第108話 大切な想い出
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栄は、真っ直ぐ前を向き、どこか遠くを見ているようだった。
「もう、五年になる。……里々衣があと一ヶ月ちょっとで一歳になるって時に、事件に巻き込まれてね」
静かに、水の底に沈んでいくような、深く悲しげに響く声。
「今でも、彼女の声が聞こえる気がしたりするんだ。あれは冗談でしたって、笑いながら現れるんじゃないかって……。そんな事、ある訳ないんだけど」
栄は弱々しく微笑んだ。が、すぐにその微笑みは消えた。
「彼女がね、言ったんだ。ここでこうして目を瞑っていると、魚達の呼吸が聞こえて来るって。そんなの、聞こえるはずもない。ただ、電気の音が微かに聞こえるだけなのに……。でも、その時、俺にも聞こえた気がしたんだ。命の音が」
美夜はじっと栄の横顔を見つめていた。
栄は口を閉ざし、目を閉じた。美夜は、静かに顔を正面に向けると、ゆっくりと目を瞑り、耳を澄ました。
水がはねる音が聞こえた気がした。命の音。目を瞑っていると、自分の心音が静かに聞こえてきた。
「どんなに思い出に縋っても、百合が戻ってくる訳がない。そんなこと、分かっているんだ。それでも、後ろばかり見て歩いて、百合の俤を、心のどこかで探してる。諦めの悪い、自分が居るんだ……」
美夜はそっと目を開いた。
「心から、愛していらしたんですね……」
栄はそっと目を開くと、美夜に僅かに顔を向けた。
美夜の横顔は、穏やかな微笑みを湛えている。
「それで良いと思います……。諦めが悪くたって、仕方ないと思います。大事な人を、何の前触れもなく亡くされたのですから。自分が納得いくまで、ちゃんと、その事と向き合えるようになるまで、時間をかけて……」
栄は美夜から目を逸らすと、自分の両手を見つめた。
「ハルさん」
栄は美夜に再び顔を向けた。美夜は栄を見て、柔らかい笑みを浮かべたまま言った。
「私、いつかハルさんが、前を向いて歩けるように、お祈りします。大丈夫。ハルさんには、コウさんや里々衣ちゃんが一緒にいます。いつかきっと、前を向いて歩ける日が来ます」
「美夜ちゃん……」
美夜はにっこり微笑むと、前を向き、水槽を見つめた。
「私は、ハルさんのような辛い経験は一度もないけど、でも、私も後ろばっかり見て歩いていたこと、ありました。気が付いたら、美月が私を明るい方へ引き上げてくれた。今でも時々後ろを振り向きます。でも、それで良いんだと思います。前ばかり見て歩いてると、眩しすぎて、目が眩んで、自分がちゃんと真っ直ぐに歩けているのか分からなくなるから。時々、振り向いて、大丈夫、ちゃんと歩けてるって、確認しなきゃ」
栄はそっと微笑むと「そうだね」と囁いた。
「ありがとう……」
美夜は栄を見て、小さく微笑んだ。
二人は、暫くそのまま椅子に座り、黙ったまま目の前の水槽を見つめていた。
水族館を出ると、外は綺麗な夕焼け空だった。
「日が延びたね」
栄は空を見上げ、独り言のように呟く。
「そうですね」
美夜は空を見上げながら答えた。
「帰ろうか」
「はい」
水族館を出た後から、美夜の顔つきが変わって見えた。何かが吹っ切れたように、爽やかな笑顔を栄に向ける。栄は弱々しく微笑み返すと、二人は駅に向かって歩き出した。
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