第14話 二人の悩み
(……しかし、どうしたものかな)
昼休みの職場の休憩室。手には淹れたばかりのコーヒー。
その黒い液面を見ながら、昨晩のことについて考える。
――風呂場での失敗。その後のカナタとの話。
涙目のあの子。そして真っ赤に染まった頬。そして……。
(……ボクは男だから、か)
そして、あの言葉。男だから見られても大丈夫だ、とあの子は言っていた。
別に問題ないと。普通だと。だって男同士だと。
だから気にしないでくれと言われて……でも、そう言いながらすごく恥ずかしそうで。
(……申し訳ないことをした)
悪いことをしてしまった。酷く恥ずかしがらせた。
本当に申し訳ないし、対策を練らなければならない。
僕はそう思っていて――。
(…………しかし、一つ気になる)
……そして、そう思う傍らで。
一つ、違和感を覚えることがあった。それはあの子が昨日から繰り返している言葉だ。
――男だから、大丈夫。
僕は、その言葉がどうにも気になっている。
(……昨日の件、やはりあの子の様子がおかしかったように思う。なんというか、言葉と態度の差が大きすぎたというか)
大丈夫と繰り返す言葉と、恥ずかしそうな顔。
男は裸見られても気にしませんと何度も言い、目は涙で潤んでいた。
……今朝話していたときもだ。
食事の際、改めて大丈夫と言われた。男だから、と。
何度も何度も。必死に見えるほどに。
それに最初は、やっぱり見られたのは嫌だったのに僕を庇っているのか、とも思ったけれど――。
(……自分に言い聞かせているような)
――話していて、少しズレている気がした。
その言葉が向いている先が僕ではないような。
己自身がそう信じたいから、己にそう言っているような。
……そしてそこに、あの子の悩みや苦しみが透けて出てきていたような。そんな気がして。
「……」
これはあくまでも僕の受けた印象でしかない。
しかし、そもそもの話、やはりあの子の身の上は難しい。
異邦人に加えて、性別まで変わっている。
性別の変化というものが及ぼす影響がどれくらいのものか、正直、僕には想像するくらいしかできないけれど。
……きっと、とてつもない苦労と、葛藤があるのだろう。そう思う。
その一端に、僕は昨晩少し触れた気がした。
「……僕は」
だから、僕はどうしたら彼女の力になれるか。
昨日失敗した身ではあるけれど、それをずっと悩んでいる。
大人として、あの子の力になると決めたから。
あの子に出来ることはないかと――。
「――どうした、透。今日は元気ないじゃないか」
「……お前か」
横から声をかけられて、顔をそちらへ向ける。
そこには例の下世話な同僚がいる。
「さては彼女と喧嘩したな?」
「……そうじゃない」
彼女って。あの子は彼女じゃないと前回も言っているだろうに。
喧嘩でもないし――ただ、少し失敗したのはそうだった。
「最近楽しそうにしてたのに。すっかり眉間に皴が戻っちまって」
「……眉間に皴?」
「気付いてなかったのか? 今もあるぞ」
指で差されて、自分で触ってみる。
……確かに皴があった。
「その顔で女の子に会ったら怖がられるぞ?」
「……そうか。気を付ける」
「おぉ、気をつけろ。じゃあ、頑張れよ」
手をひらひらとさせながら去っていく同僚を見送りながら、指で眉間を軽く揉む。
あの子の前では注意しないと、と思いつつ。
「……」
……しかし、最近楽しそうだった、か。
同僚の言葉が、少し記憶に残った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「…………うぅ……穴があったら入りたい」
頭を抱えながら、カナタは呟く。
何のことかと言うと、もちろん昨晩のことで、カナタはそれをずっと引きずっていた。
夜眠って、朝起きて、塾に行って、塾から帰ってきて。
夕飯の準備をして、透を待っている今も。すごく悩んでいる。
「……恥ずかしいし……僕が全面的に悪いのにあの人に頭を下げさせちゃうし……」
どうして自分は、あのとき廊下に出る前に外を確認しなかったのか。
裸で出るのは仕方ないにしても、小さく扉を開けて確認すればよかった。それだけで問題は起きなかったはずなのに。
深夜だからと安心して、確認を怠って。
その結果があれだ。適当なことをして失敗して。何も悪くないあの人に謝らせて。
……本当に申し訳なくて、情けない。
だから、カナタは透にどう謝ればいいか悩んでいる。
それこそ、今日は朝から晩まで悩んでいて――。
「…………………………」
――いや、それだけじゃないか。
カナタはそう思う。
もう一つ、カナタには悩んでいる理由がある。
それは、感情のコントロールが出来ていないことだ。
昨晩以降、ずっと恥ずかしくてたまらない自分への疑問。
「……ボクは」
――ボクは、どっちなんだろう?
そんな、己自身への疑問がある。
男と女。その二つが目の前で揺れている。
体はもう男じゃない。それは事実として認めている。
しかし、カナタは内面は別だと思っていた。
……それなのに、ただ裸を見られただけでこんなに恥ずかしがっている自分がいる。男だったのに、女性的な羞恥心に振り回されて、いつまでも悩んでいる。
だからカナタは昨晩からずっと自分自身に違和感があって、すごく困っていて。
「……透さんとも、ちょっと気まずくなってるし」
その結果として、今朝は普通に話が出来なかった。
話しかけても、話しかけられても会話が続かない。透は困ったような顔をしているし、カナタは慌てて変なことを言いそうになるし。
「……」
……昨日までなら、もっと何気ない会話があったのに。
あまり意味はないかもしれないけれど、偶に笑顔もあるような。そんな時間が。
一緒にご飯を作ったり、洗い物をしたり。
お皿を拭きながら隣に話しかけて、透が返事をしてくれて、カナタは背の高い透を見上げて笑うような。
穏やかで、でも退屈じゃなくて。
夜、布団の中で思い出して今日もいい日だったなって思えるような。
……そんな時間が、カナタは一番好きだったのに。
「……透さんと普通に会話できないのが、一番嫌だ」
どうしても嫌だった。なんとかしたかった。
でも、己自身に対する答えは、何もわからないままだ。
自己認識と現実の差に挟まれて、無いはずの感情に振り回されて、カナタは訳が分からなくなっている。
「……もう女だって認めたら、少しは楽になるのかな」
体に合わせて、生きていく。
きっとそちらの方が楽だ。
だって、カナタの体はもう治らない。
だから精神的にも体に合わせた方が面倒はないはずだ。
……でも、カナタは十八年男として生きてきたのに。
「……」
わからない。どうすればいいのか。
自分のことが理解できなくて――。
「――ただいま」
「……あ」
そんなとき、透が帰ってくる。
カナタは立ち上がって、玄関へと向かう。
「……」
今度こそ、朝みたいに気まずい空気にしないように頑張らないと。
カナタはそう思い……。
「……お、おかえり、なさい。透さん」
「ああ、ただいま」
「……は、はい」
……でもやっぱり透の顔を見ていると顔が熱くなって。
カナタはどうしても俯いてしまう。
透から目を逸らして、服の裾を握って。
そんな自分にカナタはまた混乱して――。
「――カナタ。少し話が出来ないかな」
「……え?」
――そんなとき、透はカナタにそう言った。




