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第29話 時空のたもと

(ここは……天国か、それとも地獄かな)


目を開けると、勝流は幅広い廊下に立っていた。


両側には扉、扉、扉。

木目の浮いた黒い古扉、金色に塗られた艶やかな扉、鋼鉄のリベットが並ぶ工業的な扉。

色も形も素材も、すべてがばらばらだ。


廊下の先と言うと、遠近感は頼りなく、果てが霞んでいるように見える。


(あの世?ここが?……確かに撃たれて死んだはず。とはいえ、アルデルトに憑依していたのだから……まずいな、考えれば考えるほど分からん)


勝流は、呆然と立ち尽くした。


ひとまず歩いてみようとする、その時だった。


「ずっと見ていました、あなたのことを」


唐突な背後からの声。

振り返ると、そこに立っていたのは……憑依してから、毎朝見ていた顔だった。


「……あなたは」


紛れもない、アルデルトだった。


「何も言わなくても大丈夫。全部見ていましたから」


「……あの、ここは……一体」


「それが、私にも分からないのです。目を覚ますと、時々この廊下に立っている。それだけ」


二人は並んで歩き出した。

足音は吸い込まれ、天井はどこまでも高いように見える。


「その、一応お聞きしたいのですが。アルデルト……あ、いえ、アルデルトさんは」


「アルデルトで構いません」


「では……アルデルト中尉。アルデルト中尉は亡くなっているのですよね」


「それは勝流さんが憑依した時?それとも、あなたが生きている現代より80年も前のこと?」


「後者の方です」


「なら間違いなく、私は死んでいます」


「では、ここはあの世でしょうか」


「……断言できませんが、あの世ではないようです。言うならば、あの世と現世との境目かもしれない」


「では、あの世は別に存在する?」


「……知りたい?」


「……いえ、自分が行く時の楽しみに取っておきます」


この会話を口火として、勝流はありったけの質問を浴びせた。

ここで勝流の悪い癖が発動し、アルデルト自身のことではなく、開発した兵器やその経緯など、そういったことばかり質問した。


質問攻めが一段落したタイミングで、気を利かせたのか、アルデルトから切り出した。


「私は、何も残せずに死んでしまった人間だと思っていました」


「それは違……いや」


「いいのです。兵器の名前は歴史に残る。けれど、設計者の名前が出ることは滅多にない。自走砲は確かに良い機械だった。しかし、誰が作ったのか、というのは残りにくい」


勝流は小さく頷く。


「勝流さんは、全部やってしまう人だ。本来であれば、民間の企業に委託してもいいことですらやってしまう」


「自分でも信じられないくらいには、仕事をしてましたね……社会人やってる時よりよっぽどね」


アルデルトはふっと笑む。


「ヴァッフェントレーガー、あれが一番好きでした」


「史実より早く量産して、戦果も上げました。でも……」


「でも?」


「ほとんど残らなかった……放棄され、鹵獲され、前線で燃え尽きて。残酷です。けれど、その残酷さが良い兵器を生むのもまた真実で……」


「アルデルト・ヴァッフェントレーガー。この名を覚えている者は、もうほとんどいないでしょうね」


「少なくとも、私は知っています。経緯も、失敗も、工夫も、全部」


アルデルトの目がほんの少し緩む。


「うれしいですね。私のことを知っている人に、初めて会えた気がします」


ふと、勝流は前方の二枚の扉に気づく。

他の扉とは違う、異質な存在感を放っていた。


ひとつは、塗りつぶした真っ暗闇のような黒で、もうひとつは目に痛いほどの黄色だ。


「あの扉は……というか、この大量にある扉は?」


「私が調べた限り、扉の先は違う世界線のようですね」


「違う世界線!?なんだか凄い場所ですね……では、あの黒い扉は?」


「あれは、あなたと同じ日本人がドイツの軍人に転生し、第二次世界大戦を勝利へ導こうとする世界」


「そんな世界線が存在するのか……じゃあ、結果は?」


「神のみぞ知る」


「では、黄色は?」


「それもあなたと同じ日本人。しかも有名な政治家が、ヒトラーに転生する」


「……果たしてどんな展開に」


「さぁ?ただ、意外と上手く動いているようで。私の案は、予算の無駄と切り捨てられそうですが」


さらに少し進むと、古風な灰色の扉がひとつ。

装飾は質素で、金物だけがやけに重そうに見える。


「あれは古い。ドイツ軍の士官学校の生徒に転生し、功績を重ねていく物語……だが途中で途切れている。結末は誰にも分からない」


