第126話 ハイエスト・レリッシュ
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栄は、今まで弟の話をする事を、極力さけていた。
弟の事を思い出すと、自分の中で静かに眠っている魔物が、蠢き出す。百合も、栄に光の話をするたび、不機嫌になる事が分かって以来、敢えて話題を避けきた。しかし、今、話しをしなければ、きっと話をする機会は一生来ないと、百合は思っていた。
百合は息を吐き出すと、栄に歩み寄り、手摺りに寄りかかるようにして立った。
「光君、しょっちゅう会社に来ては、社長と言い合いしてたのよ」
栄はぴくりと身体を動かした。
「大量生産の【ハイエスト・レリッシュ】なんか、本物の【ハイレリ】じゃないって」
栄は目を見張った。初めて目にするものを見るかのように、まじまじと百合を見つめる。
「でも社長は、何も分からない子供が、口を出すんじゃないの一点張り。でも、光君はそれを何度も説得しに来た。何故だか分かる?」
百合は優しく問いかけた。栄は小さく首を横に振った。
「あなたのため」
「え?」
栄は百合の横顔を見つめた。百合はそれに気がついても、栄に顔を向けることなく、水面を見つめながら微笑んだ。
「光君、ずっと、あなたと同じ気持ちだったのよ。おじいさんが作っていたお菓子が、あなた達は大好きだったのよね?」
栄は黙ったまま、水面に顔を向ける。
「お父様は凄い方よ。会社がここまで大きく成長したのも、お父様の力があってこそだもの。でも、あなたはお父様の考え、経営方針が気に入らない。そうでしょう?」
黙ったままの栄の横顔を、百合は優しい眼差しで見た。
「光君も、同じだった。彼は、あなたの思い、知っていたわ。それで、彼は思ったのよ。『兄さんが社長になったとき、俺が兄さんを支えるんだから。俺は、誰にも文句を言わせないパティシエにならなくちゃいけない。そしていつか、じいちゃんの味を兄さんと共に、多くの人に食べてもらう』って。本物の【ハイエスト・レリッシュ】の味は、これだって!世間に知らせたいんだって」
栄の心臓は、次第に速度を上げた。手足から血の気が引いていく感覚。それは、怒りからなのか、ショックからなのか分からない。ただ、百合の声を聞きながら、光の声が聞こえたような気がした。
「光君ね、大学受験の傍ら、フランス語の勉強してたのよ。一分一秒も無駄に出来ない。早く、技術を自分のものにしなくちゃいけないから、向こうに行って、すぐに働けるようにって。日本で製菓学校行けばって言ったら、俺が学びたい事は、教えてくれないでしょう、って言われた。自分が知りたいのは、おじいさんと同じ味、技術なんだって。じゃあ、うちで働けばいいじゃないって言ったら、あんな親父の下で働くなら、出て行った方が数倍まし、だって。本当、ああ言えばこう言う。ハル君そっくり」
そう言うと、百合は小さく声を立てて笑った。
これは、本当に自分の弟の話だろうか、と、栄は思っていた。自分が知っている弟は、家のことなど自分には関係ないと言わんばかりに、自由奔放に生きていたように見えた。
実際、光は栄に「俺は兄さんと違って、頭わりぃし。それに、俺、会社に興味ないし」と、笑いながら言ったことがあった。何の重荷も背負っていない、気楽な笑い顔。子どもの頃、光の笑顔が大好きだった。だが、その時、初めて光の笑顔を憎く見えた事を、栄は昨日のことのように覚えていた。
「光君、フランスへは遊びに行ったんじゃない。お菓子作りの勉強をしに行っているの。それは、いつか大好きなお兄さんの為に、役に立ちたいから。そして、お母様との約束を、守りたいから」
「約束?」
「あなた達のお母様、社長がやっていること、全てご存じだったわ。でも、彼女には社長を止めることが出来なかった。あなたが社長に逆らえない事も知っていた。彼女は光君に賭けた。いつか、あなた達が二人で、前社長の味を、再び本物の【ハイエスト・レリッシュ】を蘇らせてくれるって。光君、お母様が泣いている姿を見てしまったんですって。それで、お母様に約束するって、言ったそうよ。大学受験は、表向きしておくけれど、大学には行かない、自分はすぐにでも製菓の勉強をしなくてはいけないからって。お母様の具合が悪くなっていることも、十分知っていた。だからこそ、急がなくてはいけないって言っていたわ」
百合は真っ直ぐ栄を見つめた。暫くして、栄が小さな声で「なんで」と言った。
「なに?」百合は栄に寄り添うように立ち、耳を傾けた。
「なんで、そこまで詳しく知ってるんだ」
栄は水面を見つめながら訊く。寄り添う百合の体温が腕に伝わる。感覚の薄れている身体が、少しずつ温まっていく。
「だって、私がフランス語の先生とか留学先、紹介したんだもの」
「え?」
栄は驚いた顔で百合を見た。百合は眉を上げておどけ顔で微笑んで見せた。
「いつ頃だったかな。家出している所を、ナンパしたのよ」
「ナンパって……」
栄は困惑顔で百合を見た。百合は楽しそうに笑った。
「だって、あれはまさしく、ナンパだったもの。『ねえ、そこの色男君、暇ならお姉さんとお茶しない?』って」
「……家出したの、高二の時だよな……確か」
「そうかも。ハル君が会社に入ってすぐの頃だったから」
「そんな前から……」
「……家の柵に足掻いていたのは、ハル君だけじゃなかったのよ。あの子も、必死だった。あなたは知らなかったでしょうけど、次男は次男で、それなりにプレッシャーをかけられていた。優秀な兄の下で、それ以上で無くてはいけないという、プレッシャー。でも、自分まであなたみたいに落ち込んでる訳にはいかないって、思っていたのよ」
「俺は、落ち込んでなんて……」
「そうかしら?【ハイエスト・レリッシュ】の味が変わってしまっているのに、その名を使い続けること、前社長への冒涜だと思っているんでしょう?でも、あなたは何も言えなかった。黙って、お父様の言うことを聞いていくしかなかったんでしょう?自分を殺してまで」
栄は言葉を失った。図星だったからだ。
※ハイエスト・レリッシュ……ハルとコウの実家の店名。
直訳すると「最高級の味」という意味。
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