第11話 異邦人の距離
――その日カナタが塾から帰ってきたとき、家には誰もいなかった。
透はまだ家に帰ってきていなくて、カナタは一人、ただいまと呟いて扉を潜る。
外はもう日が落ちて、家の中は真っ暗だった。
カナタは一つ一つ電灯をつけながら家の中に入っていく。
「……」
四月の上旬。まだ少し肌寒い頃。
体はまだ慣れない長距離のバス通学で疲れていて、授業で酷使した頭は重かった。
学ばなければならないことは積みあがっていて、前途は多難だった。
まだ塾に入って数日。その数日で理解した己の能力不足。
これからどのくらい頑張ればいいのか分からないくらい、何も分かっていない。
本当に一年で学びきれるのかと途方に暮れそうになっていて――。
「――――よし、じゃあ家事をしようかな!」
――それでも。それなのに、カナタは元気だった。
ささっと荷物を置いて、着替えて。干してある洗濯物のほうへと向かっていく。手早く取り込んで、畳んでいって。それが終わったら次は――と。
「――うん」
自棄になったわけではない。諦めたわけでも。
不安で、疲れていて。それでも、カナタは前を向けている。
――今のカナタには、傍にいてくれるだけで頑張ろうと思えるようになる人がいるから。
(……施設の人も、良くしてくれてたけど)
カナタは思う。つい数日前に出てきた施設。
そこは、ほとんどの職員がカナタ達に親切にしてくれていた。
悩んでいたら話を聞き、困っていたら手助けしてくれた。
この世界のことを教えてくれたし、間違っても笑わなかった。
責任感を持って接してくれた。向き合ってくれた。
とても親切な人たちだった。カナタは心から感謝している。
(……けれど)
けれど、彼らは特別な誰かでは、なかった。
あの人たちにとって、カナタは多数の中の一人だった。
隣にはいなくて、常に一歩引いていた。
もちろん、それが悪いことだとは思わない。だって、彼らはそれが仕事だ。
仕事として異邦人と関わり、サポートをする。
……でも、仕事だからこそ。
(やっぱり、あっさりしてたよね)
最後の日。カナタは彼らと、また機会があれば、と別れた。惜しむ様子もなく、あっさりと。
あの人たちはカナタがいなくなっても悲しまない。
……彼らは、そういう立場の人たちだ。
怪我をしたら、風邪をひいたら、病院に連れて行ってくれる。
しかし、慰めてはくれないし、寄り添ってはくれない。
カナタは彼らにわがままを言ってはいけない訳ではない。迷惑をかけてはいけない訳ではない。
しかし、言わない方がいいし、かけない方がいい。
当然、それは普通のことだ。情を職員に求める方がどうかしている。
だって家族じゃない。恋人でもない。仕事だ。
カナタはわかっている。
わかっていないはずがない。
「……」
……それなのに、カナタは少しだけ、寂しかった。
寄りかかっていいものが、なにもなくて。
(――でも。それでも、あの人は)
そんなカナタに、一人だけ手を差し伸べてくれた人がいた。
異邦人で、何も持っていないカナタを許してくれる人がいた。頑張ったねと言ってくれた。
最初のとき、過ちを許してくれた。
何の利益もないのに、優しくしてくれた。
仕事でもないのに、手紙を返してくれた。
……おめでとう、と言ってくれた。
ケーキとから揚げを用意してくれた。
そして、なにより――。
『――君は、僕に迷惑をかけても良い』
透の言葉。そう言って、一緒に暮らそうと手を伸ばしてくれた。
それがどれほどに優しくて、どれほど得難い言葉か。カナタはよく知っている。
「………………ぇへへ」
あのとき、カナタはみっともなく泣いて、縋り付いて、寄りかかった。でも透はそんなカナタの背中をさすってくれた。
……本当に、どうしようもないくらいに嬉しかったんだ。
今でも名前を呼ばれるだけで、感極まってしまうことがあるくらいに。
ちょっと泣きそうになって、誤魔化すために照れているフリをするくらいに。
「……よし、がんばろう!」
だから、疲れなんて別に大したことじゃない。
心はいつだって元気だった。
カナタは頑張ろうと思うし、前を向ける。
頑張らないとではなく、頑張ろうと、そう思えたから。
◆
「………………でも、どうしようかな」
――しかし、まあ、そうは言っても。
そんな元気なカナタにも悩みがないという訳ではない。
元気さと悩みは相反しているようで違う。
余裕があるから、むしろ出てくる悩みもある。
なにかというと、透との距離感の話だった。
「……適切な距離がわからない」
元気だから、欲が出てくる。もっと良くしたいと思う。
カナタは透の傍にいたいと思うし、触れ合いたいと思う。
だって近くにいると許されてる気がするし――なにより、安心する。
……でも。
「朝とか、ちょっと近すぎた気が……」
なんとなく近寄って、気づいたらもう目と鼻の先だった。
カナタも流石に間違っていた気がして。
「……ボクって元々どんな風に人と話してたっけ?」
なんだか分からなくなってくる。数か月前。落ちてくる前はどうしていた?
家族や友人との付き合い方は?
一人ぼっちになって、もう数か月。
それはモノを忘れるのには十分すぎる時間で。
過去の自分は仲がいい人と、どんな距離感でいた?
カナタはそれが分からなくなって――。
「……………………」
……いや、違うか。
そうじゃない。カナタはそんなことで分からなくなったわけじゃない。それは、自分すら誤魔化せない嘘だ。
カナタが、透との距離が分からなくなったのは、過去を忘れたからじゃない。
「……ボクは、男? それとも女?」
自分が、男なのか女なのか。
それが分かっていないから、距離も分からなくなる。
だって、同性としての距離と異性としての距離は当然違うのだから。
「……」
立ち上がって、洗面所まで歩く。そこには鏡がある。
そして、カナタは自分の姿を見た。
――可愛らしい、少女の姿。
変わったからこそ、素直にそう思う。客観的に見ることができる。
かつてよりずっと小さな体。細い腕。丸みを帯びたシルエット。
肩まで伸びた髪。青い瞳。白い肌。
パーカーにパンツ姿。意識して中性的な恰好をしている。
自分が女だ、と言えるほどは割り切れていない。かといって、男だと言い切れるほど現実が見えていないわけでもない。そんな恰好。
カナタは体に合わせて女性としての行動を身に着けたし、白い目で見られないように、時と場合に応じた対応をできるようになった。
……でもそれは、施設で習ったことをそのままできるようになっただけで、常に演技をしているようなものだった。だからそれを一皮むけば。
「――ボクは、なに?」
これまで、あえて目をそらしていたこと。
カナタにとって、己は男でも女でもなく、異邦人だった。
「……」
……そして現在、今更ながら自分を見つめなおして。
「………………ん」
今のカナタには、答えは出せなかった。
カナタは、まだ自分がわからない。
――ボクは、男なんだろうか、それとも女?




