第151話 おかえり
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久しぶりに着るコック服は、少し大きかった。
事件後、二ヶ月ほどまともに食事が出来なかったせいか、食事が出来るようになってからも、前ほど食べれなくなっていた。
美夜はエプロンの紐をぎゅっと締めると、目を静かに閉じて深く呼吸をする。目をゆっくりと開き、口を一文字にする。「よし!」と小さく気合いを入れ、両頬を両手で軽く叩き、挟んだ。
「行こう」
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厨房の入り口に立ち「おはようございます」と緊張した声で挨拶をする。
厨房内は甘い焼き菓子の香りが漂い、懐かしい気持ちにさせる。美夜は、自分の心の奥を温めるその香りを生み出す青年の背中を見つめた。
その青年は、オーブンを閉め、振り向いた。
爽やかな笑顔で「おはよう」と言うと、美夜の前に立ち、じっと美夜を見つめる。
美夜は光を見上げ、恥ずかしそうに「なにか、ついてますか?」と自分の頬を触った。
光は微笑みを湛え首を横に振る。
「おかえり」
その一言に、美夜の緊張が一気に解放される。頬には、徐々に笑みが浮かんだ。
「ただいま」
美夜の言葉に光は頷くと、優しく頭を撫でた。
「さ、早速手伝ってくれ。明後日バレンタインだから、チョコレート系の菓子が売れてるんだ。今日、明日は、ピークだろうから、どんどん作ろう」
「はい」
美夜は手を洗いながら「バレンタインか……」と口の中で呟いた。
十時前になると、裏口から賑やかな声が聞こえてきた。
光と共に美夜が厨房から出ると、栄と雪は美夜の頭を撫でたり、両手を取って振り回すように握手をした。
「あ、美夜ちゃんに紹介するね。こちら、本屋の方を任せてる山内篤志くん。篤志、こちらは以前から厨房で働いてくれてる、中西美夜さん。体調不良でちょっと休んでたけど、今日からまた働いてもらうことになったから」
栄は、後ろに立っていた背の低い青年に美夜を紹介した。
篤志は美夜と同じぐらいの身長で、黒のトレーナーにジーンズを履いている。
先日L i sへ来た時に、本屋のカウンターに立っていたスポーティーな格好をした青年だ。にっこり笑うと、大きな前歯二本が見え、なんとも印象的だった。
「はじめまして」
と言うと、篤志は親しげに握手を求めてきた。
美夜は一瞬戸惑いながらも、手を差し出し握手をする。
「僕のことは、アッシャーって呼んでください」
「アッシャー?」
「はい、アメリカでは、そう呼ばれてたんで」
その言葉に、光の言っていた「アメリカ被れ」の青年という話を思い出す。この青年が、例の、と美夜は気が付いた。
「うちでは誰も、アッシャーなんて呼んでないから、無視して良いわよ」
雪は苦笑しながら言った。
「ひどいなぁ、雪さん!僕は篤志より、アッシャーが気に入ってるんすよ。だから本当なら、皆さんにもアッシャーって呼んで欲しっす」
篤志は、さながら外国人の様に大きく両手を動かし、雪に訴えてる。
「ああ、もう。わかったわよ。思い出したらね!」
「やった!」
そんな二人のやり取りを横目に、栄が美夜に声を掛けてる。
「美夜ちゃんは、今日から厨房のみでお願いします。本屋は篤志に任せるから大丈夫。心おきなく、ケーキ作りに励んでください」
栄は「いいね?」と言うと、美夜の顔を覗き込んだ。
美夜が「はい」と頷くと、満足そうに微笑み、手を一つ叩く。
「はい、では皆さん、バレンタインも近いので、今日、明日は混むと思います。残念ながら、バレンタイン当日、当店はお休みですが、二日間完売目指して、気合いを入れて、バンバン売りましょう。では、本日もよろしくお願いします」
「お願いします」
それぞれが持ち場に散らばると、さっき解けた緊張の糸が、再び絡み始めた。美夜は気合いを入れるように、両手をぎゅっと握る。その姿を見ていた光が「大丈夫」と、美夜の背中を軽く叩いた。
「中西なら、すぐにいつものペースを取り戻すよ。だから、そんな緊張しなくても、大丈夫だ」
光の言葉に、身体の硬さがゆっくりと緩んで行く。美夜が「はい」と返すと、二人は厨房へ入って行った。
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