閑話.大公家の新たな動乱
自分に姉がいたらしい。
手元の書類を確認するアルフレドの耳に届くのは、慌ただしい足音だ。大理石の床を靴底で刻むリズムに耳を傾け、書類を投げ出したところで目を閉じる。
「ふむ」
呟きと、二枚扉が開くのは同時だ。
繊細な木彫りの扉が壁と激突し、大きな音を響かせた瞬間、アルフレドの背後にいる近侍が深い鼻息を立てる。
その音に気付かないのは侵入者本人で、走ったせいで呼吸が持たないのか、膝に両手をおいて息を整える。
全身汗まみれになりながら上げた顔は必死だ。
「大変だアルフレド!」
「ああはいはいそうやって大袈裟に騒ぐのはいい加減やめたらどうだい。ここは君の仕事場である歌劇場じゃないんだから作法というものを」
早口で捲し立てるアルフレドに、青年はくわっと大口を開ける。
「呑気にしてる場合かアホ! オーギュスト様が……」
「ベルベット姉上のこと?」
アルフレドの言葉に、青年は口が開きっぱなしになった。
青年から見るアルフレドは母親似の端正な顔を持つのだが、その長い髪と相まって、後ろ姿を見るだけならば女性と勘違いされる。実際に向き合えば細身ながらも、全身に無駄なくついた筋肉や声で性別に気付けるが、つまるところ美しい人ということだ。
アルフレドの肘掛けに頰杖をつく姿は、ヘディア公国の宝ともてはやされてならない。
飛び込んできた幼馴染みに対し、アルフレドは軽やかな笑い声を上げた。
「昨日、父上が帰ってくるなり話をされたよ」
「は!? い、いや待ってくれ。オーギュスト様はすぐに教会や挨拶回りに行ってたし、お前は外周りに行ってたろ。そんな時間なかったはず……」
「私たちは親子だよ? 夜中に会うくらい別にいいじゃないか」
歌うような軽やかな調子はご機嫌だ。
青年はアルフレドと幼少期からの付き合いがあるだけに、感情を読みにくい彼でも、喜怒哀楽程度なら読み取れるつもりだ。ヘディア公国現大公がちっとも怒っていないのを知り混乱した。
「なに笑ってるんだ馬鹿! オーギュスト様が余所で作った子供を認知して、財産を分け与えてるって言ってるんだぞ!?」
「知ってるよ?」
「オーギュスト様に何を吹き込まれたんだ! お前、本当かどうかもわからない血縁に、勝手に国の金を奪われるんだぞ!」
「本当かどうかはガブリエルを初めとした者達が証言してくれた。ひと目見てわかるくらい、若い頃の父上にそっくりらしいよ」
「そりゃあ出奔した姉の子供となれば、ガブリエル様は家の名誉を取り戻せるからな!」
激昂する友人に、アルフレドは愉快そうに目を細める。
「つまり君はガブリエル様が父上を騙して、腹違いの姉というものを作りだし、金をむしり取ろうとしている。私が騙されていると言いたい?」
ここで青年はしくじりを悟った。
アルフレドは何気ない淡々とした口調だが彼の目はまったく笑っていないし、置物のように佇む近衛達は、呆れたような眼差しを隠そうともしていない。
幼馴染みである己を差し置き、まるで大公の心を理解しているかのような近衛に青年が腹を立てたときだ。
「君は確かに私と子供の頃からの付き合いだけどね」
ペンの尻を机に叩く音は小さいのに、やたら部屋に響く。
青年は無意識に背筋を伸ばし、アルフレドは口だけ笑顔の形を作る。
「君や君の家が傾倒する大公妃は国庫の金が減ることを憂いているのかな。それとも私の地位が脅かされるとでも思ってる?」
「い、いや、待てよアルフレド」
「ああ、もしかして母上がコルネイユ家のミシェル様にライバル心をもっていたことか? 現実は大公妃になれたし、私が大公を継いだのだから堂々としていればいいものを」
さあっと顔を青ざめる青年に向かって、アルフレドは初めて親しげに笑う。
「ベルベット姉上に分与される財産は、すべて法に則った手続きを経るものだ。ほとんどはコルネイユ家、うちからは父上の手持ちの土地なんかを処分するものになるし、後ろめたいものはひとつもない」
「だ、だがそれはいずれお前が継ぐべきもので!」
「ううん、大分見苦しいな?」
アルフレドが小首を傾げると近衛が機敏に動き、青年の両脇を固める。
「アルフレド!」
「大体君、許可した覚えもないのに、幼馴染みというだけで大公を呼び捨てにするのは如何なものか」
「そんな、俺達は……」
「それに人の家の事情に口を挟むのもいただけない」
合図を送ると同時に、青年は連行される。
部屋が静かになったところで、近衛の一人が主に問うた。
「よろしいのですか」
「友人だから目を瞑っていたが、調子に乗りすぎだったからね」
「大公妃殿下がお怒りになりますが」
