第186話 百合
いつも読んで頂き、ありがとうございます。
栄は傘も差さず、アパルトマンを飛び出した。
不思議と通りには人ひとり居なかった。車も一、二台通っただけで、大通りにも人がいない。まるで別世界へ迷い込んだような錯覚にさえなる。
胸の中に渦巻く得体の知れない不安が、雨の音と共に、栄の背後から近づいてくる気がした。
栄はニルスの言葉を思い出した。
「ジュリエッタの話しだと、車で横付けされて、乗せられるって。それで、その……」
海外で日本人が狙われるケースは、少ないわけではない。東洋人は金もある、言葉も通じない、笑顔を向ければ分からないでついて行ってしまう。そして、運が悪ければ、襲われる。
女性が一人で居れば、それは格好の獲物だ。
しかし、百合は違う。言葉も通じるし、笑顔を向けられ、声を掛けられても危険なことは分かっているはずだ。そして、この町をよく知っている。
栄は後悔した。
一緒にスーパーへ戻れば良かった、いや、胡椒なんて要らないと言って、行かせなければ良かったんだ、と。
栄は悪い方向へ思考が向き始めていることに、ぞっとした。それを振り払うように、頭を左右に振り、土砂降りの雨の中を走った。
「ハル兄!」
光の声が聞こえた気がした。雨の音で殆どがかき消され、幻聴かと思ったが、再び「ハル兄!」と光の叫ぶ声が聞こえた。
栄は振り向くと、光が走って栄に近づいてくるのが見えた。
光は栄に追いつくと、両膝に手を当て、荒れた息を整える。
「何か連絡とかあったか?」
栄が大声で言うと、光は前屈みになったまま、片手を軽く上げた。そして、身体を起こすと「ニルスの友達が、スーパーで働いてたんだ。閉店間際に、東洋人の女性が来たって」と、息を切らしながら言った。
百合が買い物をしたのは確かだと言うことが分かった。問題は、その帰り道に何かあったのだ、と栄は思った。
「もう一度、スーパーへ行こう」
そう言うと、スーパーのある方向へ走り出した。光もその後に続いた。
スーパーの前に来ると、栄は光に、この道以外にアパルトマンに行ける道はあるかと、訊ねた。光は首を横に振る。栄は頷き、ゆっくりアパルトマンに向かう道を歩き始めた。
本屋の前を通り、雑貨屋の前を通る。公園の前を通ろうして、ふと足を止めた。
栄は公園へ向かって、ゆっくり歩き出した。光は黙って兄の後を追った。
昼間、光と共に座ったベンチを通り過ぎ、そのまま足を進めた。自然と足が向かう方向へ、栄は逆らわずに向かった。
その足が、急に止まった。
「……ハル兄?」
光は栄の横顔を見やる。
栄は目を見開き、微かに口を開け震えている。
光は栄の只ならぬ表情を見て、栄の視線の先を追った。
木の陰に、足らしき物が投げ出されているのが見える。光は目を見開き、一歩ずつ近づくと、栄が光を追い越し、木の陰に走り寄った。
光は足を止め、栄の様子を覗った。
栄は、ゆっくりしゃがみ込み、何かを抱えた。
大きな声で、何度も百合の名を呼ぶ。その声は、怒り、哀しみ、疑い、全ての感情が入り混じった叫び。
光は数歩足を進めたが、すぐに止まった。
視界に映る全てが震えだし、歪む。
「……そんな……うそ、だ……」
頭を抱え、呼吸が荒くなる。震える足は引き摺りながら後ろへと下がり、遂には力尽きたように膝から崩れ落ちた。
百合が着ていたはずの白いブラウスは真っ赤に染まり、鞄の中身がそこら中に散乱している。
雨の粒は、まるで眠るように目を瞑った百合の頬を容赦なく叩きつけていた。
悲痛な叫び声が、雨に紛れ消え去った。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます!
「続きが気になる」という方はブックマークや☆など今後の励みになりますので、応援よろしくお願いします。




