第110話 涙の理由
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「ただいまあ。美夜?まだ帰ってないのかな」
美月は玄関の電気を付け、部屋の中に入る。リビングの電気を付け、部屋の中を見回した。台所は朝片付けたままの形で、美夜が何か料理をした気配はない。
美月は首を傾げ、美夜の部屋をノックした。ドアを開けると、真っ暗な部屋の中に目を凝らす。朝、散乱していた服の山は、綺麗に片付いていて、ベッドが膨らんでいた。
「美夜、寝てるの?」美月はベッドに向かって声をかける。
「ご飯食べた?」
美夜からは何の返事もない。疲れて熟睡しているのだろうと、美月は思った。静かにドアを閉める、リビングと玄関の電気を消し、自分の部屋に入っていった。
美夜はベッドの中で声を殺して泣いていた。
頭の中で何度も水族館での会話が止むことなく繰り返し、繰り返し流れ続ける。栄の悲しそうな表情、水の底に沈んでいくような深い声。
栄が初めて亡くなった妻の話をした。それはきっと、自分が栄を好きだという事を、栄に気づかれたからなのだと、美夜は悟った。
栄はきっと「俺を好きになっちゃ駄目だよ」と言いたかったのだろうと。
店の謎も一つ解けた。
ずっと気になっていた店の名前。それは、美夜がずっと、そうではないのだろうか、と思っていた事。奥さんの名前だったのだ、と分かった。
百合、と栄は何度か名前を言っていた。店の名前「Lis」は、ギリシャ語で百合の花を指している。里々衣の名前も百合の花の当て字だ。
栄の周りは、愛する人の名で囲まれているのだと、改めて分かった。
思いを告げる前に玉砕した心が、悲鳴を上げるように軋む。どうすることも出来ない、行き場を失った心を、涙で癒すように、止まることなく溢れ出していた。
*******
翌朝、美夜はいつもより一時間早く出社した。
「おはようございます」
いつもと変わらない、大きな声で厨房に入ると、既に来ていた光が驚いた様子で顔を上げた。壁に掛かった時計を見るて、美夜に顔を向ける。
「どうしたの?一時間も早いけど」
光は手を洗っている美夜の背中に向かって声をかけた。
美夜は壁に備え付けられているロールタオルで手を拭くと、光に顔を向けずに、予定表を見に行った。
「コウさんだって早いじゃないですか。通常は六時からでしたよね?」
美夜は表を確認すると、てきぱきと道具を揃え始める。
「俺は、今日、大口の注文が入ってたから……。中西?」
光は美夜の横顔を見て、作業をしていた手を止めた。
美夜は光に顔を向けずに、「そうでしたか」と明るい声で答える。
「中西」
光は真剣な声を出して名前を呼んだ。だが、美夜は光に顔を向けない。顔を下に向けたまま作業をする美夜を、じっと見つめる。
見間違いでなければ、先ほどちらりと見えた美夜の顔は、随分と目が腫れていたように見えた。
ふと、美夜の手元が急に暗くなった。顔を上げると、無表情の光がそこに立っている。
「どうした?」表情を変えることなく光は訊く。
美夜は生唾を飲み込むと、「昨日、夜中に見た映画が泣ける映画で」と笑った。
「大丈夫です、すぐに収まりますから」
光は美夜の作り笑顔に眉を顰めた。そっと手を伸ばし、美夜の目の下に指先を当てる。
目の周りは熱を持っていて、映画を見てちょっと泣いた訳では無さそうだと、すぐに分かった。
「あ、あの、コウさん?」
光は素早く手を下ろすと、くるりと向きを変えてビニール袋を手にし、喫茶のカウンターに行った。氷をビニール袋の中に入れ、新しい布巾を卸すと、氷の入ったビニール袋をそれで巻く。
光は厨房の端に置いてあった丸椅子を二脚持って、美夜の前に戻ってきた。
一脚に腰を下ろすと、美夜を見上げて「座れ」と言った。
「え、でも……」
「いいから。座って目を閉じて」
美夜は大人しく椅子に座った。
光は美夜の瞼に、そっと氷の入ったビニールを当てる。
「少し熱を持ってる。相当な時間泣かないと、そこまで腫れないよ。なにがあった?」
美夜の耳に届いた光の声は、どこまでも静かで、子供を宥めるように優しい声だ。
美夜は口を閉じたまま、何も言おうとはしない。
光は小さく息を吐き出すと、一か八か、鎌を掛けてみることにした。
「昨日、栄がえらく落ち込んだ様子で帰ってきたんだ」
美夜の身体が微かに反応し、光は目を瞑った。小さく息を吸い込むと、目を開いた。
美夜の頬に涙が零れていたのだ。光は自分の言った言葉に後悔をした。
「ごめん……」
小さく謝ると、美夜の手を掴みビニールを自分で持たせる。
「腫れが引くまで、暫くそうしてろ。ここにいるのが嫌だったら、休憩室に行って冷やしてろ」
そう言うと、光は椅子から立ち上がろうとした。が、不意に腕を掴まれた。
美夜は片手でビニールを持ち目を押さえ、もう片手で光の腕を掴んだ。
「少しの間だけ、側にいてもらえませんか……」
美夜は上擦った声を出した。
光が黙って椅子に座ると、美夜は光の腕を放し、両手でビニールを持った。
肩を小さく震わせ、声を殺して泣いている美夜を、光は痛々しく見つめた。そっと腕を伸ばしたが、美夜に触れる前にその手を引っ込めた。
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