登校
普段はまったく近寄ることのない高等部の来客用正面玄関は、大きさも広さも生徒用のものと大きく異なり、警備員が立つことによって、その重厚感と共に物々しい空気を結名に感じさせた。他の校門は全て学園章による認証により出入りが制限され、登校時は警備員が常駐し、それ以外に不審者が入った場合には常時巡回している警備員が走るシステムになっている。
車寄せに、自家用車が停車した。
「……ひとりで大丈夫?」
後部座席をミラーで確認しながら、母が問う。
結名は今朝から繰り返される問答に、苦笑した。
「大丈夫だってば。じゃあ、いってきます」
これ以上のやり取りをしていても、埒が明かない。
「いってらっしゃい」を背に、結名は車から降りた。
ドアを閉めると、母は手を振って車を動かし、今入ったばかりの正門を出ていく。すれ違うように一台、自家用車が入ってきた。基本、特別な事情がない限り車通学は許可されない。数は少ないはずだが、登校時間のために目につくようだ。
邪魔にならないように、結名は正面玄関に向かう。おはようございますとあいさつすると、警備員もまたあいさつを返し、更に彼女を呼び止めた。
「一年二組、藤峰結名さんですね?」
結名が頷くと、警備員はヘッドセットのついた耳のほうへと手を置く。小声で「本日A案件、到着しました」と聞こえた。無線でのやり取りのため、個人情報漏洩を気にして暗号化しているのだろう、と察する。この学園はその点が本当に厳しい。
正面玄関の自動扉が開かれる。中から警備員がもう一人現れた。
「A案件、引き継ぎます。藤峰さん、こちらへどうぞ」
自分の学校であるにも関わらず、案内されるのも気恥ずかしい。
だが、それだけ大きな事件となっていることが、結名にもわかった。警備員の警護を要することだと学校側は認識しているのである。報道こそされなかったものの、結名に対しては暴行、警備員に対しては傷害事件だ。
第三応接室、という札のついた部屋の扉が開かれ、中へと促される。既に使用中のライトは点灯していた。警備員は扉の前に立つようで、結名だけが入る。明かりは灯されていたが、誰もいない。
立派な革張りの応接セットの、入り口に近い大きなソファへと腰かける。足元に鞄を置いた途端、扉が叩かれた。結名が立ち上がって返事をすると、担任が姿を現す。菊池先生である。一分の隙も無いスーツ姿を見て、結名の気も引き締まった。
「おはよう、藤峰」
「おはようございます」
穏やかな笑みを浮かべる担任とは、未だに個人面談を済ませていないので「朝終礼が早い先生」とか「わかりやすい数学の先生」程度の認識でしかない。オリエンテーションの合宿ではクラス対抗のゲームもあり、その時にはハートフルさを発揮していて、楽しいクラスに入れてよかったなと思っていた――あの頃は、土屋も普通に混ざっていたのだ。
苦い思いが胸を去来する。
結名の表情が陰ったことに気付いたのか、担任は座るように促す。自身も向かい側の一人掛けに腰かけ、話し始めた。
「朝礼まであまり時間がないから、手短に」
時間としては八時前。
いつもの結名の登校時間に比べるとだいぶ早い時間となる。
しかし、八時十五分から職員朝礼が始まるため、打ち合わせを希望する担任の時間に合わせて登校したのだ。
担任はまず、結名の容態を確認した。結名自身は問題ないと答え、くれぐれも無理をしないようにと念押しされる。異常があれば、すぐに保健室へ行くようにとも言われた。これには素直に頷く。
そして、あの日の……事件があった翌日、高等部で緊急に行なわれた全体朝礼で学園長が語ったことや、担任がホームルームで話したことを述べた。いずれも、土屋が起こした問題とその対処についてである。いかなる理由でも暴力は認めないという話の締めくくりに、あの光景が浮かぶ。結名は唇を引き結んだ。
「……大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
問われ、慌てて首を振る。
硬い返答を、担任は信じなかった。
「明日の授業が終われば、ゴールデンウィークになる。長い休み明けのほうが気持ちが落ち着かないか? あと少しだから、休んでもよかったのに」
「いえ」
結名は短く否定した。
あんなことで、これ以上煩わされたくない。
担任は彼女の頑なな様子に、短く溜息をついた。
「藤峰は真面目なところがいいんだが、そこが心配だな。
――まあ、ここから先はナイトに任せるとしよう」
ぽん、と膝を打ち、担任は席を立つ。
結名が首を傾げる様子に笑みを浮かべ、応接室の扉を開け、「ナイト」を呼んだ。
「小川、入れ」
「……大丈夫なんですか?」
不信感を多大に表していながら、丁寧な口調とその声に、結名は違和感を覚えた。
知っているひとだ。土屋から助けてもらった、相手である。なのにどうして。
胸にある、違う誰かと重なった気がした。
大きく目を瞠る結名の前に、彼は姿を見せた。
心配を隠しきれず、結名を見るその眼差しに、覚えがある。
何故と結名が自問する間に、彼は笑みを浮かべた。
会えてうれしい、と語るような。
とても綺麗な笑みで、重なりそうだった影が掻き消えた。
――美形、心臓によくない!
