第193話 父親の思い(3)
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政近が顔を上げ、栄を真っ直ぐ見つめた。微かに充血した瞳には、薄っすらと涙が浮かんで見えた。
「栄」
「……はい」
「お前は、俺のようになるな……」
「父さん……」
政近は小さく笑うと、すぐに真顔になった。
「私は後悔はしていない。だが、先代の味が好きだったのは、本当だ」
栄は目を瞑り、ゆっくり頷いた。
静まり返った部屋の空気は、重苦しくはなく、嫌な物ではなかった。
初めて、父親を凄い人だ、と思った。
変化は大事なことだ。しかし、それを実行に移す事は、口で言うほど簡単なものではない。とても難しい事だ。心念という一本の棒は、何かあれば徐々に細くなり、いとも簡単に折れてしまう。その太さを維持するには、重圧と戦い続けなければいけない。それを、やり遂げた父は、どんな事であろうと、賞賛に値する物だと思った。父親という人を、やっと理解できた。そんな気がした。
「栄」
「はい」
「光と、ケーキ屋をやるんだろ?」
その言葉に、僅かに驚きながら「はい……」と応える栄を見て、政近は眉間に皺を寄せる。
「資金はどうするんだ?」
「……俺の貯金で半分くらい、後は、会長が貸してくれるというので……」
政近は口角をあげて、小さく声を立て笑った。
「義母さんは、貸すんじゃなく、あげると言い出すだろ。きっと、借用書は書いてくれない。そうしたら、贈与税がかかって、お前達が大変になるだろう。有限会社にして、出資者になって貰いなさい。それなら、義母さんも納得するだろう。義母さんが駄目なら、私が協力をする。まあ、光が納得するか分からないから、その辺は、二人でよく話し合いなさい」
「……はい、ありがとうございます」
「会社組織になるのが嫌なら、個人事業になるが、双方のメリット、デメリットをよく考えて、どうするか決めなさい」
「はい」
「何かあったら、連絡しなさい。いつでも相談に乗る。私たちは、家族なんだから」
初めて政近から、家族らしい言葉を聞いた気がした。栄は、喉の奥が詰まる様な感覚と、鼻の奥が微かに痛む感覚に、戸惑いつつ返事をした。
「それから、これは、保留にしておく。お前達の店が出来るまで、ここで働きなさい」
そう言って、栄が書いた辞表を手に取った。
「……ありがとう、父さん」
本社を出て、栄は空を見上げた。
ビルの隙間から見える空は、どこまでも青く、眩しかった。
ぽっかり空いた心の空洞が、ごく僅かではあるが、何かで少しずつ埋まっていくような気がした。それが何なのか、今は分からないが、いつかその隙間が埋まったとき、自分の中の時計は動き出すだろうか。今はまだ、後ろを振り向いて、百合の面影ばかりを追いかけている自分でも、前を向いて歩ける日が来るだろうか。そんなことを思いながら、一歩ずつ、ゆっくりと歩き始めた。
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