第190話 無理しないで
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栄は受話器を握りながら目を瞑り、光が誘ってきた時の顔を思い出していた。
「ちゃんと、飯食ってるのか?」
そう訊くと、小さく笑い声が聞こえた。
『俺の事より、ハル兄の方が心配だよ……』
「大丈夫だよ。それより、今日、ばあちゃんに会ったよ。元気だった」
『あの話し、した?』
「うん。俺が会社を辞めること、許してくれたよ。父さんにも今日話す。駄目だったら、ばあちゃんが一喝するって」
そう言うと、二人は小さく声を立てて笑った。
「……それよりコウ、本当にいいのか?」
一瞬の沈黙後、光は幾分、大きな声が受話器から聞こえてきた。
『良いも悪いも、俺が、そうしたいと思ったから、そうするんだよ。むしろ、ハル兄の方はいいの?これから俺たちが行こうとしている道は、大変な道だよ。……俺は独りだから良いけど、兄さんは違う。里々衣が居る。せめて、里々衣が高校卒業するまで、会社にいてもいいんだよ?』
光の言葉に、栄は薄っすらと笑った。
「ばあちゃんにも、同じような事を言われたよ。でもな、俺は、百合が俺たちに話して聞かせた店で、里々衣を育てていきたいんだ」
その応えに、光は『そうか……。わかった』と力強く返事をした。
「コウ、お前はまだ帰ってくるな」
栄はワントーンを落とした声で言った。
光は『え?何で……』と、心底驚いたような声を出す。
栄はわざとらしく溜め息をつくと、「分かってないなあ。いいか?コウ」と、からかうような声で言う。
「店が出せるまで、色々準備がいるだろう?準備が整ったら、お前を呼ぶから。それまで、しっかり修行をしてろ。あ、それからな、心配していた【先立つもの】だが、ばあちゃんがパトロンになるって言ってな。有り難いから受けといた」
栄はわざと軽く言った。電話の向こうで、光がどんな顔をしているか、正直なところ分からないが、きっと自分が祖母の前で見せた顔と同じ表情をしているのだろうと、想像した。だが、栄が想像しているものとは、真逆の声が耳に入る。
『ハル兄』
光は囁くような声を出したが、それを無視して話を続けた。
「それから、もう一つ。ばあちゃん、知ってたぞ。お前がカッセルさんの所でお世話になってるの。お前が何も言わなかったことも『私はお喋りだから』だって。全部、ばれてた」
栄は元気な口調で話す。笑いながら、いつも通りに。
『ハル兄』
今度は、はっきりと、栄の声を制するように名を呼ぶ声が耳の奥に響く。栄は黙り、じっと耳に神経を注いだ。
受話器の向こうから、優しい声が栄に語りかける。
『無理しないで……』
栄は何も答えず、項垂れるように頭を下げ、肩を震わせた。
『俺の前では、無理しないで良いよ。大丈夫。俺が、居る。ずっと、一緒にいるよ……』
あまりに優しい光の声は、栄の傷ついた一番柔らかい部分を、そっと包み込む。その暖かさが、全身に染み渡る。栄は、どうしたらこの涙を止めることが出来るのだろうかと、思った。
百合が亡くなって以来、一人になると、毎晩のように泣き続けている。目を瞑ると、百合と過ごした日々が流れだし、眠ることが出来ない。昼間は、以前通りに振る舞い、仕事をこなし、娘の前では、絶対に泣かないと誓った。
しかし、周りに心配かけまいと思えば思うほど、心の傷が深くなり、痛くて堪らなくなる。
光の声を聞き、たがが外れたように涙が流れ出した。
栄は嗚咽を吐きながら、泣いた。
光は受話器を耳に当てたまま、黙ってその泣き声を聞き、自分の頬に流れる涙を、そっと手の甲で拭いた。
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