6 広瀬勝吾 7月24日(木) 自己紹介
おはなし会が終わったあと、机と椅子を戻しながら、ポニーテールの先輩の名前が分からないかと耳を澄ましていた。
その甲斐あって、「サトリ」と呼ばれていることが分かった。
苗字だろうか? 名前だろうか?
(サトリ先輩。)
けれど、それが分かったからと言って、俺がいきなり呼びかけられるはずはない。
椅子を並べる作業を一緒にしている今だって、言葉を交わす口実はまったくないのだから。
でも。
そのチャンスはすぐにやって来た。
「ねえ、ちょっといい?」
作業が終わって、心残りなまま3人で昼飯を食べるため廊下に出たとき、後ろから呼び止められた。
透き通るような優しい声に振り向くと、サトリ先輩だった。
両手を後ろに回して、にこにこしながら立っている。
(な、なんで?! もしかして、この先輩も俺に?)
舞い上がった気持ちが顔に出ないように緊張しながら向かい合う。
背は少しだけ俺の方が高くて、プライド的にほっとした。
(名前とか訊かれちゃったりするのかな? それともメアド交換とか?)
すぐ後ろに伊田と根本が立っている。
その二人に、心の中で「悪いな。」と謝った。
「ねえ、今の雪見さんのおはなし、面白かった?」
(え? なんだ、そんなことか……。)
期待した分、落胆が大きい……。
「ああ、はい。」
俺が答えたすぐあとに、伊田が肩に手を掛けて前に出てきた。
「俺、あの話知ってるんです!」
嬉しそうに勢い込んだ話し方。
女子の先輩に話しかけられて嬉しいのがよく分かる。
「あ、どうりで。なんだか楽しそうに二人で話してると思った。」
言いながら、サトリ先輩が微笑む。
(うわ〜。先輩の笑顔、いいな〜……。)
「はい! 小学校のとき、聞いたから。な?」
伊田が俺に話を振る。
話の主導権を伊田に握られるのは癪だけど、ここで先輩と話せるならいいか。
「はい。」
とは言え、口下手なのが困る。
いつも、思ったことの半分も言葉にできない。
「小学校のとき? 二人とも?」
(首を傾げる仕種も綺麗です、先輩……。)
「はい! 朝自習の時間にお母さんたちが絵本を読みに来てくれてて。」
俺が見惚れているあいだに、伊田がどんどんしゃべる。
(まあいいや。おしゃべりな伊田がいれば、話が長くなるから。)
「お母さんたちって……?」
「ああ、親がボランティアでやってるんです。あ、コイツん家のおばさんもおはなし会ですよ。な?」
うちの母親が “おはなし会” という表現は変だけど、言いたいことは通じるだろう。
「あ……、はい。」
「わあ、そうなの?!」
嬉しそうな顔を向けられて、心臓が小さく爆発したような気がした。
「は、はい。」
顔が赤くなっていないだろうか?
そんなの恥ずかしすぎる!
「ねえ、お母さん、難しいって言ってる?」
今度は可愛い。
どんな振る舞いをしても綺麗か可愛いかのどちらかだなんて、どうなってるんだろう、この先輩は?
「い、いいえ。あの、練習をちゃんとすれば、その、大丈夫だって。」
印象良く答えたいのに、逆につかえてしまう。
(頑張れ、俺!)
「あ、本当?」
「はい。…それに、あの、楽しいって。」
「楽しい?」
「はい、あの……、子どもたちが本に集中してくるのが分かると…その、達成感みたいな……。」
ああ、どうしてこんなにしゃべるのが下手なんだろう?
緊張してるにしても、ひど過ぎる!
「わあ、そうなんだ!」
こんな話し方でもどうにか通じたらしい。
先輩が嬉しそうに胸の前で両手を合わせてにっこりした。
「わたしたちもね、今年の文化祭でやろうって言ってるの。でもね、雪見さんのを見たら、ちょっと心配になっちゃって。」
「文化祭で……?」
「いや、先輩なら絶対大丈夫っすよ! 俺たち、絶対に見に行きますから!」
調子のいい伊田が口をはさむと、先輩は上品に笑った。
「そう? よろしくね。わたしたち、ボランティア部なの。」
ボランティア部……。
記憶にあるような、ないような……。
「じゃあ、木場も……?」
後ろから根本の声がした。
忘れていたので、ちょっと驚いた。
「あ、そうだよ。もしかして、知り合い?」
「はい……。クラスが同じで…。」
「ああ、そうなの。」
俺と根本に優しい微笑みを向けて、サトリ先輩が続けて言った。
「じゃあ、児玉先生のクラスだよね? うちの顧問なんだよ。」
「あ、そうなん…ですか……。」
児玉先生はショートカットで背の小さい女の先生だ。教科は家庭科。
くりくりした目で、いつも元気がいい。
親しみやすくて、生徒からは「たまちゃん」というニックネームで呼ばれている。
小さいのに、球技大会ではバレーボールで活躍していたのでびっくりした。
「サトリ。」
図書室から三つ編みの先輩が出て来て呼んだ。
振り向いた先輩に、三つ編みの先輩が尋ねる。
「お弁当の時間にしていいんだよね?」
「あ、うん。午後は1時から開始。」
そう言ってから、俺たちにも。
「ごめんね、呼び止めちゃって。帰るところだったんでしょう?」
「あ、いえ、部活で……。」
「サトリ先輩。」
(え?)
