第132話 時間を取り戻す
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光は驚いた顔で栄を見つめていた。
栄は自分の行動に驚きつつ、光の腕を放した。
光は黙ったまま栄を見つめている。栄はくるりと背を向け、【閉】のボタンを押す。背を向けたまま「何階だ?」と訊いた。光が「七階」と答えると、栄は七階のボタンに手を伸ばした。しかし、その階のボタンを押さなかった。エレベーターは七階を通り過ぎ、下へ下がっていく。
「兄さん?」光は小さく首をかしげ、栄の後ろ姿を見た。
「飲み直さないか?」
栄は背を向けたまま言った。
「時間が許す限り、お前と話しがしたい」
話したい事、訊きたい事が山程ある。なのに、何一つ訊けていない。今を逃すと、きっと光は何も言わない。そう、栄は思った。
エレベーターは静かにゆっくりと降りていく。
沈黙が栄の心臓を握り締めた。光は黙ったままだ。後ろ振り向いて、うんとか寸とか言え、と言いたかった。だが、光がどんな顔をしているのか、どんな風に思っているのか、見るのが怖かった。間もなく一階に着く。すると、光が「いいよ」と言った。
栄の心臓は解放されたと同時に、凄まじい勢いで動き出した。周りの音が聞き取れないくらい、心臓音が耳の中でこだまする。
光にも、この音が聞こえているのではないだろうかと思うぐらい、大きな音で動いていた。
エレベーターが一階に到着すると、二人はホテルを出て飲み屋街へ向かった。
まだ微かに夏の気配が残る九月の夜風が、頬を優しく撫でる。光は相変わらず黙ったまま、栄の一歩後ろを着いて歩いた。
ホテルから暫く歩くと、栄は地下に入り口があるバーに入っていった。
黒く、重たいドアを開けながら、「友達の店なんだ」と光に向かって言った。
店内に入ると、栄はカウンターに居るバーテンダーに挨拶をした。栄が「いつものを二つ」と注文をしている間、光は珍しい物でも見るかのように、目だけを忙しなく動かし、店内を眺めていた。店内にはジャズが流れ、数名の客が静かに酒を飲んでいる。
店の奥の席に着くと、二人は向かい合わせに座った。
栄は改めて弟の顔を見る。
薄暗い店内でも、弟の色の白さは際だった。
「ちゃんと飯、食ってるのか?」
栄は煙草をポケットから出しながら訊く。先ほどのバーでは、隣同士で顔が見えなかった分、気が楽だったが、向かい合わせになった途端、妙に落ち着かなくなり、煙草を取り出した。
光は小さく「ああ」と答えながら、栄の咥えた煙草をそっと取り上げた。
「ごめん。煙草、駄目なんだ」
そう言うと、火の付いていない煙草を栄に返してきた。
栄は「そうか、悪い」と言って箱にしまうと、小さなテーブルに片肘をついた。
「菓子修行の方は、どうだ?」声が擦れる。
光は、長い前髪の間から栄を一瞥すると、運ばれたグラスに手を伸ばし、一口飲んだ。
「……知ってるんだ……。岸本さんから?」
光は静かに訊いた。栄が返事をすると、微かに笑い「おしゃべりだな……」と、独り言のように呟いた。グラスをテーブルの上にゆっくり降ろし、顔を上げ、真っ直ぐ栄の顔を見る。眉目秀麗とは、こいつの為にあるのだろう。と、栄は場違いな事を光の顔を見ながら思う。
「大変だよ。毎日。でも、遣り甲斐のあることだし。それに、勉強と言うより、俺には菓子作りの全てが、儀式のような感じなんだ……」
「儀式?」
栄は首をかしげた。光は小さく頷くと、グラスに目を落とした。
「上手く言えないけど……。菓子を作る行程、その道具を洗うことも、全てが神聖な感じ。職場にいる、その時だけ、余計なことを何も考えることなく、真っ白になる。汚い自分も、醜い自分も、全てを許してもらえるような……。そんな気になるんだ。だから、休みの日とか、落ち着かなくなる。少しでも、触れていたいって思って。気がつくと、職場に行って、何かやってる。だから、儀式みたいだなって思って……」
一年半振りに聞く光の声が、より近く感じる。
朝から言葉を交わしていたはずなのに、ホテルのバーでも散々話していたはずなのに、その会話は無かったことのように、今、目の前に居る光の声は、栄の胸の底に優しく響いた。
懐かしい声、懐かしい話し方、栄の知っている光が、目の前に居る。
そうだ、ずっとこの声を聞きたかったんだ。ずっと、光の笑った顔が見たかったんだ。だから、俺は光を呼び止めたんだ。光はずっと側にいたのに、自分が遠ざけてしまっていただけなんだと、栄は自分の中に溢れ出す思いに、小さく頷く。
「……ハル兄?」
そうだ、この呼び方が、ずっと好きだったんだ。光のこの声で呼ばれる【ハル兄】が。
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