04.第四話
一般的に「社員旅行」という言葉には、二つの意味がある。一つは、日頃の業務の慰労を目的とした、温泉や宴会を楽しむ平和なイベント。もう一つは、業務時間外にも拘束され、上司の機嫌を取り続けなければならない地獄の延長戦。
だが、我が「株式会社クライシス・クリーンサービス」における社員旅行は、そのどちらでもなかった。強いて言うなら、「遭難」あるいは「デスマーチ」が正しい。
「さっむ……! 死ぬ……血液がシャーベットになる……!」
標高二千メートル。北アルプスの奥地、地図にも載っていない未踏の雪山。マイナス二十度のブリザードが吹き荒れる中、俺――佐藤健太は、安物のスキーウェア(レンタル品)に身を包み、膝まで埋まる雪道を歩いていた。
いや、もはや歩いているとは言えない。風に流されまいと、四つん這いで雪にしがみついているだけだ。
「おい新人! 足が止まってんぞ! 凍死してぇのか!」
後方から、罵声と共に雪玉が飛んできた。桃だ。彼女は俺の倍以上の荷物を背負い、さらに愛用の業務用ポリッシャーまで担いでいるのに、平地を歩くような速度で進んでいる。
彼女が着ているのは、ピンク色の可愛らしいダウンジャケットと、耳当て付きのニット帽。まるで原宿へ買い物に行くような軽装だが、なぜか寒がる様子は微塵もない。
「無理だよ! なんだよこの天気! 『慰安旅行』って言ったじゃないか! これ『遺影旅行』の間違いだろ!」
「ダジャレ言ってる余裕あんなら足を動かせ! 頂上の宿まであと三時間はあるんだぞ!」
「三時間!? 俺の命、あと三十分も保たない自信があるよ!」
俺の泣き言は、轟音のような風にかき消される。視界は真っ白。ホワイトアウト寸前だ。なぜこんなことになったのか。話は三日前に遡る。
――今度の連休、社員旅行に行くわよ。
御堂アリス会長の、その一言で全てが決まった。行き先は、会長が所有する山荘があるという雪山。名目は「日頃の激務(主に物理的破壊活動)の疲れを癒やすため」。
温泉、蟹、雪景色。その甘い響きに、俺は一瞬だけ心を許してしまったのだ。借金まみれの生活の中で、ついに訪れた休息だと。だが、現実はこれだ。
「はっはっは! 佐藤君、弱音を吐くにはまだ早いぞ! 筋肉は寒冷地でこそ研ぎ澄まされるのだ!」
先頭を歩く巨人が、豪快に笑った。神宮寺剛社長。彼は今、この極寒の雪山において、人類の常識に対する挑戦を行っていた。すなわち、「ブーメランパンツ一丁」である。
「しゃ、社長……服……着てください……見てるだけで凍傷になりそうです……」
「何を言うか! これぞ『冷却療法』の究極系! 極限の寒さが血管を収縮させ、その後のパンプアップを極上のものにするのだ!」
全身に塗られたボディオイルが、雪山の日差しを反射してギラギラと輝いている。オイルのおかげで体感温度がマシなのか、それとも彼の神経が死滅しているのかは定かではないが、雪女が見たら裸足で逃げ出すビジュアルだ。
「合理的ですね。代謝を高めることで体温を維持しているのでしょう」
社長の後ろを、涼しい顔で歩くのは氷室先輩だ。彼女は完璧な雪山装備に身を包み、手には最新鋭のGPSとタブレットを持っている。
「氷室先輩……助けて……俺、もう一歩も動けません……」
「頑張ってください、新人君。ここでの脱落は『退職(物理的な死)』を意味します。経理上、葬儀代は経費で落ちませんので」
「世知辛い! あと、なんで会長だけヘリなんですか!」
そう。この行軍の最大の理不尽。それは、発案者である御堂アリス会長の姿がここにはないことだ。
彼女は登山口に集合した際、迎えに来た黒塗りの高級ヘリコプターに一人だけ乗り込み、優雅に手を振って去っていったのだ。
『おもちゃたちは下々の者らしく、地べたを這ってらっしゃい』その言葉を残して。
「クソがぁぁぁ! あのクソアマ、絶対許さねぇ! 頂上に着いたら絶対に一発ぶん殴る!」
桃が雪を蹴散らしながら吠える。彼女は会長に対して、並々ならぬ敵対心を抱いている。というか、殺意だ。
「あーもう! 遅ぇんだよお前ら! こんなペースじゃ日が暮れちまうだろうが!」
「そう言われても……これ以上は……」