永遠に続くと思われた、廊下の尽きる場所が近づく。

そこには、赤と青の扉が寄り添うように立っていた。

赤は落ち着いた深紅、青は水面のように微かに光を返す。


「ここで終点です」


勝流は察した。

この2枚の扉、これらのどちらかが、自分が入る扉なのだと。


「赤はこのまま。本来の自分ではなく、私、アルデルトとして生きてゆく道。青は……未来へ戻る道」


勝流は喉を鳴らす。


「私の認識が正しければ、胸を撃たれて死んだはずです」


「その通り。しかし、あなたは私よりも意思が固いようです。奇跡的に生きている。あの身体は今、生死の境を彷徨っている。自分で布を巻き、出血を抑えようとしている。まもなくソ連兵に拾われるでしょう。けれど、その後は……分からない」


沈黙が落ちる。


未来に帰れば、いつもの日常がある。

休日は歴史探求、平日は生きるための労働。

刺激は少ない。


だが、あの戦場に残れば、技術者として使い潰されるか、その場で撃たれるか。


「迷っていますね」


「正直、未来に帰っても退屈な毎日が待っている。ならいっそ」


「勝流さん、未来は変わっていますよ」


「……どれくらいでしょうか。自分で言うのもなんですが、それほど歴史に影響を及ぼしたとは……」


「少しだけ、変わっています」


少し。ほんの少し。

それでも、ゼロではない。


勝流は息を吸い、目を閉じる。

脳裏にエンジンの鼓動、ハンス中尉の声、クラウス課長の声、火薬の匂いがよぎる。


(捕まれば、技術者として一生を拘束されるかもしれない。けれど、未来が少し変わっている。それなら……)


「決めました。私は見たい。アルデルト中尉の言う、少し変わった未来を。歴史を」


「では、青い扉を」


手を掛ける。ひやりとした感触。

扉が音もなく開き、眩い光が流れ込む。


光の中で、アルデルトが声を張った。


「勝流さん!未来でまた会いましょう!」


アルデルトは、未来へ戻る勝流に手を振り続けた。




目が覚めた。


四角い壁。

コンクリートの匂い。

空地のような場所。

東の空が白んでいく。


夜明けの時間。


現代の匂い。


(……本屋だったはずだ)


憑依の始まりを、ぼんやり思い出す。

あの本屋は何だったのか。


今更ながら、アルデルトに聞いておけばよかったと苦笑した。


「帰ろう」


自宅。

玄関の鍵を回し、薄闇の廊下を抜ける。

洗面所の鏡に、義務的に確かめてきた「いつもの平たい顔」が映る。

生気のない顔。


PCの電源を入れる。

ファンが回り、モニターが灯る。

メールはない。

カレンダーは日曜日を示している。


明日からまた1週間、労働が待っている。


(とてつもなく長い夢を見ていた気分だ……あれは本当に現実だったのだろうか)


ブラウザを開く。

いつものブックマーク。

いつもの戦史サイト。

いつもの資料のPDF。

どれも変わらない。


そう思った矢先、視界の端が引っかかった。


(……ん?)


スクロール。

クリック。

もう一度スクロール。


そこには、見慣れない一項が挿まっていた。


アルデルト・ヴァッフェントレーガー

設計者:ギュンター・パウル・アルデルト


高精細な写真。

試験場での側面図。

採用理由と、戦術面の評価。


開発経緯の注記には、見覚えのある語句が並ぶ。

クンマースドルフ。

兵器局第4課。

補給性。

整備性。

自走砲の利点と技術的な限界。


さらに項目が増えていた。

ギュンター・パウル・アルデルトの簡易的な伝記であった。

注釈の末尾に、見覚えのある万年筆の銘が、小さく記されている。


歴史に名が刻まれていた。

作った機械とともに、技術者のその名が。


勝流は椅子の背にもたれ、天井を見た。

呼吸が深くなり、肩の力が抜ける。


(少しだけ、変わっている)


青い扉の前で受け取った「少し」が、確かにここにあった。

勝流はゆっくりとモニターに向き直り、キーボードに手を置いた。


検索欄に文字を打つ。


Aldert Waffenträger


Enter


未来は少しずつ書き換えられていく。

勝流は、その少しに、確かに刻めた気がした。

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― 新着の感想 ―
>「あれは、あなたと同じ日本人がドイツの軍人に転生し、第二次世界大戦を勝利へ導こうとする世界」 転生先は総統でも貴族でもなく士官候補生だった話かな? >「それもあなたと同じ日本人。しかも有名な政治家…
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