頬を紅潮したのを感じた結名は硬い声のまま、あいさつした。
「お、おはよう、小川くん」
「おはよう、藤峰さん。もう登校して大丈夫?」
穏やかな声に、一つ頷く。
「同じことはもう聞いた。大丈夫らしいが、頼むぞ。
藤峰、小川なら事情もわかっているし、安心だろう?
選択授業が殆ど同じだから、できるだけ一緒に行動すればいい。本人の了承は得てる」
担任はもう時間がないようで、学年総代の肩を叩き、とんでもないことを言い置いて先に応接室を出ていく。
なんですって?
頭が担任の発言についての理解を拒否する。
勝手な言い草に呆れたように、拓海は溜息をついた。
「今日はおれ、日直だったから……早めに来たんだけどね。まあ、タイミングよかったかな。そういうわけだから、よろしくね」
いたずらっぽく笑う。
話の内容はともかく、まだ、助けてもらったお礼も言っていないと、結名は思い出した。
「あ、この前はありがとう! 本当に、小川くん来てくれて助かった……」
あの時、彼が来なければどうなっていたことか、もう想像はしたくない。
結名の心からの感謝に、拓海は笑みを消した。そして、首を振る。
「――ううん、全然、間に合ってなくてゴメン」
苦い謝罪が、逸らされた視線の先から届く。
彼が謝る理由がまるでわからない、と結名が困惑した時。
弾かれたように、拓海は彼女を見た。
「あ、えっと、でも、無事でよかった……もう怪我も大丈夫なんだよね?」
意識が左腕に向く。
念のためと今日も湿布を貼られているが、制服のジャケットでわからない。
結名は大きく頷いた。
「うん、大丈夫。痛みもないし」
「無理しないようにね」
「ふふ、先生とホント、言うこといっしょだね」
今日はこのやり取りを、少なくともあと一回しなければならないだろう。詩織が心配するのと、怒り狂う姿とが見えるようだ。
結名が笑うと、拓海も笑顔を返した。
そこで、チャイムが鳴り響く。職員朝礼開始の合図であると共に、結名たちにとっては予鈴となる。
教室へ行こうと促され、結名も応接室を出る。使用中のランプが室内の消灯と共に消えた。既に警備員の姿はない。担任が来た時に引き継ぎも完了したのだろう。
来客用正面玄関は、結名たちの高校校舎とは別棟になっている。屋根のある渡り廊下を進むと、登校のざわめきが聞こえてきた。
ふたりでいるところを見られる前に、と、結名は拓海に断りを入れようと口を開いた。
「あの、先生が言ってたことだけど」
「ああ、うん、アレね。まあ、それはナイショにしとこうよ。ぴったりくっつかれるのが嫌ならしないけど、ずっと見てるようにはするから、藤峰さんは気にしなくていいよ」
早口で拓海は切り返す。
ぴったりくっつかれる、のくだりで結名は気恥ずかしさに視線を泳がせた。ちょうど、渡り廊下と高校校舎の接続部あたりを、男子生徒が何人か、ふざけながら走っていく。
だから、結名には続いたことばが聞き取れなかった。
「――もう、絶対、何も起こさせたりしないから」