「社長もだ! なんでポージングしながら歩いてんだ! 空気抵抗考えろ!」
「ふっ、雪山に対する敬意だよ」
「敬意の方向性が間違ってんだよ!」
桃のイライラが限界に達しつつあった。彼女は元々、気が短い。さらに、この寒さと疲労、そして会長への憎悪が、彼女の中の何かを着火させようとしていた。
「もういい! 付き合ってらんねぇ!」
突然、桃が立ち止まり、登山道を外れて雪原の方へ向きを変えた。
「おい桃、そっちは道じゃないぞ!」
「知るか! こっちの方が頂上に近いんだよ!」
彼女が指差したのは、ほぼ垂直に切り立った断崖絶壁だった。どう見てもロッククライミング、いや、自殺志願者が選ぶルートだ。
「はぁ!? バカかお前! あんな壁、登れるわけないだろ!」
「黙って見てろ! お前らみたいなノロマと歩いてられるか! 私は先に行って、あのクソアマを温泉に沈めてやるんだよ!」
止める間もなかった。桃は助走をつけると、人間離れした跳躍力で崖に飛びついた。
そして、信じられないことに、素手で岩肌を掴み、ポリッシャーを背負ったまま、猿のような――いや、重力を無視した獣のような動きで、垂直の壁を登り始めたのだ。
「うそ……だろ……」
俺は呆然と見上げた。吹雪の中に消えていくピンク色の背中。彼女は確かに「掃除屋」のエースだが、身体能力が生物としての枠を逸脱している。
「行ってしまいましたね」
「うむ。若さとは素晴らしい爆発力だ。だが、私の大殿筋も負けてはいないぞ! さあ佐藤君、我々は正規ルートでマッスル・ハイクだ!」
「俺も崖から落ちて楽になりたい……」
それから二時間後。俺たちは、命からがら頂上の山荘にたどり着いた。山荘といっても、ログハウスのような可愛らしいものではない。
断崖にへばりつくように建てられた、要塞のような石造りの館だ。さすが会長の別荘。魔王城の趣がある。
「ぜぇ……はぁ……つ、着いた……」
玄関ホールに倒れ込む俺。暖炉の火が暖かい。生きていることを実感する。
「あら、遅かったわね。カメの行進かと思ったわ」
奥のラウンジから、優雅な声が聞こえてきた。最高級の革張りソファに座り、湯気の立つ紅茶を啜っている少女。黒いゴシックロリータドレスに身を包んだ、この会社の支配者、御堂アリスだ。
「会長……ヘリはずるいですよ……」
「何言ってるの。支配者が汗水垂らして歩くわけないでしょ。資本主義の基本よ」
彼女は悪びれる様子もなく、クッキーを齧った。その時だ。
ラウンジの窓ガラスが派手に砕け散り、吹雪と共に「何か」が飛び込んできた。
ピンク色の塊。桃だ。彼女は崖を登りきり、窓を突き破ってエントリーしてきたのだ。
「見つけたぞクソアマァァァ!!」
桃は着地と同時にポリッシャーを構え、獣のような咆哮を上げた。全身から湯気を発し、目は血走っている。
「私にあんな雪道を歩かせやがって! お前のせいで、澪お姉様の手が冷たくなっちまっただろうが!」
「あら、窓から入るなんて育ちが知れるわね。ドアに鍵はかけていないのに」
「うるせぇ! てめぇをぶっ殺して、私が新会長になる! 死ねぇぇぇ!!」
桃が床を蹴る。速い。疲労など微塵も感じさせない神速の踏み込み。
鉄塊であるポリッシャーが、殺意の塊となって御堂の頭蓋骨へ振り下ろされる。俺は思わず目を覆った。殺人現場だ。労災どころの騒ぎじゃない。
だが。
「……五月蝿いわね」
会長は、紅茶のカップを置くことすらしなかった。ただ、退屈そうにため息をつき、迫りくる桃の額に、軽く「デコピン」をしただけだった。
途端、大砲を撃ったような重低音が響いた。デコピン? いや、あれは質量兵器の着弾音だ。次の瞬間、桃の体は物理法則を無視した速度で真後ろに吹き飛んだ。
「がはっ!?」
彼女はラウンジを一直線に飛び、俺たちの頭上を通過し、反対側の窓ガラスを突き破って、外へ飛び出して行った。その先は、さっき俺たちが登ってきた断崖絶壁だ。
「あ」
俺は間の抜けた声を上げた。ヒュゥゥゥ……という風切り音が遠ざかっていく。
「……落ちた」
「落ちましたね」
「うむ。素晴らしい放物線だ」
全員が静まり返る。会長は「埃が立ったわ」と不快そうにドレスの裾を払った。指一本。たった指一本で、重機を持った人間を数百メートル吹き飛ばしたのだ。
