな表情は初めて見るな、と思い、美夜はその横顔を黙ったままじっと見つめた。
「美夜?」
急に振り向いた美月に驚いた美夜は「わあ」と声を上げた。
美月は怪訝な顔をし「大丈夫?」と首をかしげる。
「ごめん。えっと、今二時でしょう。三時頃で良いかな?それで、おやつ食べて、四時頃迎えに来てもらうのは、どう?」
「うん。そうしよう」
美月はにっこりと微笑むと、里々衣の描いている絵を覗き込んで「何描いてるの?わんこ?上手いじゃん」と言いながら、一緒に絵を描き始めた。
美夜は小さく息を吐き出し、二人のやり取りにそっと微笑んだ。
三時前になり、美夜は自室へ行き栄のスマホに電話を掛けた。
栄は電話を握り締めていたのか、コール音も無く声が聞こえ、美夜はびっくりして自分のスマホを見つめた。
「もしもし!」栄の切羽詰まった声が漏れ聞こえる。
慌てて「もしもし、美夜です」と答えた。
「美夜ちゃん!里々衣知らないかな?突然居なくなって……」
声は上擦り、普段のゆったりした話し方とは違う早口。その栄の様子に、美夜はもっと早く電話をすれば良かったと、瞬時に思い罪悪感が芽生えた。
「ハルさん、落ち着いて下さい。その事で、電話したんです」
栄は心底驚いたのか、息を飲む音が聞こえる。
「今、うちに居るんです」
「み、美夜ちゃんち!?」
栄は大声を出した。美夜はスマホを耳から離し、「そうなんです。美月が偶然、一人で歩いている里々衣ちゃんを見つけて……」と言うと、栄は「直ぐに行く」と言って、電話を切ってしまった。
「ハルさん!……切れちゃった……」
美夜がリビングへ戻ると、美月と里々衣は大騒ぎでホットケーキミックスの素を混ぜていた。
どうしたらそこまで顔中粉だらけになるのか分からないほど、二人の顔は真っ白になっている。
美夜は吹き出しながら「何でそんなに顔白いの?」と訊いた。
「いや、普通に混ぜてたんだけどね。ぶふぁって粉が舞い上がってさ。ねえ、里々衣」
「うん。ぶわってきた」
里々衣は大喜びで答えた。
「そっか。それで、どう?生地は上手くできたかな?」
美夜は二人に近づき、ボールの中を覗く。
「いかがでしょう、先生」
美月がふざけて言うと、里々衣も笑いながら「せんせ」と言った。
美夜はわざとらしく咳払いをし、「どれどれ」と言ってヘラを持ち上げた。
「うむ。なかなか良い出来ですね。早速、焼いてみましょう」と言うと、キッチンへ向かう。
冷蔵庫から、生クリームを出し、ボールと電動泡立て器を棚から取り出す。
美夜は美月をちらりと見て、アイコンタクトを取ると、美月は小さく頷いた。
「じゃあ、焼けるまでこっちでクリーム作りしようか」と言って、美夜から道具を受け取りキッチンから里々衣を離した。
ここは職場の厨房ではないが、何かあった場合を考えると、火の元に近づけるのは避けるべきだと思ったのだ。
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