伊田が図々しくも俺よりも先に先輩の名前を呼んだ! なんてヤツ!
先輩は一瞬驚いた顔をしてから、「やだな、違うよ。」と笑った。
(違う?)
「わたし、佐藤。苗字の “佐藤” と下の “梨奈” の “り” を取って “サトリ” なの。うふふ。」
(あ、そうなのか。佐藤先輩。「佐藤リナ」先輩……。)
思いがけずフルネームがわかった。
ついでに漢字でどう書くのか聞きたいけど、さすがに無理かな。
「あ、すんません。佐藤先輩、ですね。ああ、ええと、おはなし会のことで何かあったら、コイツに訊いてください。」
伊田が俺の肩を叩きながら言った。
「先輩でも、さっきのあの…三つ編みの先輩でも、大歓迎ですから!」
(お前が歓迎してどうすんだよ?)
と思ったけど、今後の接点を強引に作ってくれた伊田には感謝したい。
それに、伊田の期待のこもった顔を見たら、何が狙いなのか分かった。
「三つ編みの……、ああ、菜穂ちゃん? 副部長の植田菜穂ちゃんだよ。」
佐藤先輩は気付いたのだろうか。
とりあえずフルネームを教えてくれたってことは……?
「俺、伊田典宏です! で、コイツは ――― 」
「ひ、広瀬です。広瀬勝吾。」
名前くらいは自分で言いたい!
ちゃんと先輩に覚えてもらえるように。
「 “広島” の “広” に “瀬戸内海” の “瀬” 、 “勝利” の “勝” に “吾” は漢数字の “五” に “口” です。」
「ええと、ひろせしょうごくん、ね。」
(呼んでもらえた〜!!)
思わずにやけそうになるのを堪える。
「ええと、根本…です。」
普段からおとなしい根本は、やっぱり控え目だ。
その根本の自己紹介を聞いて、佐藤先輩は優しく言った。
「根本くんと広瀬くんは、児玉先生のクラスね。で…… 」
「俺はその隣。」
「はい、分かりました。」
うなずいた先輩の首の後ろで、ポニーテールのくるりと丸まった毛先が跳ねた。
それを見たらなんだか楽しくなって、これからいいことが起こるような気がした。
ガラリと図書室の戸が開いて、女子がぞろぞろと出て来る。
それに気付いた先輩が、「じゃあね。ありがとう。」と手を振った。
俺たちも頭を下げて、自分たちの教室が開いているか見に行くことにした。
「来てよかった〜。」
俺たちだけになってから、伊田が満足そうにつぶやいた。
「『ナオちゃん』だって。聞いた?」
「ああ、うん、聞こえたよ。」
やっぱり伊田のお目当てはあの先輩なのだ。
被らなくてよかった。
「あんまり目立つ雰囲気じゃなかったみたいだけど…。」
根本がぼそりとつぶやく。
俺も、それはちょっと思ったところだ。
「そうか〜? でも、すっげぇスタイルがいいの、気付かなかった?」
幸せそうな伊田……。
「ベストの上からでも分かったぜ、ウエストなんかキュッって細くてさあ。脚長いしー。」
俺とは目の付けどころが違う……。
「実はさあ、図書室に行ったばっかりのとき、目が合ったんだよ。そのとき先輩がびっくりして目を逸らしたんだけど、その感じがさあ、すっげぇ可愛くて〜。」
(おお。伊田にもそんな出会いが……。)
「そういえば、広瀬が言ってた『美人の先輩』って誰だよ?」
いきなり自分に矛先が移って焦る。
「え? あ、いや、あれは……伊田を呼び出すための出まかせって言うか……。」
「佐藤先輩。さっきの。」
(根本?!)
驚いて根本を見ると、真面目な顔で「見惚れてた。」と指摘された。
「なんだ〜。広瀬、俺に感謝しろよ! で、根本は何もなかったのか? 誘ったらホイホイ付いてきたくせに。」
「……フッ。」
根本は何も言わず、不敵な微笑みを返してきた。
「なんだよ〜。お前も言えよ〜。」
伊田がしつこく尋ねても、もともと無口な根本は何も言わなかった。
でも、この様子だと、何かあったに違いない。
俺と伊田と根本、3人ともそんなことが起きるなんて……すごいな、図書室。