「会長!? 殺した! 今、完全に殺しましたよね!?」
「死んでないわよ。あの程度で死ぬなら、とっくの昔にミンチにしてるわ」
「いやいやいや! ここ標高二千メートル! 外は崖! 普通に死にますって!」
俺がパニックになって窓へ駆け寄ろうとした時だった。ズズズ……ッ。窓の外、断崖の縁から、手が伸びてきた。手袋が破れ、血が滲んだ指先が、岩を握り潰すほどの力で縁に食い込んでいる。
「……ぜってぇ……殺す……」
地獄の底から響くような、怨念に満ちた声。桃が這い上がってきた。だが、その姿は先ほどまでとは違っていた。
「うおっ!?」
俺は腰を抜かした。桃がかぶっていたニット帽は吹き飛び、乱れた髪の間から、異様なものが突き出していたのだ。
二本の、鋭く尖った「角」。作り物ではない。骨の一部として、頭蓋骨から直接生えている、白く硬質な角だ。
「……おい、桃。頭、なんか生えてるぞ……?」
「あ? ……チッ、帽子が取れちまったか」
桃は悪びれる様子もなく、邪魔そうに前髪をかき上げた。その瞳は、人間のものではない。爬虫類のように縦に割れた瞳孔が、金色に輝いている。
肌の一部には青黒い紋様が浮き出ており、口からは鋭い牙が覗いていた。鬼だ。日本の昔話に出てくる、あの「鬼」そのものだ。
「な、ななな……」
俺は言葉を失い、後ずさる。彼女が人間離れした怪力を持っていることは知っていた。性格が凶暴なのも知っていた。だが、まさか生物学的に人間じゃなかったとは。
「見られちまったなら仕方ねぇ……おい新人、ビビってんじゃねぇぞ。食いやしねぇよ」
「え、いや……」
桃が睨む。俺は硬直する。しかし、不思議なことに、俺の中に湧き上がったのは「恐怖」ではなかった。
驚きはもちろんある。腰も抜けた。だが、それ以上に――「あ、やっぱり?」という、奇妙な納得感が勝ってしまったのだ。
考えてもみろ。ここに来るまで、俺はパンツ一丁で雪山を登る筋肉ダルマ(社長)を見てきた。
壺を割った俺に容赦無く5000万請求してくる少女(会長)を見てきた。この会社に入ってから、常識などとっくに粉砕されている。
それに比べれば、「同僚が鬼でした」という事実は、案外受け入れやすい部類に入るのではないか? いや、感覚が麻痺しているだけかもしれないが。
「……角、寒くないのか?」
「は? そこかよ」
俺の的外れな質問に、桃が毒気を抜かれたような顔をする。
「寒くねぇよ。角は感覚ねぇからな……ていうか、悲鳴上げて逃げねぇのかよ。普通は腰抜かすだろ」
「いや、腰は抜かしてるけど……社長を見てたら、鬼くらい普通かなって」
「あの筋肉と一緒にすんじゃねぇ!」
桃が怒鳴る。その横で、社長が「むっ、私への賛辞かな?」とポーズを取った。
「さて、茶番は終わりよ」
会長が手を叩く。彼女は桃の正体が露見しても、眉一つ動かしていなかった。当然知っていたのだろう。
「ペットの角も見れたことだし、そろそろメインイベントに行きましょうか……お風呂、沸いているわよ」
山荘の裏手には、巨大な露天風呂があった。雪景色を一望できる絶景のロケーション。岩で組まれた湯船からは、もうもうと湯気が立ち上っている。まさに極楽。これまでの苦労が報われる瞬間だ。
「おお! 広い! これは泳げますね!」
「待て佐藤君。飛び込む前に、よく見るのだ」
全裸(ポージング用オイル済み)になった社長が、俺を制止する。俺は脱衣所で服を脱ぎかけのまま、湯船を覗き込んだ。
「……ん?」
お湯が、赤い。いや、入浴剤の色ではない。ドロドロとした粘性のある液体が、ボコッ、ボコッ、と泡を立てている。そして何より、熱気が異常だ。近づいただけで眉毛が焦げそうなほどの熱波。
「これ……お湯じゃないですよね?」
「この山は活火山だからね。地下のマグマ溜まりを直接引いているのよ」
ゴシックドレス姿のままの会長が、日傘を差して涼しい顔で現れた。
「マ、マグマ!? 死ぬでしょ! 溶けますよ!」
「大丈夫よ。呪術的なフィルターを通して、人間が入れる温度(推定五十度)まで下げてあるから」
「五十度は人間が入れる温度じゃありません!!」
「チッ、うるせぇな。ぬるま湯だろうが」