「手遅れだよ。自分よりも先に子供が生まれていたと知って、すでに腸が煮えくり返っているに違いない。だったらいま彼を離したところで問題はない」
「火に油を注ぐだけかと存じますが」
はぁ、とため息を吐く近衛は、しかし主人を咎めるような真似はしない。
窓の外を眺め、思いを馳せるように遠い目をした。
「……そろそろ世間が騒がしくなりますね」
「勝手に言わせておきたまえ」
「よろしいのですか」
「父上は意思を曲げられない。大体彼女にはヘディア公国に来る意思がないそうだから、だったらサンラニアと親交を深めるための架け橋になってくれる方に期待するさ」
アルフレドの机に広がっているのは、昨日存在が発覚した、彼の腹違いの姉に関する報告書だ。それにはコルネイユ家のガブリエルが作成したものとは他に、父オーギュストのサンラニア行きに随員させた己の手の者が、帰国までの間に船で記したものである。
アルフレドはそれを父の帰国直後に受け取っていた。
無論、驚いた。
父オーギュストとコルネイユ家のミシェルの逸話は聞いていたし、家に泥を塗られたガブリエルが罪滅ぼしのように大公家に仕えていた。彼に対し母が冷たく当たっていたから、なおさら印象深いし、昔の話といえど調べ上げている。
アルフレドは書類を器用につまはじく。
「大体、いるかもわからない娘捜しを黙って見送ったのは私だよ。嫉妬深い母上が疑るのも宥めてあげて、こっそり協力してあげたんだ」
「オーギュスト様は……」
「昨日打ち明けられた。いたく感謝してくれたし、ベルベット姉上は権威に興味がなさそうだとも聞いた」
親の贔屓目である可能性はないだろうか。
近衛はそう疑ったが、主人が姉の話をするとき、いたくご機嫌なのに気付く。
「嬉しいのですか」
「なにが?」
「姉君の存在です」
オーギュストが『姉』の話題を口にするときは、こみ上げる喜びを抑えるように平然と振る舞おうとしている。
ただ、ここは信頼できる者しかいないとあって、アルフレドは隠す必要がなかった。
「父上は正直に話してくれたし、事情を話してくれた。真っ先に謝ってくれたのもあるから、印象が悪くないというのもあるね」
年相応の笑顔は滅多に見られないものだった。
「弟妹が欲しくて父上にお願いしようと思ってたときもあるんだが、大公の座を狙われたくなくてね。こんなところで子供の頃の夢が叶うとは思わなかった」
忠実な部下は、主人の意を正確に汲み取っている。
「なるほど。いくらコルネイユ家の令嬢の間に生まれた子でも、サンラニア出身とあれば……」
「庶子を私のライバルに担ぎ上げるのは難しい。だがミシェル様の娘だから、手出しもし難い」
「何故でしょう。姉君の話をしているはずなのに、政の話をしている感じです」
「それはいけない。疲れているのだろうから、いまから休みを取りたまえ」
優しい言葉を、近衛は即座に断る。
「遠慮申し上げます。殿下に勝手にどこかへ行かれては困りますから」
「真面目だな。そんな調子で、休暇はちゃんと取れている?」
「ご心配なく。一日五食しっかり食べ、よく寝て、娘と遊び、妻とデートし、家族サービスに勤しんでおります」
彼を幼い頃から見てきた近衛は知っている。
彼の主人は素晴らしい為政者だ。国を愛し、民を慈しみ、政へ真摯に向き合う。政敵を制するのも余念がないし、オーギュストの婚姻当初は国の将来を危ぶまれていたほどの相手との間に子を設けたものの、いまは立派な青年に成長した。
オーギュストが大公の座を譲ったときも、わずか二十歳であったが、周囲の心配を余所に務めを果たしている。若すぎる世継ぎを心配した世間も、いまでは大公を譲ったオーギュストへ称賛の言葉を贈っているほどだ。
彼は素晴らしい為政者である……と、確信できる近衛であったが、近くで主君を見ているからこそ、知っている。
ヘディア公国大公アルフレドは分厚い真面目の服を着た愉快犯だ。
素知らぬふりを決め込む主へ、固く言った。
「駄目ですよ」
「何のことだい」
「ただでさえこれから荒れるのです。まだ跡を継いで間もないのに、姉上に会いに行っては混乱を招くのですから……」
ズバリと言われた言葉に、大公アルフレドはそっぽを向いて頬杖を付く。
この調子では……近衛は静かにため息を吐き、今後しばらくは主人から目を離さないと決意を固めた。
1巻のボイスブックが配信されました。
ナレーターは山本亜衣さん。
爽やかな声で様々なキャラを演じ朗読してくれています。
各種媒体で配信、Amazon Audibleは定額で無料配信です。
どうぞよろしくお願いいたします。
(今回、オーディオブックが配信されたので用意しました)




