どこからどこまでが世界で、どこからどこまでが自分なのか
令和七年五月五日(月)
ぶおおお、絶景なり、伊吹ちゃん。伊吹山に長女と二人で行ってきました。滋賀県から岐阜県にまたぐ標高1,377 mのお山である 。僕は、このお山がけっこー好きで、これまで幾度となく登ってるっす。僕は、仕事が建て込んでいる時こそ休日はじっとしていないでおもっきり遊ぶ派です。忙しい時ほど仕事に費やしたのと同じふり幅で全力で遊びに自分を振ることが肝心。そうすれば同じふり幅でブンっとまた仕事側に戻ることが出来る。この場合の振り幅は時間ではなく濃度ね、あくまで濃度。
人は何故山に登るのか? そこに山があるからだあ。と答えたのは、伝説の登山家ジョージ・マロリー。あんらあ、ずいぶんアバウトな動機で命賭される殿方だんわあ。しからずんば、僕は何故山に登るのだろう? せっかくなので自分の動機を考察してみよう。思うに、山頂に立つと鳥の視点でこの星の丸みを眺めることが出来るよね。その景色には独特の恍惚感があるよね。よくよく考えると、僕は単純にその恍惚感に浸りたいだけなのだ。ははは。お山の上から下界を見下ろせば。どこからどこまでが世界で、どこからどこまでが自分なのか。何だか外界と内界が曖昧になるような。まるで自我とういものが精気となって砕け散り、世界に溶け入ってしまっているかのような。その一瞬はいわゆる「我を忘れる」とかそんな現実逃避的なものでは決してなくて。自分はこの世界の精気の一粒として確かに存在するのだということを実感しているかのような。てかさ。例えばさ。焚火やキャンドルをじっと見ている時の、炎と自分が混じってるような感覚とかさ。船の上で海釣りをしている時に、自分が海の一部になっているような感覚とかさ。祭りやライブやスポーツ観戦で群衆が一体と化し、ひとつの生き物になったかのような感覚とかさ。どこからどこまでが世界で、どこからどこまでが自分なのか。まあ、山に限らずとも、そういった類の恍惚感ってのは、実は結構日常に転がっていているものなんだけどね。でもやっぱ、お山は格別だよね。
ちなみに酒やセックスに溺れたりドラックを喰って得られる恍惚感というのは、一瞬「自分がゼロになる」かのような錯覚があるのだが、見えてくるのは「自分」ばかり。どこからも、どこまでも、自分、自分、自分。「逃げ惑う自分を凝視する自分」を自ら仕立て上げるという最悪の自分。らしい。僕が申す山のそれとは、対極に位置するものではないかと思うのである。
盛大にパラシュートを開いたものの一体どこに舞い降りたいのかよく分らない内容になってしまいましたが。大丈夫、着地点は決まってっから。そんなこんなで。どんなこんなで。要するにだ。僕が何を言いたいのかってえとだ。
そしてまた、山、登らずにいられない。
ちゅーこってありんす。