桃(バスタオル姿・角出しっぱなし)が、躊躇なくマグマ風呂に飛び込んだ。
「あー……生き返るわぁ……」
彼女は肩まで浸かり、極楽そうな顔をしている。鬼の皮膚はどうなっているんだ。
「うむ! 筋肉の鎧があれば、熱など恐るるに足らず!」
社長も飛び込む。ジュワァァァ……という肉が焼けるような音がしたが、彼は「効くぅぅぅ!」と喜んでいる。変態だ。この会社、人間がいない。
「おもちゃ、入りなさい。命令よ」
「無理です! パワハラです! 殺人です!」
「入らないなら、そこから突き落とすわよ」
会長の目が本気だ。自分は入らず、安全圏から俺たちが悶え苦しむ様を見物する気だ。この悪魔め。
その時。これまで沈黙を守っていた氷室先輩が、湯船の縁に立った。彼女の手には、古びた壺が握られている。
「氷室先輩? それは?」
「お土産です」
「はい?」
「ここまで来る道中、さまよっていた雪山の悪霊たちを回収してきました。百体ほど」
「……え、なんで?」
「お風呂に入浴剤を入れると、風情が出ると思いまして」
彼女は無表情のまま、壺の蓋を開け、中身をマグマ風呂にぶちまけた。
無数の白いモヤが、悲鳴を上げながらマグマに溶け込んでいく。地獄の釜茹でだ。まさに地獄絵図だ。だが、問題はそこではなかった。
悪霊(陰の気)と、マグマ(極大の陽の気)、そして社長と桃のエネルギーが混ざり合い、化学反応を起こしたのだ。
地面が揺れる。湯船の中央が盛り上がり、赤黒い光が空へと立ち昇る。
「む? バブルジェット機能かな?」
「違う! 噴火だ! 刺激しすぎて噴火するぞ!」
俺の叫びと同時に、爆発音が響いた。マグマが噴水のように吹き上がり、山荘の屋根を吹き飛ばす。さらに、その衝撃で裏山の積雪が崩落した。
「雪崩だぁぁぁぁ!!」
白波のような雪崩が、露天風呂に向かって押し寄せてくる。前門のマグマ、後門の雪崩。完全に詰んだ。
「きゃははは! 面白いことになってきやがった!」
「マッスル・ディフェンス!」
「逃げますよ、新人君」
氷室先輩が、脱衣所にあった畳をひっぺがした。
「これに乗ってください」
「えっ、これで雪山を滑るんですか!?」
「他に方法がありません」
俺と氷室先輩が畳に飛び乗る。桃と社長は「ぬるい!」と言って、生身で雪崩に立ち向かっていった(たぶん死なない)。
そしてドレス姿の会長はあくびをしながら呑気に乗った。この人、この状態でどんだけメンタル太いんだ。
「ひぃぃぃぃ! 助けてぇぇぇ!」
俺たちを乗せた畳は、雪崩の波に乗り、時速百キロ近いスピードで山肌を滑走していく。後ろでは山荘がマグマに飲まれて消滅し、雪崩が全てを白く塗りつぶしていく。
「あははは! 最高! いいアトラクションじゃない!」
隣で会長が狂ったように笑っている。俺は必死に畳の縁にしがみつきながら、涙を流して空を見上げた。
慰安旅行。それは、心と体を癒やす旅。嘘だ。絶対に嘘だ。
俺の絶叫は、雪山にこだまして消えていった。
翌日。麓の温泉街で保護された俺たちは、ニュースになっていた。『謎の噴火と雪崩、奇跡の生還』として。桃と社長も、雪の中から無傷で這い出してきた(社長は「天然のアイシングだ」と喜んでいた)。
そして、氷室先輩と会長もまた、何故か完全な無傷だった。畳で滑り落ち、雪崩に揉まれたはずなのに、ヘアスタイルすら乱れておらず、服に汚れ一つついていない。
まるで災害の方が彼女たちを恐れて避けて通ったかのようだ。理不尽だ。俺だけがボロボロなのが、本当に理不尽だ。
俺は病院のベッドの上で、点滴を受けながら天井を見つめる。横のベッドでは、桃が角を隠すための新しい帽子を通販で選んでいる。
「……なぁ、桃」
「あ?」
「お前、鬼だったんだな」
「だからなんだよ。文句あっか」
「いや……別に。人間より丈夫そうで良かったよ」
俺の言葉に、桃は少しだけ驚いた顔をして、それから鼻で笑った。
「変なやつ……ま、次は地獄の釜茹ででも付き合ってやるよ」
「遠慮します」
俺は布団を頭までかぶった。この会社で働き続ける限り、地獄へのツアーはキャンセル不可なのだろう。
俺の感覚が、確実に狂い始めていることを自覚しながら、俺は泥のように眠りについた。




