骨
令和七年三月二日(日)
四十一歳の時の、父との思い出。
マイホームのリビングの電動シャッターがゆっくりと巻き上がると、庭一面に薄っすらと粉雪が積もっていた。天から放たれた光の矢が雪に跳ね返って乱反射をする。そのうちの数本が寝ぼけまなこに向かって飛んでくるので、さっと右手で払い除ける。窓を開ける。真冬の寒気が皮膚をぎゅっと掴む。大きく口を開けて朝を深く吸い込むような、吐き出すような、そんなあくびをひとつ。
インターホンが鳴った。誰だろう、こんな朝っぱらに。機能門柱のカメラで敷地の前面道路を見る。誰も映っていない。誰だよ、まったく。まさかの早朝ピンポンダッシュ? 恐る恐る玄関扉を開けて外を確認する。
父だった。
心臓が止まるかと思った。玄関扉の真裏に張り付くように父が立っていた。紳士用のダサいハンチング。薄汚れたダウンジャケット。右手に杖を突いた老人。それが父だと判断するのにしばらく時間を要した。約二十年ぶりに会った父は、干からびて、ヨレヨレで、まるで海岸のテトラポットに絡まったまま乾燥した海の藻屑のようだった。
「お父さん、他人の敷地に無断で侵入したらあかんがね。て言うか、僕がここに住んどることをなんで知っとる」
「お母さんがこっそり住所ば教えてくれたんしゃ。にっちもしゃっちもいかんくなったら、ここば訪ねて、キューに頼りんしゃいって」
「ふーん、で、何か用? お金なら一円たりとも貸さんよ」
父が杖を持っていない左の手で「違う、違う」のゼスチャーをする。そこから長い沈黙。二十年ぶりに会ったからか、元々こんな感じだったか、僕たちは、随所に生まれる長い沈黙を持て余しつつ会話を続けた。
「風ん噂に聞いたばい。死んだんか」
「あ、その件ね。うん、死んだわ」
前年の十二月二十四日、僕の母は交通事故で亡くなった。
「そうか、死んだか」
長い沈黙。
「なんかね、お母さん、ずっと愛しとったみたい」
「そりゃ、お前んことは溺愛しとったけんな」
「ちゃうて。お母さんはあんたのことを誰よりも一途に愛しとったみてゃーだわ」
「え」
「離婚してからもずっと」
「本当か?」
「悔しいけど」
「よっしゃあああああ」
海の藻屑が、手前に引くタイプのガッツポーズをして大声で叫ぶ。
そしてまた長い沈黙。
「今、どこで何をしとるの」
「ゆわん。無駄に心配ばしゃしぇてしまうけん」
「ちなみに、その足は、どうしたの」
「数年前に右膝が反対側に曲がるごとなって歩けんくなってから。病院で人工関節ば入る手術ばした。その時に障害者手帳ば貰うた。今は国から保護ば受けて何とか生かしてもろうとう。今もあん街に住んどーばい。何だか最近左膝も在らぬ方向に曲がるようになってから、どうもならん」
藻屑は、結局、粗方の近況報告をした。
沈黙。
「実は僕たち、子供が生まれたよ。赤ちゃん、抱っこする?」
「やめとくばい。俺ん馬鹿がうつったら大変や」
「なるほど、そいつは大変だ」
あ、そうそう、ちょっと待ってね。僕は、ふと思い立ち、奥の部屋から今後の処理をどうしたものかと考えあぐねていた木箱を持ち出す。この際だから父に託してしまおう。
「はい、これ、お母さんの骨。いる?」
「え、よかと?」
「どうぞ、どうぞ。あんたはこれまで散々お母さんに苦労を掛けてきたで、その罰として、あんたが死ぬまで毎日お母さんを手元で供養してちょう」
「うん。そうする。ありがとう。サンキューな」
父は、嬉しそうに母の遺骨を受け取ると木箱を首から下げた。
「あんたが死んだら、その時は僕が責任持って、あんたとお母さんを同じお墓に入れてあげやーす」
「ありがたか。これでお母さんと死んでも一緒や。俺、もう寂しゅうなか。ね~お母さ~ん」
骨壺を開け、母の骨に語りかけている。
とても長い沈黙。そして僕たちは、ほぼ同時にお互いを呼び合った。
「お父さん」
「キュー」
「色々あった。途方に暮れるほど色々あったけれど。楽しかったか楽しゅうなかったかの二択で考えると、あんたとお母さんと僕の三人で、それなりに楽しい毎日だったのかもしれん」
「おう。楽しかった。ハチャメチャでご機嫌な日々やった。なあキュー。青春って何やろう。俺、上手う言えんばってん、ついしゃっきお母さんの骨ばお前から譲り受けた瞬間、俺たちん長か青春んごたもんが今やっと終わった。俺、そげん気がしたばい。俺、金輪際ここには来んばい。キューよ、今生の別れや」
「死んだら言ってね、お父さん」
「うん。死んだら必ず連絡する」
そう言い残し、父は不器用に杖を突きながらヨタヨタと駅の方へ歩いて行った。
玄関扉を閉め、履いていたサンダルをパンパンと叩き、つま先についた粉雪を落とす。その時、またインターホンが鳴った。あれ、ひょっとして父が戻って来たのかな。まさか。忘れ物など無い筈だが。再度扉を開けると、門柱の前にお隣の花木さんのご主人がいた。
「これはこれは花木さん。おはようございます。今朝は何か」
「あの~、先ほど不審者って感じの男が、お宅の敷地をウロウロしとったけど……」
ご主人が、心配そうに我が家の敷地を覗き込む。
「ご心配なく。彼は不審者なんかじゃありません」
遠くを見ると、アンバランスで危なっかしい歩行をする父が、駅への曲がり角を曲がるところだった。
「でも、見るからに怪しい老人で……」
「彼を侮辱しないで下さい。彼は僕のベストフレンドです」
やがて吐く息の真っ白の向こうに父は消えた。




