最終話 夢轍
ハンスは両手を上げ、疲労と泥にまみれたまま立ち尽くした。
その瞬間、背負ってきた全ての緊張が、肩から抜け落ちた。
アルデルトと別れたあの時から、ハンスはただ西へと進んでいた。
飢えと寒さ、恐怖の中で、彼の足を動かしていたのは、勝流から渡された鞄だった。
鞄の中には、アルデルトが設計した図面、クラウス課長のメモ、試作案などをかき集めた資料が詰め込まれていた。
やがてアメリカ兵が近づき、ハンスを捕虜として拘束した。
その際、ハンスは必死に鞄を離そうとしなかった。
業を煮やした米兵が銃で脅すも、それでも手を放さない。
見かねたアメリカ軍の将校が制止し、ハンスに声をかけた。
意外にも、その将校は流暢なドイツ語を話した。
ハンスは驚きつつ、テント内での尋問へと連れて行かれた。
「鞄の中身を見せていただきたい。もし問題がなければ、そのまま持っていて構わない」
ハンスは掠れた声で懇願した。
「……この鞄には、今の私にとって命よりも大切なものが入っています。だから、簡単には渡せません……ですが、あなたが命を懸けて、決して約束を破らないと誓ってくださるのなら、この鞄を預けます」
「その約束とは?」
「誰でも構いません。この鞄をアメリカの技術士官に渡してください。そして、決して無下に扱わないと……命を懸けてでも、誓っていただきたい」
技術士官という言葉を聞いた瞬間、アメリカ軍の将校は悟った。
(鞄には、おそらく兵器に関する重要な資料が入っている)
その時点で、ハンスと鞄の重要度は一気に跳ね上がった。
将校はためらわなかった。
「分かりました。命を懸けて、決して約束を破らないことを誓いましょう」
ハンスはその後、収容所へ送られた。
しかし、元陸軍兵器局の技術士官という経歴が買われ、戦後まもなく釈放された。
それからは、ハンスの人生、その第二幕が始まった。
「もう一度、ゼロから始めよう」
ハンスは、ドイツ連邦軍の創設して間もない技術部門に参加し、戦後のドイツにその身を捧げた。
自らの設計思想、そして亡き仲間たち。
アルデルト、クラウス課長、そして、亡くなってしまった技術者たちの意志を胸に。
ハンスは再び図面を引いた。
生き残ったエアハルトも後年、同じ部署に復帰した。
2人は若き技術者たちを指導しながら、新たな開発に没頭した。
それから半世紀の歳月が流れた。
彼らはついに成し遂げる。
「ついにできたぞ……理想の自走砲が!」
試験場の地面を振動させながら、巨大な砲が姿を現した。
Panzerhaubitze 2000。
自動装填装置、先進の射撃管制、50kmを超える長大な射程、圧倒的な機動力。
「素晴らしい自走砲です。世界最強と言っても過言ではないでしょう」
ハンスの副官、ドミニク中尉は言った。
「えぇ……やっと、やっと」
「……そうですね」
「クラウス課長の目指した未来が、今ここにある。そして」
ハンスは、ハンカチで目を拭った。
「……アルデルト中尉の意思、記憶、記録は……確かに、今ここに」
「PzH2000は間違いなく歴史に名を刻む自走砲です。ハンス課長、どうか誇ってください」
「いいえ。私なんか……自走砲の基本的な設計概念は、アルデルト中尉が作ったようなもの。私はそれを使っただけです。称えるべきは、間違いなくアルデルト中尉です」
「しかし、PzH2000の設計基盤を作ったのは、ハンス課長では?」
「…………」
長い沈黙。
二人の間には、微妙な空気が漂った。
「その……実は……言いにくいのですが。秘密にしてくれますか」
「誓って、必ず」
「実は、PzH2000の基本設計は……」
ハンスは耳打ちした。
その内容は、驚くべきものだった。
「嘘だろ……」
この時、ハンスが何を話したかは、当人達のみ知る。
「では、予定通り。車の運転を頼みます」
「承知しました」
風が木々を鳴らす中、老いたハンス、ハンス・エーベルハルト大佐が、墓石の前に立っていた。
「お久しぶりです、エアハルト課長。例の自走砲が、ついに完成しました」
墓は静かに佇んでいる。
「間違いなく、私の生涯で一番の出来栄えです。アルデルト中尉、クラウス課長、第4課のみんなにも見せたかった……」
彼は手袋を外し、墓石にそっと触れた。
風が白髪を揺らす。
「最近は目が悪くなりましてね。老眼ってやつです。もう車も運転できません。今日も、部下に頼んでここまで来ました。エアハルト課長ならきっと、じじいになったなって笑うでしょう」
彼は少しだけ笑い、目を細めた。
しばしの沈黙。
やがて、ハンスは背を向け、歩き出した。
「また来ます。今度は、完成した自走砲に乗って来ますよ……さてと、次はアルデルト中尉の元へ」
風が吹いた。
遠くで、誰かの声が確かに響いた気がした。
ハンスは足を止め、墓石に振り返った。
「……えぇ、もちろんですとも。じじいなりに頑張りますよ、エアハルト課長」
青い空。
その下を、ゆっくりと去っていく、老兵の背中があった。
「お待たせしました。次はシュピーレンベルクへ」
「承知しました。ところで、お聞きしたいのですが」
「なんでしょう」
「その……アルデルト中尉は、自走砲の基礎を築いた人物なのでしょうか」
「その通り」
「では何故、これほどまで認知されていないのでしょう?もっと名前が残っていてもいいと思うのですが」
「ふむ……」
ハンスはずっと、アルデルト中尉の名を残そうと努力してきた。
それでも、名前はなかなか歴史に残らない。残ってくれない。
「……本を書く、というのはどうだろうか」
「良い案だと思います。ハンス課長だからこそ、アルデルト中尉のことだけでなく、当時のことも書き残せるはずです」
ハンスは、かつてのクラウス課長の言葉を思い出し、ポツリとつぶやいた。
「後世へ繋げること……では、書いてみましょうか」
「ぜひお願いします。私も読んでみたいです、ハンス課長の本を」
「生い先短いじじいだから……やってみようと思う」
ハンスはメモ帳を取り出し、思いついた案を書き記した。
『失われた兵器』




