つきまとう、影
その視線が、ユーナの右側に動いた。
シャンレンが見たのは、おそらくステータスバーだ。それに気づいて、ユーナはお茶を口にした。薬草茶のためか、口に含むだけで微妙に疲労度が回復している。
彼は表情を消した。誤魔化しきれなかった。
「先日、シリウスさんから別荘で遭遇したPTの情報を求められました」
手早く用件を済ませるべく、シャンレンから口火を切る。ユーナは身を震わせた。脳裏には、もう遠くなりつつあるグランド――土屋のことが思い浮かぶ。結名の奥のユーナを見出すまなざし。掴まれた腕、引きずられた体、打たれた手……次々と明滅する事件の場面に、息を呑む。しかし、あれは現実のできごとだ。シャンレンには関係ない。
ユーナは一度目を閉じて、それからシャンレンに向き直った。しかし、彼女は何を言えばいいのか思いつくことができず、視線を揺らす。失敗した、と思った。
「――現れたんですね」
容易く、その意味をシャンレンは理解した。
そして、頭を下げる。濃い栗色の髪がテーブルについた。
「すみませんでした。あんなことになったのに、警戒が足りませんでした。少なくとも、あのタイミングでユーナさんを一人にすべきじゃなかった……!」
苦い、苦い思いがにじみ出るようなことばだった。
あわててユーナは首を横に振る。
「シャンレンさんが謝ること、ないですよ! あの、えっと、もうアカウントは凍結されて、プレイヤーはもう永久追放ってことになっちゃったので、もう幻界で会うことはないと思います。グランドっていう人だけですけど……」
弾かれたように、シャンレンが頭を上げた。
若葉色の緑が、ユーナを見る。そのまなざしが、どこか土屋に似ているように思った。ユーナの中の、何かを見定めるような……。
「グランド、ですか?」
その声が、震えていた。
自分で発したはずなのに、シャンレン自身が驚いて口元を押さえる。シャンレンが「グランド」に対して動揺する様子に、ユーナも困惑する。シャンレンのレベルはアシュアたちに近い。一対一であれば、同じ商人戦士であるグランドには負けない、と思う。だが、その対決はあり得ない。グランドはもう幻界に姿を見せることはないからだ。なのに、シャンレンがこれほどの衝撃を受ける理由が思いつかない。
シャンレンはすぅっと息を吸い込んだ。短く息をつき、呼吸を整える。
そして、手がテーブルの上に戻され、口元は笑みを象った。
「……ユーナさんが無事で、本当によかった」
万感の思いがこめられたことばだった。
若葉色の瞳が安堵に満ちて、ユーナを映す。ようやく、ユーナはことばを発した。
「心配かけて、すみませんでした」
「いえいえ、とんでもない。まだ残りのメンバーは幻界にいるでしょうから、油断しないで下さいね。――今は従魔がいますから、安心ですが」
付け加えられた台詞に反応して、森狼が鼻を鳴らす。
シャンレンは自分を取り戻したようで、いつもの調子で営業スマイルを浮かべた。道具袋から、次々とアイテムを取り出し始める。ユーナの希望した生活雑貨類だ。洗い粉が二種類、リネン類、櫛まである。そこで一瞬手が止まったが、すぐさま思いついたように、最後に女性用のサンダルまで出てきた。シャンレンは立ち上がり、ユーナの足元にそれを置く。
「こちらはアルカロット製なんですが、デザインだけでなく、性能もいいんですよ。如何ですか?」
ちょっと靴を脱いで合わせてみたが、なめし革のカリガの靴底はフラットで、ユーナの足にぴったりだった。この時期なら普通に履けそうだ。歩きやすそうだし、軽い。中央に白い石がはめられていて、今の服装にも合う気がした。
「かわいー……」
「決まりですね。では、他の商品もお勧めさせていただきます」
さりげに購入を決めさせられている。
シャンレンは、にこやかに次々と滑らかにテーブルの上のものを説明していった。
髪を洗うための洗い粉と、体を洗うための洗い粉が別になっていてうれしかった。他にも、タオルはバスタオルサイズのものと、フェイスタオルのものがあり、アルタクスの分と合わせて購入することに決める。櫛は上と下に歯があって、間の部分に物語風な意匠が彫られている品だった。
この世界の生活必需品は旅行者にとって娯楽用品のため、戦利品で出たとしても露店ではあまり売れないそうだ。確かに、まず、食糧や装備を整えるべきである。ただ、攻略組にはこのような品も人気があるので良い品を集めているという。タオルもテイマーズギルドで使ったものくらいふわふわで、とても心地よかった。納得である。
「そうですねー……全部あわせて、小銀貨七枚で如何でしょう?」
合計すると、そこそこ高額になっていた。武器のほうが遥かに安い。しかし、どの商品も質がよく、特にカリガは敏捷性に対して僅かだがプラス補正がかかる品である。この値段も割引価格になっているとユーナは悟っていた。
「それって――シャンレンさん、赤字になっていませんか?」
疑いの目を向けるユーナに、営業スマイルで彼は答えた。
「赤字ではありませんよ。ちゃんと値切って買っていますから、大丈夫です」
仕事中のシャンレンの営業スマイルは全く読めない。しかし、ユーナには信じるより他なかった。彼女が心配するよりも、きっと交易商は儲かる商売ができるのだろう。遠慮なく購入を決める。
「それなら……いただきます」
「お買い上げ、ありがとうございます」
更に笑みが深まる。
お支払いを済ませるべく、ユーナは道具袋に手を入れる。忘れないうちにと、小銀貨を手渡してすぐ、フィニア・フィニスから預かった宝珠を取り出した。
「ユーナ、それ……っ!」
ホールの奥から、声と同時に軽い足音が近づいてくる。
振り向くと、もう間近に彼女がいた。アニマリートだ。結い上げた緋色の髪の一房が頬に落ち、そのまなざしはユーナが手にしている宝珠に注がれていた。何の前触れもなく、ぼたぼたと、テーブルに染みが広がる。
「――何でっ……どうして……ぇぇぇぇぇっ!!!!?」
宝珠には触れられないのか、手を伸ばしながらも彼女はその場で慟哭する。
やはり、とユーナは目を伏せた。
これは、従魔の印章の成れの果てなのだ。




